第115話 実習と経験
研修五週間目。
研修期間の半分ほどが経過して、生徒全員が魔力操作をできるようになった。
ただしゴルトバ伯爵に関しては怠惰病治療ができるほどの魔力操作はできていない。
というかできる気配がまったくない。
他の生徒の魔力が300から900くらいだとすれば、伯爵は20くらい。
うん、20なんだ。ギリギリなんだ。
ちょっと放出するだけで気絶してしまうんだ。
通常、魔力の素質がある人であれば、魔力放出をして、怠惰状態になるものだ。
しかし伯爵は半ば強引に魔力を絞り出したせいか、ちょっと魔力放出するだけで怠惰を通り越して、失神したり、身体中の力が抜けるみたいだ。
このままだと伯爵が他の生徒達と同じレベルに達するには、数ヶ月では無理と判断した僕は、実習を始めることにした。
まあ今の時期になった理由はそれだけではないが、それは後で語ろう。
伯爵には申し訳がないと思っていたんだけど、彼は魔力操作ができたこと自体が嬉しく、治療までいけるとは全く思っていなかったようで、実習に快く了承してくれた。
それと問題児グループ以外で魔力放出ができなかったサボり組は、辞退して本国に帰った。
最初からそのつもりだったんだろうな。
何だか大学時代を思い出すな。
なぜか卒業前に中退した人もいたし、入学して数日でいなくなった人もいた。
彼等は一体、何をしにやってきたんだろうか。
彼らなりの理由があるのだろうけど、そこに至るまでの道程は決して平たんではなかっただろうに。
結構なお金もかかっているのに。
残念だという思いもあるけど、個人個人に事情はあるから、何か言うことはない。
結局、今残っている人はある程度はやる気がある生徒ばかりだ。
ということで。
僕達は少し前まで使われていた、怠惰病治療施設の一つに集まった。
現在では、大半の施設において、怠惰病患者の半分近くは退院している。
主目的は治療ではなくリハビリになっている。
もちろん僕が治療した人達以外でも、毎日のように怠惰病にかかる人もいる。
王都やイストリア以外の村や街に住んでいる人が、王都へ足を運び、治療を頼んでくることもあるし、国内だけでなく、他国からわざわざやってくるもいる。
基本的に自分で治療を頼みに来る人に対して制限はない。
王都内の人間をほとんど治療したから、一気に人が集まることはないからだ。
そのため休日でも治療をする機会もある。
「先生、ここが怠惰病患者の施設のなのか?」
イザークがきょろきょろと辺りを見回している。
落ち着かない様子だ。
それは他の生徒も同じだった。
今日はウィノナやエゴンさんも同行している。
ウィノナはずっと僕の手伝いをしていたので慣れたものだ。
エゴンさんは……常に落ち着いているからわからないな。
「ええ。とはいえ、ほとんどの患者さんは僕が治療したので、大半の患者さんはリハビリをしていますけど」
「でも、怠惰病に罹っている患者もいるんでしょ?」
「エリスさんの言う通り、怠惰病に罹っている患者さんはいらっしゃいますよ。
その方を治すためにここに来たんですからね」
僕が言うと、みんな緊張を顔に滲まませた。
それはそうだろう。
話で聞くのと、実際に体験するのでは全く違う。
それに医療の現場は独特の空気感がある。
なんというか、非現実的な、普段は目を背けているような世界。
そこに足を踏み入れたような感じ。
居心地が悪く、妙に疲れるような感覚がある。
慣れた僕でも多少、そんな違和感があるくらいだ。
看護師や医者達は忙しなく働いている。
懐かしいな。
ここで治療に勤しんだ記憶も新しい。
あの時とは違って、活気があり、施設内の空気は悪くない。
重苦しいような空気で満たされていたあの時とは全く違っていた。
と、僕達を見つけた一人の老人が慌てて駆け寄ってきた。
怠惰病治療ではお世話になったロウ医師だ。
「おお! シオン様、お久しぶりです!」
「ロウ医師。お久しぶりです。すみません、無理なお願いをしまして」
「いえいえ。私達がすることはあまりありません。
患者さんのために個室を用意するくらいで……。
申し訳ない。シオン様にお任せしてばかりで」
「いいんです。僕にできることとロウ医師や看護師さん達にできることは違うはずです。
僕にできることは限られていますから、そこで全力を尽くすだけです。
ですからそんな風に思わないでください。僕もみなさんに感謝してますから」
「……シオン先生……ありがとうございます……」
ロウ医師の笑顔に僅かな憂いがあった。
しかしそれは悲しみではなく、ただ僕への気遣いだった。
後ろ向きじゃない。だからそれは悪いことではない。
「い、医者が先生に謝ってるぞ」
背後で誰かが呟いた。
生徒の一人がつい漏らした言葉らしい。
この世界において、医者の地位は非常に高い。
医者は希少で、医者になるには相当な技術と学力とコネなどが必要だ。
貴族から医者になる人が多いが、平民も医者になれる。
平民であろうと医者になった時点で、貴族と同列の地位に上がる。
特別、爵位を与えられるわけではないが、医者という存在はそれだけ重要な職業なのだ。
中には勘違いして偉そうにする貴族もいるが、自分の命を預ける相手に高圧的にする人間は少ない。
よほどの物知らずか馬鹿か、王族並に高位な存在だけだ。
ただしへりくだるわけではないことを忘れてはならない。
医者は尊敬され、確固たる地位を築いているが、それは治療に関してのみで、それができない場合は、一気に地位は下がる。
とにかくそういう理由から、生徒達は驚いたのだろう。
医師の僕に対する態度を、目の当たりにしたのは初めてだろうし。
女王と普通に話す間柄だと言ったらどんな反応を見せるのかちょっと気になるな。
「それで患者さんは?」
「奥の部屋に。空き室が増えていますので、周囲の部屋には患者はいません」
「立ち合いはロウ医師がしてくれるのですか?」
「ええ。それと何人か助手と看護師を呼んでいます」
ロウ医師の後ろに何人かの看護師達が並んでいた。
僕と目があうと、みんな慌てて頭を下げる。
ロウ医師以外は初対面だな。
治療時の体制は急造だったし、治療を終えると、リハビリが始まる。
そのため治療時とは違う人員配置になるのもおかしなことじゃないか。
「よろしくおねがいします」
「は、はい。よろしくおねがいいたします」
看護師達は恐縮した様子だった。
妙にかしこまってるな。
どうしたのだろうか。
「失礼。彼等は緊張しておりまして……。
怠惰病治療をなさったシオン先生と直接お会いできる人間は少ないですからな。
今日もこの施設だけでなく、他の施設や診療所から、シオン先生の助手をしたいと立候補する人間も少なくありませんでしたので」
「そ、そんなに大層なことをする予定はないのですが」
「実習を見たいというよりは、恐らくはシオン先生に会いたいだけでしょう。
医療界隈ではシオン先生の名前を知らない人間はいませんからな。
有名人に一目会いたいという感じかと思いますよ」
ロウ医師は困ったものとだと目を伏せつつも、ちらっと僕の顔色を窺った。
いや、別に嬉しくないよ?
「……ちなみに若い、美人の看護師も少なくありませんでしたよ」
嬉しくないです、はい。
……いや、ちょっと嬉しいかもしれない。
不意に視線を感じて看護師達を見ると、慌てて顔を背けた。
ロウ医師の言葉通り、もしかして僕は有名人になってしまったらしい。
自覚はなかったけど、考えてみればそうなっても仕方がないか。
そう仕方がないんだ。
なぜか後頭部に視線を感じる。
ばっと振り向くと、ウィノナがジト目を僕に向けていた。
しかし僕が振り向いたことに気づくと誤魔化すように視線を泳がせた。
なんだ、今の反応は。
何を調子に乗ってるんだ、ということですか、ウィノナさん。
いや、僕は調子に乗ってないから。
「そ、そ、それはそれとしてですね、患者さんのところへ案内してくれますか?」
「はい、では参りましょうか」
「お願いします。みなさん、病院内では静かにしてくださいね。
騒いだり、無闇に物に触れたらダメですよ」
生徒の大半はコクコクと頷いてくれた。
ロウ医師の案内の下、僕達は施設を進む。
物珍しそうに観察する生徒達を見て、僕は微笑ましく感じると同時に不安を抱く。
絶対にこの後、面倒なことになるんだよなぁ。
嫌だな。また無駄に時間を割かれるんだ。
そう思うと頭が痛いけど、避けては通れないことだ。
むしろここでクリアしておかないと、卒業後の彼等や彼等の国、そして患者にも悪影響を及ぼす。
できれば何事もなく過ぎて欲しいところだ。
少しばかり考え事をしていると、目的の病室に到着したようだ。
比較的広い部屋だ。
「こちらです」
扉を開けると、三つのベッドが等間隔に並んでいた。
その中央だけ使われており、患者さんが横たわっている。
二十代くらいの男性だ。
彼は目を開いたまま天井を見上げ、瞬きもしないでじっとしている。
その横には奥さんらしき若い素朴な女性が座っていた。
彼女は僕達に気づくと、慌てて立ち上がり、勢いよく頭を下げた。
僕もほぼ同時にお辞儀する。
「こ、こ、こんにちは」
「はじめまして。
本日怠惰病治療研修の責任者を務めさせていただきますシオン・オーンスタインと申します。
今日はお世話になります」
ちらっと背後を見ると、頭を下げているのはマイスだけだった。
まあ、そりゃそうだ。
挨拶で頭を下げる貴族なんていやしない。
伯爵は挨拶をする前に、じっと患者の男性を見ていた。
怠惰病患者を間近で見るのは初めてなんだろうか。
「突然の申し出にも関わらず、承諾してくださり、ありがとうございます」
僕が言うと奥さんは恐縮したように何度も頭を下げた。
彼女にはすでに事情が伝わっているらしく、子供の僕相手でも別段驚いたような素振りはなかった。
「い、いえ。しゅ、主人も喜ぶと思いますので。
そ、それにち、治療してくださるんですよね?」
「ええ。先に話した通り、長くとも一週間の内に治療しますよ」
奥さんは安堵したようにため息を吐いた。
それはそうだろう。
不安でしょうがないに決まっている。
「では、診察と治療をゆっくりと行います。当然、身体に負担がかかるようなことはしません。
常に僕が見てますので安心してください。何かしらの問題が出た場合すぐに中止しますので」
「も、問題!?」
「いえあくまで例えばの話です。
今まで治療した患者さんの中で、治療時に急変した人はいません。
それに一万人以上の治療を行いましたが、一人として治療できなかった人はいませんよ」
僕が言うと、奥さんは再び胸をなでおろした。
「何か質問があればお答えしますよ。ご遠慮なく聞いてください」
「い、いえ。大丈夫、です。あっ。あの、その保証金は」
「もちろん出ます。協力してくださるのですから当然ですよ」
「そ、そうですか。で、では……他には質問はありません」
奥さんは少しだけ気まずそうに俯いてしまった。
僕は彼女を安心させるように落ち着いた声音で言葉を繋げた。
「では、始めさせて頂きます。奥さんは少し離れた場所から見ていてください。
じゃあ、みんなこっちに集まって」
僕は生徒達に向き直った。
しかし、彼等の反応は芳しくなかった。
全員ではないが、大半は戸惑いを覚えていたのだ。
僕は、ああ、やっぱりな、と思った。
だって。
「……先生。患者って平民じゃないか?」
誰ともなく言ったその言葉に生徒達が同意を表すように、僕へと視線を向けた。
そう。患者は平民だ。
マイス以外は貴族である生徒達が、平民の患者を治療する。
僕の感覚ではどこに問題があるのかと思うが、彼等の感覚では全く違う見解を持つ。
想定していた。
だから思ったのだ。
面倒なことになるだろうな、と。
もう何度も貴族と平民の関係性は目の当たりにしている。
面倒だから、仲良くしろよと思うが、そんな簡単なことじゃない。
想定はしていたので、僕は落ち着き払っていた。
僕は生徒の問いに、淡々と答える。
「ええ。そうです。平民の方ですよ」
「平民を僕達が治療するのか!? 貴族である僕達が平民を!?」
「そうですね。そうなりますね」
室内がにわかにざわつき始める。
この事態は僕は想定していた。
そして当然ながら、僕はロウ医師や協力してくれた患者の家族にも話してある。
研修生は大半が貴族で、平民の患者を治療する際に、間違いなくもめると思うと。
双方に驚きはなかった。しかし抵抗感はあったように思えた。
それはそうだろう。
自分の家族や患者を治療したくないと愚図る相手を前にして、不快に思わないはずがない。
その上で、患者さんは何とか了承してくれたのだ。
僕はロウ医師に目配せをした。
すると彼は患者の家族を部屋の外に連れて行った。
「じょ、冗談じゃないわ! あ、あたし達、貴族がどうして平民なんかを!」
「そうですよ、先生! 幾らなんでも平民相手なんて」
「貴族が平民を治療する? 俺達は世話係じゃない!」
治療をしてあげるのか、治療をさせてもらうのか。
治療は施しなのか、それとも世話をするということなのか。
それはとらえ方による。
彼等は治療自体は重要なものだと理解している。
しかし治療はどうしても相手に触れる。
それは貴族である彼等が、平民に触れ治療する。
そこに抵抗があることは予想できていた。
一人、二人と不満を口にすると、次第に生徒の大半は僕に対して文句を言い始めた。
貴族は高貴だ、平民なんてとのたまう彼等に、僕は溜息を禁じ得ない。
本当に下らないと思う。
重要なのはそこじゃないと思うんだけど。
彼等にとってはそうじゃないんだろう。
「しかも患者の家族は金を貰ってるんでしょ!
自分の家族を差し出して、お金を貰うなんて最低だ!」
なるほど。
自分の家族を差し出したと。
実験体として、金と引き換えに犠牲にしたと。
そう考えているわけか。
「では聞きますが、なぜ彼女が怠惰病治療の実習に協力しようと思ったと思いますか?
自分の旦那さんです。危険なことをさせたくないし、できればすぐに治療して欲しいはず。
それなのに、彼女は協力すると言ってくれたのはなぜだと思います?」
「そ、それは金だろ!」
「金で家族を犠牲にするつもりなんだ!」
生徒達は正義面で何の疑問もなく言い放った。
同じ意見を持つ人もいるだろう。
だが、本当にそうだろうか。
「そうですか。お金は悪だと。なぜです?」
「な、なぜって、家族を差し出して、その対価を貰おうとしてるじゃないですか!」
「そうですね。では無償で協力しろと、あなた達は言うつもりですか?」
「そ、そんなことは言ってません!
ただ、家族を物のように扱っていることは間違いないです!」
短絡的な。
なぜ保障を受けることを間違っていると思うのか。
なぜ家族を物のように扱っていると思うのか。
すべて善意でなければ許せないのか。
医学において、それは崇高なことだからと、金を求めず、自己犠牲の上に成り立たせるべきだと?
バカらしい。
ふざけるなと言いたい。
それは人の善意に付け込んだ最低の行為だ。
「患者さんには危険がある。
僕がまったくもって問題ないと言っても、そう彼女は思うでしょう。
それでも彼女は協力しようとしてくれた。
それは旦那さんを大事に思っていないからではない。
彼女は郊外に住んでいたんです。一人で旦那さんを連れて、王都までやってきたそうです。
二年。彼女は一人で彼の世話をしていた。王都で治療ができると聞き、最近になってここまで来た。
二年も一人で世話をしていた相手を、大切に思ってないと思いますか?
女性が男性を、こんな遠くまで運ぶことの大変さをわかりますか?
彼女は、旦那さんを大切に思っている。それは間違いない。
ではなぜ協力しようとしてくれたのか。お金のためだけですか?
いいえ違います。彼の、患者自身の意向があったからです」
僕は一拍置いて再び言葉を繋げた。
「旦那さんの知り合いに怠惰病に罹った人がいたそうです。
旦那さんはそのことを悲しんでいた。
自分には何もできない。悔しいと話していたそうです。
言っておきますが、お二人以外にも声をかけました。
協力を願えないかと。しかしみなさん断った。当然です。家族の身体を差し出せない。
しかし、それは本人ではないからです。
大事な家族の身体を、実験台にしていいとは誰も言いたくない。
今回、協力をして貰えたのはたまたま旦那さんが優しい人だったから、たまたま病に罹る前に先程のような話をしていたからです。
そうでなければ協力していただける人はいなかったかもしれません。
それと保証金に関してですが。支払うことも受け取ることも当然です。
僕達が無理を言って協力してくれるのですし、患者さんのご家族は金銭的に負担を強いられているのですから。
少しでも保証を得たいと思うのは当たり前でしょう。
平民の中には日々、生きることに必死な人もいます。
お金がなければ飢えてしまうくらいに」
貴族である彼等にはそんなことはわからないだろう。
金を求める人間を批判する人間は、裕福な人間だ。
その自覚がないから、平気でそんなことを言う。
金は大事だ。お金がなければ生きていけない。
僕はどちらかと言えば金に執着がない性格だけど、それでもこれくらいのことはわかる。
「……き、貴族の患者は」
「いますよ。少ないですが。でも協力してくれるという人は一人もいませんでした。
大半は話さえ聞いてくれません。あなた達が同じ立場だったら協力しますか?」
誰も首肯しない。
彼等貴族のこれが総意だ。
自分達は安全圏にいるから偉そうに言えるだけ。
蔑んではいない。
ただなんて愚かな考えなのかと思うだけだ。
さっきまでうるさかった室内に静寂が訪れる。
現状を、少しは理解したのだろうか。
それとも僕に反発心を抱いたのだろうか。
納得いかないが、言葉が浮かばないのだろうか。
こんな状態で実習を始めるのは難しいかもしれない。
やっぱり面倒なことになった。
でも、実際に施設に足を運ばせたかった。
現場を見れば、患者を見れば少しは理解するかもしれない。
そんな甘い考えを持っていた。
やっぱりそれは無理だった。かと言って事前に話して納得させることができたとは思えない。
目の前に患者がいるからわかることもあると思った。
僕がどうしたものかと思案していると、誰かが患者さんの隣に移動した。
イザークだ。
「教科書に書いてある通り。反応がねぇ。本当に怠惰病に罹ってるんだな……」
「お、おい。イザーク。治療をするつもりか?
そいつは平民なんだぞ」
生徒の一人が、イザークを制止するように言った。
しかしイザークは多少の苛立ちを返す。
「ああ、そうだな。平民だ。だけどよ、そんなことはわかってただろ。
俺達は、怠惰病患者を治療するためにリスティアに来た。
怠惰病患者の大半は平民だ。貴族は少ねえんだからさ。
ってか、教科書にも書いてたし、シオン先生も言ってただろ」
「そ、それはそう、だけど」
「今さらガタガタ言うなよ。俺も平民に触るのは抵抗あるっての。
なんで貴族の俺が平民を治療すんだって思う。
貴族と平民が同列だとは思わねぇ。見下してる。
でも、同じ人間だ。生きてんだよ。
俺達と同じように食べて寝て笑ってそうやって暮らしてる。
それができなくなってるのが怠惰病なんだわ。
俺達にしか治せねぇ。それを理解して俺はここにいる。
不満はあるさ。納得もしてない。正直、気が進まないしよ。
でも俺が始めたから最後までやる。そのために頑張ってきたんだろ、俺達は」
彼は、イザークは、彼なりに今の状況を飲み込もうとしていたのだろうか。
怠惰病に罹る人の多くが平民であることは彼等も知っているはずだ。
それでも納得できないのは、多分、実感がなかったんだろう。
イザークがマイスに不満を漏らした時も、彼が平民を見下していたことは間違いなかった。
自分とは違う、貴族は高貴だと。
それでも彼なりに平民であるマイスと関わろうとしていた。
正しくはないし、好ましくはない。
けれど、僕は彼の態度を否定できない。
僕は貴族ではないし、平民に近い考えだ。
だから彼等の葛藤や考えを知らない。
否定すれば、それは貴族が平民を否定すること、見下すことと変わらない。
「俺には貴族としての誇りがあんだよ。
俺の考える貴族はこんなところまで来て、だらだらと文句を垂れたりはしねえ。
俺がここにいるのは俺の意志だ。だから俺は逃げない」
イザークの横顔には明確な意思があった。
彼の眼には強い信念が見えた。
貴族の誇り。
それは彼なりの矜持なのだろう。
僕が彼の立場だったら同じようなことが言えただろうか。
僕は現代の考えに染まっている。
だから人は平等で、格差社会を嫌悪する。
しかし真に平等な社会はなく、平等が正義であるという根拠もまた存在しない。
ただそう教育されて、自分がそういう価値観で生きてきただけなのだ。
その固定観念を覆して生きることは自分を殺すことでもある。
簡単なことじゃない。
そしてそれが正しいことなのかどうかも誰にもわからない。
だから僕は内心でイザークの行動に賞賛を送った。
そしてどうやらそれは僕だけではなかったようだった。
誰かがイザークのところへ歩み寄った。
それはマイスだった。
「じ、自分も、や、やります」
「……ふん、勝手にしろよ」
イザークはマイスを受け入れてはいない。
しかし彼を邪険に扱うことはしない。
他の貴族とは明らかに違う、対応の仕方だった。
「わ、わたしもやるわ」
「わたくしも……やりますぅ」
グループメンバーの行動を見て、動き出したのはエリスとソフィアだった。
二人が動くと自然に、他の生徒達も徐々に患者の傍に移動を始めた。
みんな怠惰病を治療するために集まった人であることは間違いない。
相手が平民であるということ以外には抵抗はなかったようだった。
イザークの行動が、彼等に変化を与えた。
僕が何を言っても恐らくは彼等の行動を変えることはできなかっただろう。
貴族の行動だからこそ、できたことだと思う。
とりあえず授業は続けられそうだ。
僕は人知れず嘆息する。
部屋の端で待ってくれていた看護師に視線を送ると、部屋を出て、患者の奥さんを連れてきた。
家族がいない中での治療はできない。
話は終わったとわかった奥さんは、少しだけほっとしたように見えた。
目の前で悪態をつかれて、平気な人などいない。
彼女にも色々な葛藤があってここにいるのだ。
誰も、無責任に糾弾していいなんて権利はない。
奥さんが部屋の端に移動したことを確認すると、僕は改めてイザーク達に視線を戻した。
「先生! どうすりゃいいんだよ!」
イザークの声を聞き、僕は患者の近くへ移動した。
「えー、治療の実習はグループ毎に行います。まずはグループ毎に集まってください。
治療をしているグループ以外は見学をするか、外に出るようにしましょう」
100近くの人間がいるため全員が集まることはできない。
そのため半分の生徒は外で待ってもらうことにした。
みんな納得したわけではない。
しかしそれぞれ受け入れたようだった。
まずはイザーク達のグループから始めることにした。
ゴルトバ伯爵は見学だ。
「授業でも話しましたが、治療をするには患者に魔力を供給する必要があります。
一気に供給すると患者に負担がかかりますのでゆっくり供給するようにしましょう。
まずは一人ずつ、供給の感覚を掴むために、魔力供給をして貰います」
「いいのかよ。治療しちまって。他の患者はいないんだろ?」
「大丈夫です。治療はできないので」
僕の言葉に、イザークは首を傾げた。
他の生徒もどういうことかと、僕に視線を投げかける。
こらこら教科書を読みなさいよ。
「それぞれの総魔力量と同じ数量を供給できるわけではありませんよ。
帯魔状態、集魔状態、体外放出ではそれぞれ異なった限界魔力量があると教えたはずですが」
今までも何度も開設したが、体内にある魔力を一度ですべて放出することはできず、人によって一度に放出できる魔力量は決まっているということだ。
魔力に命令を送り、体外に放出するに従って魔力自体を消費するため、帯魔状態に比べて集魔状態の方が、集魔状態に比べて体外放出の方が魔力量は少なくなる。
「そういえば、そうだったわね……魔力供給だと集魔状態からの体外放出が必要だから、より少ない量しか放出できないんだったわよね?」
「エリスさんの言う通り、みなさんの総魔力量では体外放出する魔力量は少ないので、患者を治療できるほどの魔力供給はできません。
そして一度の魔力供給で治療水準に達しなければ、魔力は霧散してしまいます。
ですから次に別の人が魔力を供給しても治療はできませんよ。
ということで気にせず魔力供給をしてください」
間隔を置いて供給をすることで治療ができるのならば、僕の魔力が1万しかなかった時でも魔力供給による治療ができていたはずだからね。
魔力は定着しない限りは、すぐに霧散する性質がある。
「でもよ、それだと結局魔力供給をしても治療できないってことじゃ」
「それについては今は気にしなくていいですよ。案があるので。
とにかく今は魔力供給の感覚を掴みましょう」
「なんかわかんねぇけど、わかったよ。えーと、心臓付近に手を置いて魔力を放出して……」
イザークは授業で教えた通りの手順で魔力供給を始めた。
ほぼ全員が体外放出ができるようになっているため供給自体は難しくない。
体外放出ができなくとも魔力供給はできるが、体外放出の感覚が魔力供給の感覚に最も近いため、できたほうが供給はスムーズになる。
その感覚を掴まないと治療は難しいし、調整もできない。
それに健常者や、魔力持ちの人間に魔力供給をした場合は、通常よりも危険が伴う可能性がある。
僕はローズに協力をしてもらい魔力供給の感覚を掴んだけど。
結構な時間をかけて慎重に進めた。
そしてその後、怠惰病患者に魔力供給をして気づいたが、まったく感覚が違う。
患者に対しての魔力供給は魔力が吸い取られるような感覚があるのだ。
その感覚を掴んだ方が、治療は円滑に進む。
そういった理由から、僕は実習に踏み切ったわけで。
一人一人、魔力供給をやっていく。
微妙な空気が漂いはしたが、魔力供給自体は円滑に進んだ。
そして半日をかけて魔力供給の授業は終了した。
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