第37話 第二の思春期

 母さんだけでなく、マリーとも入るわけか。

 彼女はまだ十歳だから、問題ないとは思うけど、母さん同様にやはり抵抗はある。

 姉だからそんなに気にはならない。

 でもまったく気にならないわけじゃない。

 肌を露出していると、思わず見てしまうし。

 とにかく平静を保つしかない。

 大丈夫、僕は冷静だ。

 廊下奥の更衣部屋に入ると、僕は急いで服を脱ぎ捨てる。

 手拭いで恥部を隠すと、すぐに浴室に入った。

 先手必勝だ。

 後手は命取り。


「あらあら、男の子は早いわね」

「もう、シオン待ってよぉ」


 待たない。待ったら危険だ。

 浴槽は丁度三人が入れるくらいの広さだ。

 入り方は普通に入る前に身体の汚れを流して、湯船に浸かるだけ。

 ちなみに石鹸らしきものはある。

 意外だったけど、石鹸自体は地球でも古くからあるし、おかしなことでもないのかも。

 ただ香りは薄目だけど。

 急いでお湯で汚れを流して、石鹸でゴシゴシした。

 しかし汚れはかなり頑固で、なかなか落ちないし、身体中が染みるしで、最悪だった。


「もう! 待ってってばぁ」

「うふふ、滑るから気を付けてねぇ」


 ああ、なんてこった。

 二人とも入ってきてしまった。

 しかし僕は必死で見ないようにして、身体を洗う。

 気配が隣と背後に来た。

 くっ、なんて素早い反応。

 まるでコボルトのようだ。


「お母さんが洗ってあげるわよぉ」


 後ろにいたのは母さんのようだ。

 母さんは僕の了承を得ずに、頭を洗い始める。

 隣では姉さんが、身体を洗っているようだった。


「あうっ! し、染みるわね……」

「でも、ちゃんと洗わないといけないわよぉ」

「わ、わかってるもん」


 普段は野太い声しか聞こえない浴室なのに。

 なんということか。 

 女性の声が聞こえるだけで、全く違う空間のようだ。

 いやいや、何を考えているんだ、僕は。

 二人は母親と姉だ。

 家族に欲情するとかないから。

 ないからね!

 と。

 何か柔らかい物が頭に当たった。

 途端に、僕の顔が熱を帯びる。


「も、ももう、いいから!」


 僕は咄嗟に頭から水を被って泡を落とすと湯船に入った。


「んぅもうっ! そんなに急がなくてもいいのにぃ」


 そりゃ急ぎますよ。

 無防備すぎる。

 家族しかいないんだから当たり前なんだけど。

 でも僕にとっては簡単なことではない。

 例えるなら大人になって年下の母親ができてしまった時のような心境だ。

 或いは、母親の連れ子が女の子だった場合。

 実年齢は違うし、姉さんは僕の精神年齢を考えるとかなり年下だけど。

 ああ、もう何がなんだかわからなくなった。

 とにかくこの時間をやり過ごすんだ。

 少し湯船につかって、すぐに出る。

 これで行こう。

 母さんと姉さんが身体を洗っている間、僕は視線を逸らし続けた。

 見てはいけない。見たらやられるぞ。

 僕は必死に目を細め、明後日の方向を見ていた。

 数分浸かっていると、二人は身体を洗い終えたようだった。

 もう出よう。

 カラスの行水で結構。

 早くこの天国という地獄から逃げるのだ。


「ぼ、僕はもう出ようかな」


 慌てて浴槽から出ようとした。


「あら、だめよぉ。きちんと温まらないと。

 それにせっかく一緒に入れるのに……」


 ああ、母さんがまた悲しそうな顔をしている。

 確かに、これでは一緒に入ったとは言えないだろう。

 せめて少しくらいは一緒に湯船につからないと、母さんは納得してくれそうにない。

 僕は諦観のままに、再び浴槽に戻る。


「じゃ、じゃあもう少しだけ」

「ふふ、ありがとう、シオンちゃん。さあ、入りましょう、マリーちゃん」

「うん。えへへ、三人で入るの初めて、なんか楽しいかも」


 そんな嬉しそうにしないでよ。

 余計に出られなくなるじゃないか。

 僕は二人から目を逸らして、脳内で数を数え続けた。

 あと数分入っていればいいだろう。

 それまで心を無に、そして視線は二人から逸らすのだ。

 それで行こう。

 そんなことを考えていると、母さんに後ろから抱きしめられた。

 またしても後頭部に凶器的な柔らかさの何かが当たる。

 当ててんの? 当ててんの、これ。

 一気に身体中の血液が沸騰してしまう。

 これはまずい。予想以上にまずい。


「お母様にぎゅってされるの好き!」

「あらあら、よかったわぁ。わたしも二人をぎゅっとするの好きよぉ」


 僕もやぶさかではない。

 でも、うん! 好き! とは言えません。

 困るのだ。

 なんか自分の感情がよくわからない。

 母さんをそういう対象として見ているわけじゃない。

 でも完全に母親という風にも見ていないというか。

 言葉で説明するのはとても難しい。

 頭に当たる弾力が、僕の思考を鈍らせる。

 耐えるのだ。

 もう少しだけ、耐えればきっとどうにかなる。


「それにしても二人とも大きくなったわね。

 ちょっと前まで赤ちゃんだと思っていたのに」

「えー? そうかしら。あたしはそんな風に思えないかも。

 もっと早く大人になりたいもの」

「ふふ、焦らなくても、すぐに大人になるわ。

 大人になると、時間が経たないで欲しいって思うかもしれないわね」

「うーん、想像できないわ」

「二人には難しいかもしれないけれど、今の時間を大事にね」


 その言葉は重い。

 僕も大人だった。

 だからわかるけど、時間は有限だ。

 けれど時間の大事さをわかるのは大人になってから。

 そして時間を有効に使うなんてことは、大人でも難しい。

 僕もそれができているとは思えない。


「よくわからないわ」

「いいのよ。わからなくて。ただ覚えておいて。

 今はそれだけでいいし、二人は一生懸命やってるから、今のままでいいのよ」


 それからも普通の会話から、ちょっとしたためになる話を母さんはしてくれた。 

 そういえば、じっくり母さんと話す機会はあまりなかったかも。

 だから、僕は浴槽を出る機会を失ってしまった。

 母さんの話はとてもためになった。

 けど、頭に当たる感触が僕の思考を邪魔する。

 もう、ダメだ。

 限界。

 これ以上は限界。

 色んな意味で。

 そろそろ出よう。


「あ、あたしそろそろ出るわね」

「あらそう? 身体を冷やさないようにすぐに拭いてね」

「う、うん。じゃあシオン、お母様、後でね」


 ああ、なんてことだ。

 姉さんが先に出てしまった。

 今出たら、一緒に体を拭くことになる。

 しばらく時間を置かないといけない。

 僕は去っていく姉さんの足音だけを聞き、視線は逸らし続けた。

 しかし母さんは僕の身体を離さない。

 この優しい拘束から逃れるにはまだ時間がかかりそうだ。

 どうしたもんかと考えていると、頭上からくすくすという笑い声が聞こえた。


「シオンちゃん、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」

「べ、別に恥ずかしがってなんて……」


 母さんにはお見通しのようだ。

 本音がバレてしまい、余計に顔の温度が上がった。

 母さんは腕の力を少し強める。

 僕の頭には母さんの胸が押し付けられる。

 慌てて、母さんを見上げると僕は何も言えなくなってしまった。

 母さんは寂しげに笑っていた。


「ごめんね、シオンちゃん。ごめんね」


 なぜ謝っているのか。

 どうしてそんな顔をしているのか。

 僕にはわからず、そして理由を聞く勇気もなかった。

 ただ、母さんの腕から伝わる何かの感情を受け止めることしかできない。

 僕は母さんの腕に触れ、少しでもその感情を慰めようとした。

 それからは閑寂な空間が広がる。

 母さんの鼓動や体温や弾力が伝わる中、僕はただただ狼狽するだけだった。

 しばらくして。


「ふふ、ごめんなさい。そろそろお母さんも出ようかしら。

 シオンちゃんは、どうするの?」

「僕はもう少し入ってるよ」


 母さんの方を見られないし。

 一緒に出られないし。

 それに、その……色々と問題が起きているので。


「そう。じゃあ、またあとでね」

「うん。後で」


 母さんの姿を見ないように、僕は目を伏せた。

 更衣室から出ていく音を聞くと、ようやく肩の力を抜いた。

 正直、のぼせそうだ。

 そろそろ出たいのに、もう少し待たないといけない。

 謝りたいのは僕の方だった。

 なんか、うん、ごめんなさい。

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