第36話 母親というものは

 僕達はグラストさんと別れ、家まで戻ってきた。

 時刻は夕方。

 もうすぐ夜の帳が下りるだろう。

 僕は自分の身体を見下ろした。

 身体中汚れているし、傷跡もある。

 深い傷はないけど、擦り傷や、切り傷、打撲跡は幾つもあった。

 僕もマリーも同じだ。

 父さんとグラストさんは無傷だったけど。

 早く帰って身体を洗いたいところだ。

 父さんは馬を厩舎に連れて行くと、すぐに戻ってきた。

 僕達は玄関を開けて中へ入ろうとした。

 不意に振り向くと、父さんは足を止めている。


「どうしたの? 中に入らないの?」

「お父様? 顔色が優れないみたいだけど」

「い、いい、いや、な、なんでもないぞ」


 明らかになんでもある。

 むしろ何が起こっても不思議がないくらいの動揺だった。

 どうしたんだろうか。

 父さんがこんな顔をするなんて初めてのことだ。

 いつも厳として、頼もしいのに、今の姿は怯えた小動物を連想させた。


「は、入ろう」

「え? あ、うん」


 父さんの声は掠れて震えていた。

 僕と姉さんは顔を見合わせて、家に入る。


「ただいま」

「お母様、今、戻ったわ」


 玄関から居間の奥、台所が見えた。

 そこで母さんは夕食の準備をしているようだった。

 母さんが僕達の帰宅に気づき、とてとてと駆け寄ってきた。


「あらあら、お帰りなさ――」


 母さんの表情が固まった。

 どうしたのだろうか。

 いつも笑顔を見せてくれるけど、今の笑顔は明らかにおかしい。 

 柔らかさがなく、少し怖さがあった。

 僕は戸惑いながら視線で姉さんに疑問を投げ抱える。

 しかし姉さんも同じ心境らしく、首を振るだけだった。

 僕達の背後には父さんの気配がする。

 思わず振り返ると、父さんは目を泳がせていた。

 もしかして……。

 原因が判明する直前で、母さんの低い声音が響いた。


「あなた、ちょっと」


 母さんは笑顔のままだった。

 しかし、明らかに怒っている。

 怖い。この怖さは初体験だった。

 僕とマリーは、不穏な空気を感じ取り、萎縮した。

 父さんは僕達以上に、明らかに恐怖を感じており、母さんに言われるままに前に進み出る。

 そして、二人は奥の客間へと消えていった。

 一体何が、と声に出そうとした時、


「ぎゃああああああ! や、やめろ! 落ち着け、エマ!」


 父さんの悲鳴が響く。

 同時にガンガンという打音が鼓膜に届いた。

 振動が室内に伝わり、また父さんの声が聞こえた。


「わ、私が悪かった! だから、燭台だけは、燭台の角だけは、勘弁してくれ!

 や、やめろ! 落ち着け! まだ間に合う! ぎゃああああああああああああ!」


 その後、数分、慟哭は絶え間なく響いた。

 そして突然、叫び声は聞こえなくなる。

 静寂。

 ホラーよろしく、突然の無音に、鼓膜がキーンと鳴りはじめる。

 恐ろしさのあまり、僕とマリーは無言で二人が入っていた部屋の扉を見ていた。

 次の瞬間、ギィと扉が開く。

 そこには笑顔の母さんが立っていた。

 背後に見えたものに、僕と姉さんは絶句する。

 父さんが倒れていたのだ。

 ピクピクと痙攣しているため生きていることは間違いない。

 しかし、無事とは言えなかった。

 母さんが後ろ手で扉を閉めると、僕とマリーは身体を硬直させた。

 あ、あんな目に僕達も合うのだろうか。


「ぼ、僕達はやりすぎたんだ、か、かか、母さんが寛大だからって、み、身勝手にやりすぎた……!」

「こ、こ、ここ、殺されちゃうの……あたし達……!?」


 んなわけない。

 しかし、今の僕にはそんな冷静なことを考える余裕はなかった。

 普段怒らない人がいきなり怒ると滅茶苦茶怖いのだ。


「そこに座りなさい」


 柔和な笑みを浮かべたままなのに、目は笑っていない。

 落ち着いた声音なのに、僕達は怖気を抱き、言われるままに、椅子に座った。

 それはもう一瞬と。

 母さんが正面に座ると、小さく嘆息した。


「事情は聞いたわ。あなた達、魔物討伐に出かけたのね?」

「……う、うん」


 母さんは再び嘆息を漏らす。

 いつもはこんな反応はしない。

 困ったように笑うか、ニコニコ笑い大丈夫と言うくらい。

 父さんが何かを言うことはあるけど、母さんが何かを言うことはほとんどなかった。

 もちろんあまりに勝手なことをすれば怒られる。

 でも母さんの怒る時は「ダメよぉ」とか「そんなことしちゃいけないでしょ、めっ!」みたいな優しい感じだ。

 だから今の母さんの反応に僕達は戸惑い、そして同時にとても悪いことをしてしまったという罪悪感が胸を占めていた。


「あなた達を責めようとしているわけじゃないのよ。だから、そんなに怖がらなくていいわよぉ」


 苦笑しながら母さんはいつもの優しい空気を漂わせた。

 その一言で、僕とマリーは内心で安堵のため息を漏らす。

 怒っては、いないようだ。

 少なくとも僕達には。


「元々、お父さんから話は聞いていたわ。

 魔物の討伐かどうかは知らなかったけれど、何か危ないことをしようとしているかもってね。

 それでお父さんが様子を見に行ったわけ。

 それはいいの。魔物討伐も、あなた達くらいの年齢の子供が行くことも少なくない。

 お父さんが一緒だったし、それは構わないのよ」

「それじゃ、あの、どうして?」


 お父さんにあんなことをしたんですかね?

 怖いんですが。

 なんて言えずに、僕は言葉を濁した。


「身体中、傷や痣だらけになって、疲れ切って帰ってくるなんて、普通のことじゃないのよ。

 マリーちゃんが強くなりたいことも、シオンちゃんが魔法の研究がしたいことも知ってるわ。

 そのために魔物と戦う必要があったのかもしれない。

 でもね、あなた達はまだ子供なの。優秀で大人びて分別があっても、子供なのよ。

 だから大人が、親がちゃんと見てあげないといけない」


 僕とマリーは互いの身体を改めて確認した。

 確かに一日中外で遊んで、泥だらけで帰ってきた、という風貌ではない。

 服はボロボロで、身体には傷や打撲の跡だらけ。

 顔には疲労の色が濃い。

 これが子供にとって当たり前だとは決して思えまい。


「あの人、お父さんは夢中になると、周りが見えなくなるところがあるから。

 多分、この機にできるだけ魔物と戦う経験をさせようとしたんでしょう?」


 図星だ。

 グラストさんも諦めたように同じことを言っていた。

 僕も人のことは言えないけれど。


「魔物討伐は今回が初めてのこと。それなのに無茶をさせた。そこにお母さんは怒ったの。

 お父さんは二人共十分に戦えると思ったんでしょう。わたしもそう思うわ。

 けれどね、さっきも言った通り、二人はまだ子供よ。きちんと線引きはしないといけないの。

 勘違いしないでね。お母さんはね、二人がしたいことをできるだけ応援したいと思ってるの。

 どうしても駄目なことはあるわ。けれど、普通じゃないからって否定はしない。

 あなた達の人生はあなた達の物だもの。親であっても強制はすべきじゃない」


 母さんは一拍置いて、僕と姉さんのゆっくりと見た。


「無闇に人を傷つけたり、貶めたりしないのであれば、好きにしていいのよ。

 子供だからって、遠慮しなくてもいい。魔法だって剣術だって、どんどん学んでもいい。

 お母さんのお願いは一つだけ――自分を大切にして欲しいってこと。

 何があっても死んじゃうようなことはしちゃだめ。絶対に自分の命だけは大事にして欲しいの」


 母さんは僕達の横まで移動して、抱きしめた。


「あなた達が生きていてくれるのなら、お母さんは幸せなの。

 あなた達が幸せならもっと幸せ。だから好きに『生きて』」


 そうか。

 母さんは心配だったんだ。

 僕達に万が一のことがあったらどうしようって、思ったんだろう。

 そして帰ってきた僕達を見て、危険な目にあったことを感じ取った。

 強くなるためには必要なことはあるけれど、それは今日でなくてもよかったのかもしれない。


「母さん……ごめんなさい、心配かけて」

「お母様……ごめんなさい、黙って出かけて」

「ふふ、いいの。親の言うことを何でもかんでも理解して、守ってくれると、親としては助かるわ。

 でもね、二人には二人の考えがある。わたしやお父さんの考えとは違うかもしれない。

 それは間違っているわけじゃないの。だから次は話して欲しいかな」

「うん、次からは話すようにするよ」

「あ、あたしも! お母様に話すようにする」

「ありがとう、二人とも。でも遠慮はしないでね。

 間違っている時は間違っていると言うけど、あなた達にとって大事なことなら、協力もできるんだから。

 これだけは忘れないで。わたしもお父さんもあなた達の味方。

 何があっても、どんな時でも、ずっと二人の味方なんだからね」


 母さんの体温が伝わると、落ち着く。

 さっきまで感じていた疲労感も、嘘のようになくなっていく。

 こんなに温かい気持ちになるなんて。

 日本にいた時は、いつも心が落ち着かなかったのに。

 僕はこっちに来てよかったと、改めて思った。


「さっ! お話は終わりよ。お食事前にお風呂に入りましょうか。

 実は村人さん達に頼んで、お湯をもう張っておいたの」

「うん、入る!」


 姉さんが嬉しそうに立ち上がった。

 この世界にもお風呂はある。

 しかし一般的ではなく、また水道もないため、水を運んでこないといけない。

 そのため基本的に貴族のような裕福な層しか利用できない。

 我が家には使用人がいないため、沐浴のためにお湯を用意するのは村の人達だ。

 もちろんそのための賃金は毎回払う。 

 数日に一回、お風呂に入るようにしている。

 普通の家に生まれていたらこんな贅沢はできなかっただろう。

 ちなみに僕は物心ついてから、一人か父さんと入っている。

 なんでかって?

 理由なんてすぐにわかるよね?


「今日はシオンちゃんも入りましょう?」


 母さんが柔和な笑みを浮かべて言った。

 そのあまりに優しい顔に、僕は首を横に触れない。

 どうしよう。

 僕は母さんとお風呂に入ったことはほとんどない。

 赤ん坊の時は、一緒に入るわけじゃないし。

 母さんは僕の母親。

 血も繋がっている。

 だから気にする必要はないとは思う。

 でも、僕の精神年齢は母さんよりも上だ。

 実の母親であり、年下であり、異性。

 複雑な心境で、はっきり言って裸を見ることには抵抗がある。

 だから避けていたんだけど。

 うう、どうしよう、ものすごく見てる。


「え、えーと僕は」


 断ろうとすると、母さんは悲しそうな顔をした。


「シオン、入りましょうよ。いつも別々だし、今日くらいはいいでしょう?」

「い、いやでも」

「でもも何もないの! 入るわよ! もう身体中、ベトベトだもの。

 ぱっぱと入っちゃいましょう」


 そんな簡単に言わないでほしい。

 しかしマリーの言う通りでもある。

 早いところ汚れを落としてしまいたい。

 それに母さんが僕に何か頼むことはあまりない。

 普段、口を挟んでこない分、こういう時に断りにくい。


「…………わかったよ」

「やったわ。うふふ、じゃあ、行きましょう」


 僕の返答を聞き、母さんは嬉しそうに笑った。

 ああ、もう、そんな顔されたらもう何も言えないじゃないか。

 嬉しさを表すように小さく飛び跳ねた。

 そんなに喜ばれたら、反応に困る。

 僕とマリーは母さんと手を繋ぎ、浴室に行くことになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る