第2話 姉と父と母と僕と

 最初の半年は辛かった。

 なんせ身体がまともに動かない、話せない。

 すべてにおいて世話をして貰わなければならなかった。

 思い出すだけで嫌になるところもあるので、割愛させてほしい。

 大体は寝ている。

 ぼーっと天井を見つめるだけのお仕事だ。

 退屈だった。

 でも未来に思いを馳せていたため、苦痛ではなかった。

 年を重ねればできることが増える。

 そうすればいずれ魔法のことを知るだろう。

 ああ、楽しみだ。

 楽しみすぎて、おしっこ漏らしちゃった。ごめんなさい、母さん。


「あらあら、シオンちゃん。おしっこしちゃったのね、おむつ、変えましょうねぇ」


 柔和な笑みを浮かべる美人な女性が、僕の母親のエマだ。

 僕はシオンという名前だ。女性っぽく聞こえなくもないが、男である。

 正直、心の中でもなんと呼べばいいのか悩んだが、こっちの世界の母親であることは間違いない。

 母さんかエマさんと心の中で呼ぶことにした。

 まあ、名前で呼ぶことなんてないけど。

 エマさんはニコニコしながら、僕のおむつを変えてくれた。

 ああ、おむつといっても、普通の下着みたいなものだ。

 あまり厚みがあっても通気性が悪くて蒸れるので、しょうがないらしい。

 おむつ替えを終えると、エマさんは僕を抱きかかえる。


「うーん、シオンは静かな子ねぇ。マリーとは大違いだわ」


 少し心配そうにしながらエマさんは僕を見下ろしていた。

 確かに僕は静かだ。泣かないし、あまり笑わない。

 だってさ、ばーっとかいいながら変顔されても笑えないんだ。

 三十歳のおっさんの笑いの沸点はそこまで低くないのよ。 

 愛想笑いを浮かべてはいるけど、周りから見たらなんだこいつみたいな顔をされる。

 そんなこともあって、僕は無理に笑わないようにしている。

 エマさんがよしよしと言いながら、僕を揺さぶる。

 心地よい揺れが眠気を誘ったが、それをけたたましい音が遮った。


「おかあさ!」


 扉を開けたのは、小さな女の子だった。

 といっても、現在の僕よりは年上だ。

 彼女はマリアンヌ。愛称はマリー。僕の姉だ。

 三歳で、かなりやんちゃな女の子。

 癖が強いためか、肩まで伸びている赤橙の髪はうねうねしている。

 比較的小奇麗にしているのだが、動きや仕草がそれをすべて台無しにしていた。

 彼女はどかどかと床を踏み鳴らし、僕達の下へやってきた。


「あらあらどうしたの、マリー」

「おかあさ! あたしも抱っこする!」


 お断りさせていただきます。

 君に持たせたら、絶対落とすでしょ。

 赤ん坊からしたら、少しの高さから落ちるだけでも危ない。

 やめてください、本当に。

 おおらかな母さんもさすがに、マリーの要求には困っていた。

 おい、うーん、じゃないよ。断ってよ!

 僕は内心、冷や冷やしながら動向を見守った。

 マリーはと言えば「ねぇねぇ! おねがい!」と言いながら、母さんのスカートを引っ張っている。


「ごめんなさいねぇ、まだマリーには無理かしら」

「そんなことないもん! マリーできるよ!」


 子供は何でもできるっていうものなの!

 君にはできないの!


「そうかしらねぇ」

「そうだよ!」


 そうじゃないよ!

 やめて、ほんと!

 魔法を使うまで死にたくない!

 せっかく異世界に転生したのに、姉に落とされて死亡なんて最悪な結末、絶対に嫌だ!


「うーーーーん、やっぱり、ごめんね」

「う、ううっ、だ、抱っこするの! マリーがするの!」


 泣き出した。感情を抑えきれずに、エマさんのスカートをぐいぐい引っ張っている。

 脱げるからそれくらいにしておいて!


「だ、だめよぉ。危ないものね」

「あううぅっ! うわああ! 抱っこするぅ! ずるぅっ!」


 子供が泣きだしたら中々泣き止まない。

 子供はわがままなのだ。

 部屋中に泣き声が響く。

 これはさすがにつらい。

 エマさんはおろおろとしながらも、僕をベッドに寝かせて、マリーと話し始めた。


「マリーちゃん。お姉ちゃんなんだから、わがまま言っちゃダメよぉ」

「ずるぅ、抱っこずるぅ! ずるぅ!」


 聞いてないな、これ。

 しかし辛抱強く、エマさんはマリーに話しかけていた。

 すごい忍耐力だな。

 僕だったら無理だ。

 数十分そうして、ようやく泣き止んだマリーを前に、エマさんはにこっと笑う。


「マリーちゃんはシオンちゃんと遊びたかったのね」

「うん……」

「もう少ししたら、シオンちゃんも少しずつ話せたり、動けたりするから、それまで待ってあげて?

 赤ちゃんは守ってあげないといけないのよ。家族みんなでね」

「……みんなで?」

「そう。マリーにも協力してほしいの。お姉ちゃんだから、頼りたいの」

「お姉ちゃんだから?」

「そうよ」


 ぐしぐしと目を擦って涙をぬぐうと、マリーはにぱっと笑った。


「わかった! マリー我慢する! お姉ちゃんだもん!」

「ふふ、ありがとう。さすがお姉ちゃんね」


 よしよしとマリーの頭を撫でるエマさん。

 何だか心がほっこりする瞬間を目の当たりにしたが、僕は赤子である。

 とてとてと歩き、マリーがベッドの横に来た。

 僕の真横に顔を寄せて、つんつんとほっぺをつついてきた。


「早くおっきくなってね、シオン」


 僕もそうしたいよ。

 でも今はあんまり無茶をしないでね、お姉ちゃん。

 ちょっとはらはらしながらも、僕はマリーに手を伸ばす。

 マリーは嬉しそうに優しくその手を掴み、にかっと笑う。

 その様子を、エマさんが微笑ましそうに見ていた。


   ●○●○


 二年が経つと、できることが増えてくる。

 まず簡単な言葉を話すことができるようになる。

 僕自体は言葉を知っているが、この身体は滑舌が悪く、脳の回転も遅いらしい。

 そのためなんというか、理性的な行動全般が難しい。

 欲望に任せた行動は簡単にできるのに不思議だ。

 ハイハイができるようになり、二足歩行も可能になる。

 最初に話した言葉はお米、だった。

 食べたかったんだからしょうがない。

 ここにはパンしかないし。

 そうして三歳を過ぎると家の中が自分の城になる。

 僕の家はかなり広かった。

 二階建てで、部屋数は八つ。

 普段使ってない部屋もあって、台所もかなり充実している。

 もちろん現代に比べると粗末だが、この文明レベルならばかなり裕福な方だと思う。

 家柄がいいんだろう。どれくらいの地位なのかはまだわからないけれど。

 家を出ると中庭もある。周辺に家はないので、結構な田舎らしい。

 家族以外と会ったことは今のところはない。

 木造建築で窓ガラスはあるけど、品質は低い。

 食器は基本的に陶器か木製。

 銀食器もあるけど数は少ない。

 服は欧州の中世みたいな感じだ。

 僕の髪は燃えるような赤で、マリーの橙色やエマさんの金色とはちょっと違う感じ。

 顔立ちは完全に外国人。

 整っている方だと思うけど、ちょっと目つきが悪いかもしれない。

 表情の変化に乏しいから余計に、生意気な感じに見える。

 僕は中庭にいた。

 何が面白いのか、マリーが中庭を駆け回っているのを眺めている。

 子供ってなんであんなに走るんだろうか。謎だ。

 階段に座っていると、マリーがこちらに走り寄ってきた。


「シオン! 一緒にあそぼ!」

「……はしるの?」

「そう! 走るの!」


 五歳にして、走ることがマイブームの僕の姉は、満面の笑みで言った。

 どうしよう。僕はインドア派だ。

 運動はあまり好きではないし、三歳にして、ちょっと老成気味だ。

 できるならお断りしたいが、目をキラキラさせている我が姉に言っても聞かないだろう。

 しょうがないとばかりに立ち上がると、マリーの横に並んだ。


「いくわよ! せーの!」


 一斉に走り始めた。

 三歳の僕と五歳のマリー。

 体格は全く違うし、筋力も圧倒的にあちらが上だ。

 当然、勝てるはずもなく、どんどん距離が広がる。

 しかし子供は体力が凄まじい。

 大人ならばすぐに疲れるだろうに、子供はすぐに元気になる。

 その分、すぐに眠くなるけど。

 マリーの背中を追って、駆ける。

 三歳にもなれば走るくらいはできる。覚束ないけどね。

 ぐるっと中庭を回ると、マリーが立ち止まった。


「あたしの勝ち! シオン、おっそいわよ!」

「姉さんが早いんだよ」

「そう? ふふふ、まっ、お姉ちゃんだからねっ!」


 したり顔の我が姉を前に、僕は可愛い奴だなと思うだけだ。

 マリーは持ち上げると素直に喜ぶし、嫌なことがあるとすぐに顔に出す。

 わかりやすい性格のようだ。子供にしてもそれが顕著だと思う。

 マリーがふと正門の方に、ぐいっと首を動かした。


「お父様だわ!」


 何を嗅ぎつけたのか、正門に向かいダダッと走っていくマリー。

 まだ走るのかと辟易しながらも、僕も後に続いた。

 蹄の音が響き、金属の擦過音と共に門が開く。

 馬車が姿を現して、中庭を通り、玄関前で止まった。

 幌がある荷台だ。今は何も積まれていない。 

 御者台に乗っているダンディな髭を生やした男性が下りてくると、マリーが飛びついた。


「おかえりなさい!」

「はっはっは、ただいま、マリー。相変わらず元気だな」

「うんっ! マリーね、髪の色と同じで、お日様みたいに元気だね、って言われるの!」

「そうかそうか。はははっ!」


 父さんは嬉しそうに笑いマリーの頭を撫でる。

 するとマリーは嬉しそうに目を細めた。猫みたいだな。

 僕はと言えば、近くで佇んだまま二人の様子を眺めている。

 さすがに抱き着くのは抵抗がある。というかそんなのできないでしょ、僕三十歳過ぎのおっさんだし。

 父さんはマリーを抱きかかえながら僕の前までやってくる。


「おかえりなさい、父さん」

「ただいま、シオン。相変わらず、しっかりしているな」

「そんなことないよ。姉さんの方がしっかりしてるよ」


 よいしょである。

 我が姉は、したり顔で鼻息を荒くしていた。


「さて、お父さんは馬車を直してくるから、家の中に入ってなさい」

「はーい」

「はい」


 父さんは馬車に乗って、庭の端にある厩舎に移動していった。

 彼は僕の父親、ガウェインである。

 どんな仕事をしているのか、具体的にはわからない。

 そろそろ色々と知りたい。

 ある程度は自由に動けるし、話せるようにもなった。

 それに『年齢の割に、かなり落ち着いている』という印象を与えることも成功している。

 これならばある程度、大人びたことをしても疑問を持たれないだろう。

 まだ三歳なので限界はあるけれど。

 魔法やこの世界のことを調べるには、やや早いかもしれないが、そろそろ我慢の限界でもある。

 生まれて間もなく、いきなり魔法のことを話したりしたら、訝しがられると思ったので、黙っていた。

 今日から少しずつ、聞くとしよう。


「ほら! シオン、入るわよ!」


 マリーに呼ばれると、僕は家の中に入った。

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