第122話 一歩目

 夜。

 俺と、ニースはベッドに入っていた。

 別々の、だ。

 けれど部屋は同じだった。

 俺の隣、離れた場所に、ニースは寝ている。

 けれど横を見れば、ニースの顔は見える。

 俺は、まだ考えていた。

 沼田の言葉を。

 過去の自分を。

 みんなのことを。

 そして……莉依ちゃんのことを。

 彼女は、もし、彼女がいれば、なんて言っただろうか。

 莉依ちゃんは優しい子だ。

 そして聡明で強い子でもあった。

 歳不相応に、俺でもはっとすることがあった。

 支えてくれた。

 共に歩んでくれた。

 助けてくれた。

 俺が辛い時、抱きしめてくれた。

 あの体温、優しさを今も覚えている。

 燻った思いは、俺を縛ってもいる。

 彼女があまりに大きな存在で、俺は前に進んでいるようで、進めていないのかもしれない。


「起きて、いるの……?」


 言ったあと、小さく、にゃ、と言っていることに俺は気づいている。

 ニースは時々、語尾を言わないようにすることがあった。

 以前、朱夏と話したが、ネコネ族は、にゃと語尾につけていることに気づいていない。

 しかしニースは自覚しているらしく、努力して治そうとしているらしかった。

 俺は……その理由に気づきつつ、なにも言わなかった。


「ああ、まだ起きてる」

「んっ……そう……」


 今度は、にゃが聞こえなかった。

 俺は天井を見上げ、鼓膜を撫でるような声音を聞いていた。

 ニースの声は甲高いようで、声を低くすると子守唄のように聞き心地がいい。


「昼間は……その……」

「うん?」

「あ。いや、なんでもないにゃ……じゃない、にゃ。あっ……ううっ…………」


 無理して、にゃを言わないようにしなくてもいいのに。

 その努力に、俺は思わず笑ってしまう。


「あ、笑った」

「ごめんごめん、馬鹿にしたわけじゃないから」

「ふんっ、別にいいにゃ! もう、にゃんでもにゃいからにゃ!」


 自棄になってしまった。

 その子供っぽさも愛らしいが、俺は何も言わず、くすっと笑うだけだった。

 静かな夜だった。

 黙ると、自然の生み出す音だけが室内に届いた。

 衣擦れの音がたまに、聞こえる。

 ニースはまだ起きているようだった。


「……にゃ」

「……どした?」

「……にゃ。その、にゃ……その、い、一緒に……」


 声が僅かに震えていたが、俺は知らない振りを決め込んだ。

 卑怯だとわかっている。

 だけど、そうすることしかできなかった。


「ん?」

「な、なんでも、ないにゃ!」


 がばっと布団を被る音が聞こえた。

 このやり取りは、何度かしている。

 その度に、俺は誤魔化す。

 知らない振りをして、鈍感な振りをして、聞き返す。

 ニースがそれ以上先を言えないことを知っていて。

 鈍感な俺でも、わかっている。

 ニースの想いは。

 けれど、俺はそれに答えられない。

 申し訳ないと思っているのに、前に進めない。


 心は癒えた。

 癒えたと思い込めている。

 けれど、本当にそうなのだろうか。

 今も、莉依ちゃんのことを思いださない日はない。

 みんなのことを想い、胸が苦しくなる。

 朱夏達のことを聞き、悩んでいる。

 振り切れない。

 今の生活が大切だと思いながら、迷ってもいる。

 結局、俺は何も変わってはいないんじゃないか。

 平穏な生活を過ごして、ただ忘れようとしているだけじゃないか。

 ニースを大切だと言いながら、彼女以外はどうでもいいとは言えない。

 ハイアス和国の王だった時、俺は自国民や仲間達、莉依ちゃん以外を犠牲にしても、みんなを幸せにすると思っていたはずなのに。


 過去の俺と、今の俺は違う。

 俺は……心も体も弱くなってしまった。

 情けない。

 本当に、このままでいいのだろうか。

 そう思った時、物音が隣から聞こえた。

 寝たと思っていたが、ニースはまだ起きていたようだ。

 俺は目を瞑り、眠ったふりをした。

 別に起きていてもいいが、トイレにでも行くのならば、寝ている方がいいだろうと思ったからだ。

 だが、ニースの気配は隣から動かなかった。

 無言で、ベッドの前に立っている。

 頬に、何かが触れた。

 手だと気づいた。

 まだ人間の姿をしている、ニースの手は普段よりも温かく感じだ。

 柔らかな所作で俺を起こさなように配慮している様子だった。


 動悸が早まる。

 ニースが何をしようとしているのか、想像してしまった。

 俺は、どうするべきが逡巡した。

 ニースは両手で俺の頬に触れた。

 起きなくては。

 止めなくては。

 そう思い、目を空けようと思った瞬間、頬の感触が消えた。


「ごめん……」


 ニースが小さく呟いた。

 そのまま、物音は遠ざかり、外へと消えていった。

 俺は瞼を開けて、天井を見上げる。

 ああ、そうか。

 俺だけじゃない。

 ニースも、多分、まだ過去に捕らわれている。

 俺達はずっと同じ場所で足踏みをしているだけだ。

 前に進んでいると思い込んで、同じ場所で、同じように、ずっとずっと。

 二人だけで。

 傍から見れば滑稽だと思われるだろう。

 それでもそうやって俺達は過ごしていた。

 それが……正しいことじゃないとわかっていても。


 俺は、そのまま眠りに就いた。

 気づいてしまった。

 その事実に、今だけは気づかない振りをして


   ●□●□


 翌朝。

 俺は、ニースに、沼田と共に神を討伐すると伝えた。

 反対されるかと思ったが、ニースは悲しそうに笑い、わかった、と答えた。

 沼田との再会、そして昨夜の出来事でお互いに気づいてしまったのかもしれない。

 俺達がやっていることは。

 ただの傷の舐めあいだと。

 前に進むと互いに言いながら、決して進めていないということに。

 言葉にはしなかった。

 けれどわかっていた。

 この生活は……穏やかな日々は、虚構だったことを。

 それでも確かに、お互いの絆はあった。

 深まった。

 そう、俺は思っている。

 それが、その想いが、どういうものだったとしても。

 俺は、前に進まなければならないと気づいてしまったから。

 もう立ち止まらない。


「じゃあ行ってくる」


 準備を終え、一週間分の荷を背に、俺はニースに別れの挨拶をした。

 格好はただの平民。いや狩人に近いかもしれない。

 異世界人とは思えないくらいに、グリュシュナの住民になっていると思う。

 変装魔術は効果時間が持たないため、使っていない。

 皇都までは一週間はかかるからだ。

 今の俺は、ただの人間。

 シルフィードもあまり使えなくなった。

 ステータスが低下したからだろうか。

 戦う力はないはずだ。

 それでも、もしも、俺に神と戦える、何かがあるのならば。

 戦おう。

 逃げても、もう意味はないとわかったのだから。

 死は怖くない、慣れている。

 奇跡のような力を与えられなければ、俺はすでに死んでいるのだ。


 あの力は……聖神たちから与えられたものではなかったのだろうか。

 俺の存在、俺の力を奴らは想定していなかったようだった。

 考えてもわからない。

 今は、まだ。

 

「気を付けるにゃ! おみやげ期待してるにゃ!」


 ニースは満面の笑顔で答えた。


「ああ、楽しみにしていてくれ。それに……朱夏達も連れて帰る」

「うんうん、楽しみだにゃ! にゃはは、やっと一人で足を伸ばせるにゃ!

 いやいや、もう、トラジがいると遠慮しっぱなしだったからにゃ。

 まったく、清々するにゃ!」

「ったく、酷い言いようだ」

「にゃにを言っているにゃ? わたしがどれだけ大変だったか知らないにゃ?

 こう見えて、わたしは集中力がないにゃ!

 それにゃのに、色々と作業をしないといけないし。

 気も遣うしで、もうてんてこまいにゃ!

 一人なら、そんな必要もないにゃ! この期間にやりたい放題にゃ!」


 俺は苦笑し、ニースの言動に、はいはい、と返答した。

 しかし、ニースはピタッと、動きを止めた。

 表情はそのままだったが、手は震えていた。


「……そ、そうにゃ、もっとやりたいことがあるにゃ。

 魚も一人じめできるし、無駄に洗濯物を洗わなくていいし。

 部屋は広いし、静かだし、寝る時も身なりに気を遣わなくていいし。

 一人でいても、ぜ、全然寂しくなんてないにゃ。

 だ、大丈夫、わ、わたしは強いのにゃ、一人で大丈夫にゃ。

 だ、だから、ト、トラジ、は気にせず、頑張って……む、無理せず、に」


 必死で堪えていることはすぐわかった。

 わかりやすいほどに。

 唇がわなわなと震えている。

 手足も理由なく動かして、動揺が見て取れる。

 視線も泳ぎ、俺と目が合わない。

 目尻には涙が溜まっている。

 それを必死で零さないように上を向いている。

 俺は抱きしめたい衝動を必死で抑える。

 そうしてはいけない。

 衝動的に、彼女の心を掻き乱すようなことはしてはいけない。

 それだけは決してしてはいけない。

 俺は無理矢理に心の波を無視して、ニースの頭を撫でた。


「行ってくる。必ず帰って来るから」


 それはおざなりな言葉ではなかった。

 俺の、強い意思だった。

 だが、反面、別の思いもあった。

 ニースは我慢できず、涙を零した。


「……う……ううっ……ま、待ってるにゃ」


 その純粋な想いに、俺は何も言えなかった。

 別れを惜しみながらも、その場にとどまることは許されなかった。

 俺はニースに手を振り、何度も振り返り、彼女の姿を目に焼き付けた。

 この日を境にようやく、二人とも前に進むことができる。

 そう信じて。

 俺はニースに背を向け、皇都へと向かった。


 死ぬだろう。


 確信しているのに、不安も恐怖もなかった。

 どこか……心が澄んでさえいたのだ。

 ニースのことを思うと、心は痛む。

 けれど、どこか違和感はあった。

 あの生活の中、安堵しながらも不安と戦っていた。

 見ないふりをして、無理をしていた。

 けれどその感情は、今は消失している。

 後ろ髪引かれる思いも残っていた。

 だが俺は思いを振り切り、高台を降りた。

 莉依ちゃん達の墓へ、今日だけはお参りしなかった。

 帰ったら、報告するという思いからではない。

 きっと……俺は、心の奥底でこう思ってしまっていた。


 みんなのところに逝くことになるだろう、と。

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