第6話 魔の物
見えなかったのだ。
聴力や視力が低いのもあった。
遠くさえ見えず、近場でも何とか見える程度。
物音は聞こえるが、相当な音量でない限りはすぐに気づけない。
あの村人の反応を素直に受けていればよかった。
しかし、俺は忠告とも思わなかった。
茅屋が主になっている建造物の大半はひしゃげている。
半壊ならばまだいい方。
ほぼ全壊している。
災害かと疑いたくなるが、そうではない。
屹立(きつりつ)している。
それが。
樹木で見えなかった。
隆起していた地面で見えなかった。
「いやあああああああああああああああっ!」
「逃げろっ! 逃げるんだぁ! ぎぃいィぐぅゥ!!?」
悲鳴を上げている女性はそれを見上げていた。
避難を促す男性は、それに頭を丸ごと食われた。
それは人型だった。
それは巨大だった。
それは人を食らっていた。
それは手に持った大樹のような棍棒を人や建物に振り下していた。
「ぁ……ぁ、な、に、あ、あれは」
俺は震えながら、無意識の内にアナライズを使用していた。
・名前:はぐれトロール
・LV:12,056
・HP:2,894,955/2,999,571
・MP:650/800
・ST:984,578/1,008,945
・STR:112,551
・VIT:90,866
・DEX:78,651
・AGI:11,282
・MND:356
・INT:569
・LUC:122
●特性
大きく振りかぶった攻撃は会心の一撃になる。
巨体の割に動きは速い。ただし回避率は著しく低い。
なんだ、これ。
なんだよ、この化け物は!
トロールは村人を掴んで口腔に放り込む。
拳が空から降る。
人を簡単に圧死させた。
ぶしゃっとイヤな音を鳴らしながら血飛沫が周囲に舞った。
そこは地獄だった。
死体の山。
そのどれもが、まともな形を保っていない。
血濡れの地面。
不快な異臭。
二十軒程度しかない小村に、巨躯の化け物が襲来したのはすぐにわかった。
トロールは逃げ惑う村人を追い回している。
巨体に似合わず足は速い。
絶叫しつつなんとか逃れようとしている人を嬉々として追尾している。
俺は村から僅かに離れた坂道にいた。
正面、数十メートル先で殺戮が行われている。
村は狭かった。
端まではよく見えない。
しかし、恐らく住宅街の一画程度の広さ。直径で二百メートルもないだろう。
「た、助け、誰か、だずぅげぇぇげげえげ」
化け物に握り潰された男性が見えた。
最後の一瞬、俺を視界に入れた。
助けを請うように俺に縋った。
なのに、俺は何もできなかった。
圧倒的な死の存在。
俺は肌でイヤというほどに感じていた。
今まで、死たらしめた感覚は俺の直感的なもの。
痛みはあった。
それはただの痛みだ。与える存在はいなかった。
蛇に噛まれて死んだ。
しかしあれは、死を連想させることはなかった。
何度も死んだ。
望んで殺された。
だが、
これは、
目の前の、
これは、
それとは別次元の存在。
恐怖そのものだ。
俺は地獄に足を踏み入れたことを全身で実感した。
血の海の中、享楽に浸る化け物を見た。
俺は足が竦んでいた。
「あ、あ、な、なに」
死を初めて恐れた。
殺される。
殺されても生き返る、という確信が揺らいでいた。
そもそも俺は本当に死んでいたのか?
死んだ、と思っていたのは俺が勝手にそう感じていただけだ。
そう疑念を抱いた時、俺の身体は恐怖に支配されていた。
逃げなくては。
村人達のように殺される。
今度こそ本当の意味で死を迎えるかもしれない。
踵を返そうとしたが、そのまま地面に尻餅をついた。
「いつっ!」
痛みで、我に返った。
恐怖で感覚が薄れていたが、ふと打開策が浮かぶ。
死ねばいいのだ。
トロールに近づかなくとも、ちょっとした衝撃で俺は死ぬ。
この場に転べば、飛行機まで戻れる。
仮にトロールに殺されても同じかもしれない。
だが、食われたり、押し潰されたり、棍棒を叩きつけられたりするのを想像するだけで身震いする。
蛇に噛まれて死ぬのとはわけが違う。
注射を刺されるのとナイフを刺されるのが違うように。
いや、それ以上の差異がある。
死の連鎖から逃れるため、俺は立ち上がった。
そのまま、転ぶ。
「だ、誰かっ! た、助け」
声が聞こえた。
俺は転倒寸前で、バランスを保った。
今の声。
聞き覚えがある。
恐る恐る振り返った。
見えない。遠い。
しかし、衣服の色味と髪の長さ、そして身体の大きさはなんとなくわかった。
あれは、間違いない。
「莉依、ちゃん……っ」
事故前に楽しく会話をした女の子。
目を覚ました時、声をかけてくれた女の子。
優しく、あどけない女の子。
彼女はトロールの魔の手から逃れるべく、家屋と家屋の間を縫って逃げていた。
誰かが莉依ちゃんの手を引っ張って先導しているようだ。
その人は女性、らしい。
制服姿。
多分、俺と同じ高校の女生徒だ。
俺は、莉依ちゃんの安否を気にしていた。それは庇護を目的としたものではない。単純に、関わりを持ってしまったからだ。
数ヶ月も同じ時間を共有したクラスメイトや教師よりも。
一時間程度しか話していない彼女に親近感を持った。
あの笑顔が脳裏をよぎる。
見捨てる、のか?
あんな小さい子を。
……仕方ないじゃないか。
彼女も俺を見捨てた。
俺が死にかけて、死んでしまった時、彼女は立ち去ったのだ。
――嘘を吐くな!
あれは他の人間が強引に連れて行った。
彼女は、あの子は俺のことを気にして残ろうとしていた。
まだ九歳の子が。
危険であるとわかっていながら、残ろうと思ったのだ。
俺を心配し、自分のことを犠牲にしても。
尚、残ろうとしたのだ。
俺はどうだ。どうするべきだ。
「逃げるな……逃げるなよ」
俺は自分に言い聞かせた。
ここで逃げたら後悔する。
自分を許せなくなる。
俺は空気のような存在だった。
だけど人間なんだ。本当に空気なわけじゃない。
関わった、親しみを持った誰かを見捨てたら本当に人間として大事なものを失う。
空気のようになってしまう。
必要不可欠な方じゃない、ただそこにあるだけで認識されない方だ。
だったら決まってる。
もう逃げるな!
抗うんだ!
「莉依ちゃん!」
俺は叫びながら走った。
転ぶことだけは避けないといけない。
そう思いつつも全力で走った。
スタミナが減るが関係ない。
助ける!
助けるって決めたんだ!
村の中に入ると、死体だらけなのが改めてわかった。
しかし構ってはいられない。
幸い、何度も死体は目にしている。
慣れるものでもないが、耐えられなくもない。
残り三十メートル。
裏路地から大通りに出た莉依ちゃんと女性が見えた。
「莉依ちゃん、こっちだ!」
俺は村の入り口を指差しながら叫んだ。
喉がまともに機能しない状態で強引に動かしたせいで、血が込み上がった。
HPはそれでギリギリまで減った。
「く、日下部さんっ!」
これ以上は叫べない。必死に指差しながら走った。
莉依ちゃんの手を引っ張っていたのは、やはり俺と同校の女生徒だった。
同学年なのはわかったが、知らない子だ。
どうやら別のクラスの生徒らしい。
髪を後ろに括っているので快活そうな印象だ。
勝ち気そうな瞳を俺に向けた。
彼女は一瞬、どうするか迷っていたが、迫るトロールから逃れるには、俺が来た方向に行くしかないことに気づいたようだ。
瞬時に選択した女生徒は、俺に向かって走った。
すぐに俺の横を通り抜け、そのまま入口に向かった。
「日下部さんもっ!」
俺は莉依ちゃんの声音を無視して、トロールに向かい疾走した。
トロールまで十メートル。
この距離でも巨躯の威圧感は伝わる。
どうする?
勢いでここまで来たけど、このまま進んでも一瞬で死んでしまう。
死。
その一文字が恐怖を促した。
だが、もう後戻りはできない。
死を覚悟、いや死は必然とする。
恐れるな。
俺は死んでも死なない。
生き返る。
だが、死ぬことは決定として、一度の死だけでは時間が稼げない。
殺されても、すぐに殺されに向かわなければ。
現在のリスポーンポイントは飛行機内だ。
遠すぎる。
蛇の時のように、近場にリスポーンポイントを設定できれば!
くそ、今の今まで後回しにしていた。
道中でセーブしていればよかった!
いや、それでも遠すぎる。
どこか近くに保存場所はないか!?
五メートル。
トロールはとっくに俺に気づいている。
自分に向かって来る虫けらを殺そうと、だらりと舌と唾液を垂らしていた。
まずい、考えるのが遅れた。
セーブすることを今更思い出すなんて!
ふとある情景が浮かんだ。
機内にリスポーンしていたのに、外ではセーブができなかった。
蛇をアナライズした時、リスポーンセーブのスキルは使用不可だったはずだ。
条件は、なんだ?
トロールが棍棒を振り上げた。
思い出せ!
リスポーン。
セーブ。
外ではできない。
機内ではできた。
条件は屋内?
いや飛行機内の半分は損壊していた。
扉はなかったし、内部はほぼ露出していた。
屋内か微妙なラインだ。
だったら、どこだ?
俺はどこにいた?
どこにリスポーンした?
どんな状態だった?
何に依存していた?
…………椅子?
俺は咄嗟に、半壊した建物を見た。
内部は瓦礫に埋もれているが、ベッドは無事だった。
椅子はない。
くそっ! こんな時に!
俺は、半ば投げやりになりながらもベッドを視界の中央に持っていった。
リスポーンセーブの文字は白色に変化している。
これだ!
すぐにセーブ――
「日下部さん、逃げてぇぇぇぇーーーーっ!!」
「グルゥぉおオおぉォォォッ!!!」
莉依ちゃんの叫びとトロールの雄たけびが同時に聞こえた。
一拍後、俺は圧潰し命を散らせた。
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