第4話 弟の記憶

 弟の部屋はいかにも野球男児、という感じの部屋だった。

 好きな選手のポスターが机の前に貼られ、その横に設置された本棚には、野球の関連書籍がずらりと並んでいる。クローゼットには


「ーーーお父さんの本当の子供じゃないくせに!」


 思い出すだけで胸が痛くなる言葉が、自然と頭の中へ浮かんでくる。

 中学生の、夏。

 ボクは、自分がこの家の本当の一員ではないことを知った。

 母さんだけが、ボクの本当の家族だった。

 あきちゃんーーー。いや、秋人あきひととの些細な口喧嘩でボクの世界は一変してしまった。母さん以外の全てを、信じられなくなってしまった。

 でも父さんも、祖母も、ボクを大切に思ってくれていた。ボクだけが、家族を避けて壁を作ってしまっていた。


「……秋人、ごめんね。ボクはこういう形でしか、家族の思いの形を信じられなかった。今だって祖母あのひとがボクを守ろうとしてくれてたことが、信じられないくらいなんだ」


 安らかな顔で眠る秋人には、ボクの言葉は届かない。自らのベッドの上に横たわり、一ミリだって動かない。

 本当に些細な喧嘩で、もう喧嘩の理由だって覚えていない。それなのにあの言葉だけは消えずに、ボクの中に居座り続ける。

 半分しか血の繋がらないボクのことを、秋人はどう思っていたのか。

 それを知るためにボクはまた、鍵を肉へと差し込んだ。ブツッという音がして鍵が捻られる。

 最後の光が、美しい白光が、ボクを包む。それはやがて茜色へ変わっていった。


 子供の泣き声が聞こえる。けれどそれは、ボクの声ではなかった。なら、この声はーーー


 ※※※


 小さな秋人が、泣いている。

 今ではあまり泣かないけど、秋人は小学校に入るまでは、ものすごく泣き虫だった。

 置いていかれては泣き、おもらししては泣き、遊べなくなると泣き、ボクがいないと泣く。理由は本当につまらないものばかりだった。

 ただこの日だけは、ボクにも泣き出した理由がわからなかった。遊びに行く時、家から出る時から俯いていたが、公園に着くなり泣き出してしまった。

 今はだいぶ落ち着いて、ぐずっているだけになったものの、まだ、理由がわからない。

 ボクが小学二年生なので、秋人が五歳の記憶だ。


「あきちゃん、どうしてないてるの?きょうちゃんわからないよ。このまま帰ったら、きょうちゃんがお母さんにおこられちゃうよ」

「……」


(いえない)


「もうすぐくらくなるから、それまでにはなきやんで、きょうちゃんにおはなししてね?」

「……」


(いえない)


「……もおっ、きょうちゃんあっちのおすなであそんでるから、あそびたくなったらきてね!それまではここですわってまってて!」


(おねぇちゃん……)


 砂場へと走り去るボクをじいっと見つめたまま、動かない。ひんやりと冷たいベンチは、秋人の火照った体には心地よかった。


「……おねぇちゃんは、ぼくのおねえちゃん。けど、おとうさんのこどもじゃないーーー」


 昨日聞いた声がする。

 昨日偶然聞いてしまった、両親と祖母の会話が秋人の頭の中をぐるぐる回る。

「きょうちゃん」「天沢あのひとの子供」「似始めてる」「もっと遠くへ引っ越し」「どう伝える」「あきちゃんがかわいそう」


 いろんな言葉が聞こえた。が、秋人にはまだわからない言葉の方が多かった。けど。


「僕はきょうちゃんと本当の親子ではないれけど、あの子を守るためなら、なんでもする。そう約束したじゃないか、だからーーー」


 ガタッと、音を立てて扉にぶつかる。

 お父さんがハッとして、こちらを見る。

「本当の親子ではない」。その言葉の意味は、わかってしまった。


「おねえちゃんは、いつもぼくを、まもってくれるもん。おとうさんも、ぼくをまもってくれるもん。おねえちゃんとおとうさんは、ほんとうだもん」


 そう言ってまた、泣き出しそうになる。そうしていつものようにボクを探して砂場を見た秋人は、茂みの中に、ボクが祖母の記憶で見た血みどろの男を見つけてしまった。

 恐怖で硬直する姿は、祖母とそっくりだった。

 うまく呼吸ができなくて、顔が青くなっていく。身体は変な汗をびっしょりとかいていて、気持ちが悪い。血みどろの男を見る眼球が、熱を帯びる。

 いつもは、おばあちゃんがいてくれる。でも、今は。今は秋人と、ボクだけだ。

 ふと、血みどろの男がこちらを見る。

 はっきりとわかる。あの血みどろの男は秋人を見ているのではなく、ボクを見ている。そして、ニヤリとこちらに笑いかけてきた。


「うわぁぁあぁぁあぁっ?!」


 秋人が小さな腕をを振り回しながら砂場へと突進し、砂場の縁に足を取られ盛大に転んだ。

 静かな公園に、叫び声よりももっと大きな泣き声が、公園に響き渡った。血みどろの男は、気付けばいなくなってしまっていた。


(こんどは、ぼくが、おねえちゃんをまもるんたもん。あんなやつに、ぼくのおねえちゃんはあげない、あげない!)


 わんわん泣く秋人が心配で、「だいじょうぶだよ」とか「いたいのすぐいなくなるよ」と声をかけるボク。

 いつかの父さんとボクを見ているようで、なんだか微笑ましかった。やがてボクが頑張って秋人をおぶり、家跡帰っていく。

 茜色に染まる空が綺麗で、こんなことすら忘れてしまった自分が、情けなくて涙が出てくる。


「ごめんっ……。ごめんね、あきちゃん。ごめん、みんな……!」


 夢から覚めて、みんなが目覚めたら、きっと仲直りできる。

 父さんは情けなくて、あきちゃんはちょっと生意気で、おばあちゃんは厳しくて。

 でも、そこに家族に対しての優しさを、想いを感じられたなら。

 もうボクは、大丈夫だ。

 きちんとみんなに向き会える。


 茜色の世界が消えていく。

 消えていく刹那。

 血みどろの男がボクに向けて手をむけ笑っていた。

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