第32話 オレ達の裏の戦い ――前篇
◆
柔道の勝負は、会話から始まった。
「なあ、あんた、阿部だっけ。本当にオレ達に勝てると思っているのか?」
「思っているさ――なんて、カメラ君と由良見先生と君しかいないこの場面で言ってもしょうがないか。テレビドラマなんかと違って視聴者が少ないから、効果が薄いね。あ、いや、映像はあるけどさ」
そこまで一気に言葉を連ねると、一息ついて、
「でも、音声はピックアップされたものしか流されないだよね? なら同じことか。どうせ今は剣道あたりだろうから」
「そこまで考えているなんて、やっぱ凄いな」
詩志が感心の声を上げながら、阿部の襟を掴もうとする。
「ここには時間表示板しかなくて映像なんかないのに、そこまで理解しているとは」
「理解じゃなくて推理だよ」
会話を途切れさせることなく、阿部はその手を払いながら答える。
「じゃあオレも推理でもしようかな」
ふふん、と鼻を鳴らしながら詩志は再び敢行。しかし同じ結果。
「で、本当の所はどう思っているんだ?」
「どうって?」
「勝てると思っていないだろ。ずばり本郷に対して」
「……まぁ、余裕ぶっている君達を見れば、そう思っちゃうよね」
阿部は苦笑を浮かべる。
「唯は信じているが、あいつは信用していないし、実力も知らない。格闘、というか喧嘩か。あいつの土俵だろうけど、でもこの俺にも負けているくらいだしな。あいつ、あんま強くないぞー。進学校だから基本、みんな隷属体質だから抵抗しないんだよ。頑張ればいいのに」
「そんなのは知っていたけどな。ま、海斗があいつに負けることは万が一にもないさ」
「はっはっは。そんなに強いのかい、陸羽君は?」
「強いぞ。中途半端な奴よりはな――しっかしお前」
くっくっくと、そう含み笑い。
「……何がおかしい?」
「いや、どうして考えないんだって思ってさ」
「何を?」
「このオレが、お前を倒せる自信があるから、だから余裕ぶっているんだと」
「……」
驚き顔の阿部。本気で考えていなかったようだ。
「うわお。自惚れていたよ。そうだよな。そう考えなきゃ普通は駄目だよな?」
「――まもなく1分経過か」
質問に答えず、時計表示板を横目でちらと見て、詩志は口元を大きく歪めた。
「さて、本気で勝負を始めようか」
「その前に、さっきの質問に答えてくれないか? 考えなきゃいけないかどうか」
「しつこいなあ。まぁ、別にいいけど」
ふふん、と再び鼻を鳴らし、
「答えは『駄目』だな」
「……やっぱり、そっか」
「だってさ」
先程よりももっと大きく口の端を上げた、悪魔のような笑顔で、次のように言葉を結んだ。
「オレはあんたに、あらゆる意味で――勝てるのだから」
「むむ。それは聞き捨てならないね」
口調は軽いながら、阿部は表情を厳しいものに変える。
対して詩志は、先程の表情のまま。
そして時間表示版が――4分を差した。
「はぁっ!」
最初に仕掛けたのは阿部。詩志の右襟を掴みに掛かる。それを軽く払って詩志は奥襟を取る。
「甘い!」
阿部も奥襟を掴み取ろうと左手を伸ばす。だが、詩志は読み切っていたように自分で掴んでいた奥襟を放すと、伸ばしてきた手を掴んで引きずり落とす。
「のわっ……」
阿部は畳に手を着きそうになる。慌てて体勢を力で立て直そうとする。
「――っ!」
が、耐え切れず手を着く。
一本ではない。
有効、もしくは技ありかもしれない。
だが、ここで奇妙なこと。
「……?」
審判、何も告げず。
驚いてそちらの方を向こうとする阿部だが、
「なっ……」
その目の前に詩志が立ち塞がり、着いていない右手を取ろうとする。阿部は、慌てて着いていた左手を使って逃げるように身を捻り、瞬時に立ち上がって体勢を直す。
「おいおいおい。どうした? 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして」
「君……どうして抗議しないんだ?」
「抗議? ああ……」
にやりと、悪意のある笑いを浮かべる詩志。
「なんだ? 抗議して欲しいのか?」
「出来れば」
阿部は神妙な顔で頷く。
「君は有効か、もしくは技ありを取った。なのに審判は何も言わない。これは不公平だし、後で文句を言われても困るからね」
「文句は言わないし、そんな有効や技ありなんて細かいものはいらないさ」
「……何だって?」
「聞こえなかったのか? そんなのいらねえんだよ」
詩志は嘲りの表情を見せながら、人差し指を立てて次のように宣言する。
「一本だ」
「一本……」
「そうだ。オレは一本であんたに勝つ」
「……」
阿部は口を真一文字に結んで、しばらく――それでも数秒だが考えこみ、
「……ふ」
と、息を漏らした。
「じゃあ、こっちもそれでいくよ」
「無理しなくていいよ」
「無理じゃない。意地だ」
「……はん、くだらない」
吐き棄てるようにそう言葉を投げると、詩志は軽い口調だが大声で呼び掛ける。
「じゃあゆらみん。そういうことでー」
「……ふぇ! は、はい。喜んで!」
「……?」
阿部は、由良見先生に違和感を覚えたように瞬きをするが、
「オッケー。じゃあ、続きしようか」
手を二度はたき、目に鋭さを見せる詩志を見て、瞬時に臨戦体勢に入る。
「はあっ!」
掛け声と共に阿部は詩志の袖を取り、引きずり落とすように全体重を掛ける。詩志は体勢を崩し、右手を着く。
「よっ、と」
すぐに身体を起こし、阿部の手を払いのける。
そのあまりの力強さに、阿部は眼を見開いて信じられないという表情を見せた。そんな彼の表情に気付いていないように、詩志は表情を変えずに柔道着を払う。
「これで同じだな」
「君……力強いね」
「どーも。人は見かけによらないんだよ」
そう言いながら、詩志はちらと時計表示板に視線を向ける。
この時点で――2分40秒を切っていた。
「おお、もうそんな時間か」
それを確認した詩志は大きく頷いた。
「全くもって――計画通り、だな」
「うん?」
「いや、何でもない――」
そこで左手でズボンのポケットの中の『モノ』を確認するようにいじって――
「――わけ、なかったりして」
「あ」
あっという間とは、正にこのことで。
その言葉の次の瞬間の詩志は、消えたと言っても過言ではない程のスピードで阿部の懐に移動していた。
当然、阿部は反応出来ず、視線は先程まで詩志がいた場所のまま。出来たのは、そこから詩志がいなくなったのが視覚を通じて脳に伝達され、電気信号で思わず発せられたさっきの「あ」という声のみ。
だから、自分の右腕を掴んでいる詩志の手を払うことは出来ず。
「せいやああああああああああああああああああああ……なんて言うと思った?」
軽い。本当に軽い言葉だった。
だがその言葉が紡がれる一瞬だけ、詩志の動きが止まった。
いや、見えた。
だから、阿部は視線を下に映せた。
そして――映してしまった。
笑顔を。
ただの笑顔だった。
悪魔的でもない、意地の悪いものでもない、何も映していない、ただの笑顔。
だが、
阿部はその笑顔に――恐怖した。
決着は一瞬。
詩志に抱えられた右腕を中心として、阿部の世界は大きく縦に回った。
『一本背負い』
その名の通り、一本だった。
「……やられたなあ。はっはっは」
畳に叩きつけられた阿部は、清々しく笑い声を挙げる。
「俺は柔道には自信があったんだけどなあ……投げられちゃったか。うん。一応有段者なんだけどなあ……」
そう言葉を漏らしながら、しゅるしゅると黒帯を外し始める。
「黒帯なんて、恥ずかしいな。こんなもん、付けているなんて……」
「――もっと」
にやり。
もう何度浮かべたのか判らないその表情を、詩志はまた貼り付けた。
「もっとお前の自信をなくしてやろうじゃないか」
「……え?」
しゅるり。
詩志がほどいたのは白帯。それを投げつけて、お前にはそれで十分だ、などと台詞を吐く、かと思われるような雰囲気だったが、しかし詩志はそんなことをせずに語る。
「あのさ、なんだっけ……お前の信条、って奴?」
「信条?」
「ほら、女は絶対に殴らないって奴。あれって何でだ?」
「何でも何も、女性には暴力振るっちゃいけないだろ」
「どうしてだ?」
「どうして、って……そりゃあ女性は肉体的に弱いからで、むしろ守らなくちゃ……」
「それだよ。どうしてそう決め付けるんだ?」
「え……?」
「女性だって強い奴はいる。殴らないその精神は大変よろしいが、それがお前の首を締めることになる。そう――今もこうして、な」
「それはどういう……え?」
そこで、阿部の時間が停止した。その表情はみるみる内に青ざめ、かすかに全身を震わせながら頭を抱えた。
「……ま、まさか」
「ようやく気がついたか」
わざとらしく溜息を吐いて、詩志は大きく頭を振る。
「ま、ここまで言えば、読者も視聴者のみんなも、大体分かるだろうけどさ。伏線は色々あったんだぞ。多分、なーんてな」
するり、と柔道着の上着が畳に落ちる。
続いて、Tシャツが脱ぎ捨てられる。
「……っ!」
絶句する阿部。
しかし、それも無理はない。
何故なら、詩志の胸には――さらしが巻かれていたからだ。
「見ての通りだ」
さらしの下には微かな膨らみ。
筋肉の付き方といい、到底男には見えない。
つまりは――
「オレは――女だ」
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