第16話 オレ達と2年生の勝負 ――計算早解き

    ◆



 教室の扉を開くと、3人はテレビ画面に噛り付いていた。

 その液晶に映し出されていたのは、夢。そして2年生の男性。

 二人は校庭の真ん中で、教室に置いてある普通の机に向かっていた。


「……なんか、青空教室だな」


 そう呟くと、「あ、海斗君」と美里が至近距離なのに手を振って、とんでもないことを口走ってくる。


「夢ちゃんとキスした?」


「発想が突拍子もないな」


「だって、夢ちゃん。めちゃめちゃいい顔しているよ」


 確かに、余裕の微笑さえ浮かべている。


「キスしなかったから、いい顔しているんじゃないか? ってか、キスをする理由がないだろ」


「あれー? お姫様抱っこしてたじゃない」


「それは理由にならん。ほら」


「きゃっ!」


 お姫様抱っこしてやった。美里も思ったより軽かった。


「ほれ、どうだ? ぼくとキスするのか?」


「う……」


 ようやく自分のおかしな言動に気がついたようだ。


「し、しない……」


 認めた。顔を真っ赤にしていることから判断して、どうやら自分が言ったことがおかしいことだったとちゃんと理解したようなので、降ろしてあげた。


「……ほぁああ」


「悪い悪い。びっくりしたか?」


「びっくりするよ。いきなりお姫様抱っこは」


 もう、と可愛らしいお姫様らしく頬を膨らます美里。あ、そういえば、


「美里。お姫様抱っこって、女の子のドリーム?」


「あ、うん。そうだよ」


 無邪気な返答に生まれる罪悪感。


「……ごめんなさい。ドリームを破壊して」


「あ、いや、な、何で謝るの?」


「だってさ……初めてがぼくでしょ?」


「そうだけど……」


「二人の初めてを奪ってしまった。ぼくは最低最悪の人間だ……」


「べ、別にいいよ」


「え?」


「私の初めてを海斗君が奪ってしまったことについては……気にしてないよ」


「いいの……?」


「う、うん……」


「……おい。お前ら」


 低い声。

 いつの間にか付けていたテレビをじっと見ていた詩志が、ゆっくりとこっちに振り返る。

 非常に冷めた眼で。


「会話がエロいぞ」


「は?」


「えー? 今ののどこがエロイのー?」


「杏は知らなくていいよ」


「いや、そろそろ知らなくちゃ駄目だろ……って、根本的に違ーう!」


 うがーと声を張り上げ、ぼくは慌てて話を逸らす。


「ほ、ほら。夢の競技が始まるよ」


「何言っているの海斗君ー。もう始まってるよー」


「……あらー」


 いつの間にやら、画面に映っている二人は紙に鉛筆を走らせていた。


 計算早解き。

 ルールは最高5桁×4桁の数字を計算するだけの競技。一応、ルートの足し算もあるので、解くことは容易ではないだろう。数学の由良見先生が作った計算問題(複雑な文章問題や証明問題はなし)をどちらが早く、しかも全問正解で解けるのかを競う種目である。


 しかし、やっぱり――地味。


 一応、テレビの前の君も一緒にやってみようとテロップと問題の一例は提示されているのだが、猛烈な地味感は否めない。少しでも解消しようと、右隅には20000メートル走の走者もワイプで映し出されているのだが、そちらも誠が自転車を爽快にこいでいるだけなので、つまらない。

 加えて、画面を見れば判るのだが――


『おっとやはり早い。早すぎる』


 夢の勝ちは、ほぼ決定付けられていた。


『1年生チーム、またもルールの穴をついています。あの分厚い書類、この大会のルールブックを持っている皆さん、確認してください。彼女はルールに何一つ反していません』


 その言葉に、画面の中の2年生(男子眼鏡)が顔を歪める。彼は必死に、自分の答案用紙の右にある計算用紙に筆算を書き込んでいく。


 だが夢の計算用紙は――真っ白。


 にも関わらず、答えが次々と書き込まれていく。


「えっと、『21345×5145』は、と……『109820025』、っと」


 夢がそう小さく呟く声が画面から聞こえる。二人の耳には周囲の環境による精神の乱れを防ぐため、音を完全にシャットダウンするヘッドフォンが装着されている。だから夢の声は、相手には絶対に聞こえない。因みに答えは合っている。

 彼女は、成績は優秀だが、暗算でスラスラ解けるほど数学が得意というわけではない。むしろ、じっくり解くタイプだと自分で言っていた。

 では、そんな彼女がどうやって、こんなにも解く時間が早くて正確に出来るのか。

 その理由は、彼女の手元にあるものを見れば分かる。



『電卓』



 これが、ぼく達がこの種目を確実に勝つための――卑怯な手。

 しかも、ただの電卓ではない。


「えっと……『ルート54』は『3ルート6』になって、6は『ふじさんろくおうむなく』だから……」


 2年生(黒眼鏡)は頭を掻きながらぶつぶつと呟く。途中の空欄が目立つことから、後ろから先に解いてしまおうとしているのだろう。しかし、ルート同士の足し算は遥かに面倒くさいし、計算ミスもしやすい。

 それに対して夢は、


「えっと、『ルート54』+『ルート30』は、と。……『12.8256948』。小数点以下五桁目を四捨五入するんだから――『12.8257』と。よし」


 楽々と解いていた。

 種明かしをすると、その電卓は『関数電卓』と呼ばれる、記号を用いた高度な数式も計算出来る電卓だったからである。詩志曰く「関数電卓なんて普通の高校生が持っているわけがない。ましてや休日。電卓自体を持ってきている、もしくは置いてある生徒なんて皆無だろう」だそうだ。万が一、電卓の使用が禁止されていないのを見つけられて互角の勝負になることを避けるために、普通の電卓には搭載されていないルートを用いた計算式や、5桁×4桁(詩志が持っている電卓に表示される数字は10桁。普通はそれより少ないのが多い)を、予め書類の方に絶対に出してもらう問題として定め、先生方に作ってもらったのだ。まあ、ここも、ルートの問題も小数点以下4桁まで答える、なんて項目があるから、普通は異変に気がつくべきなのだけれど。例えそれが計算早解きの第542項目だとしてもね。

 もう見るまでもないな、と思っている内に、


「出来た!」


 夢がヘッドフォンを外して、中央に位置する由良見先生に解答を提出する。先生は素早く夢の解答を見て、答えと照会する。

 2、3分後。


「全問正解でござる」


 由良見先生はいつもの口調でそう告げ、掌で夢を示す。


「よって、1年生チームの勝ちで候」


 その瞬間、1年生側から歓声が――


「……」


 起きない。

 拍手すら起きない。

 圧倒的過ぎたからだ。

 しかも、正当ではない手で。

 ぼくは楽だった。僅差だし、結局は真剣勝負だった。拍手も貰えたし、歓声も湧いた。

 なのに夢には、それがない。

 きっと辛いだろう。

 誰かが傍にいてあげないと――


「……っ!」


 そう思ったら行動あるのみ。ドアの方へと向かおうと身体を翻す。


「おっと。どこに行くんだ、海斗?」


「夢の所だよ」


 詩志の呼びかけに早口で返す。


「こうなるとは分かっていたけど、やっぱり辛いだろうよ。だから、早く行かないと!」


「落ち着け。そして待て」


 その鋭い声だけで詩志は行く手を阻み、ぼくは足を止めてしまった。。


「どうしてだよ。早く行かないといけないだろ!」


「夢はそんなに弱い子じゃない」


「だけど――」


「それにさ」


 よっ、と教卓から腰を降ろす詩志。


「お前一人で行くわけじゃない。全員で行くさ。そろそろ、誠もゴールする頃だ。んで、後は美里が勝って、2年生との勝負は終いだ。ここにいる意味はない」


「それに、一人で格好付けさせないよー」


 あはは、と美里が太陽のような笑みを見せる。


「今度はわたしが夢ちゃんをお姫様抱っこして上げるんだ」


「いや、お前の腕力じゃ無理だって」


「あー、そういえば、わたしだけ抱っこされていないよねー」


「何だ、杏。してほしかったのか?」


「してほしかったよー。わたしもされたことないんだしー」


 じゃあしてやろうかと思ったが、ここでやったらぼくは3人の初めてを奪った男となってしまう。それは流石にまずい気がするし、悠一に知られたらどうなることやら。


「……他の奴にしてもらいな」


「うん。そうするー」


 無邪気なもんだ。これで本当に黒いものがないのだから、彼女は恐ろしい。


「はいはい。漫才は済ましたか?」


 手をパンパンと叩いて、詩志が話の収束を促す。


「じゃあ、校庭に行くぞ、皆の衆」

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