TRIGGER

事の始まりは1人の少女の失踪であった。


A大学1年生の水方みずかた彩子あやこは東北地方から上京してきた。A大学に入るだけあって、高校時代はテストの点数ランキングは常に1位をキープしていた。ただ口数が少なく、人との交わりというのが実に苦手であった。1つ向こうの席では、友達同士で机を囲んでイケメン俳優やスイートフェイスのアイドルについてウットリしながら話し合っている。水方はその間に入る事はできずにいた。桜吹雪が舞う春も、太陽が照りつける夏も、紅葉がきらめく秋も、雪が降り注ぐ冬も、いつも教室の自分の席で小説を読んでいた。正確には、小説を読むふりをしながら、その1つ向こうで交わされる甘いトークを耳に挟んでいた。

学校が終われば、クラスメイト達はあちこちへ散らばる。ある人は部活動へ、ある人は生徒会活動へ、ある人は友達とショッピングへ…

水方はそのどれに当てはまることもできずに、帰り道を辿るだけの毎日だった。

家に帰っても誰もないなかった。両親は共働きで少なくとも18時を過ぎるまで誰も帰ってこない。兄弟姉妹もいない、所謂いわゆるひとりっ子である。誰もいない家でやる事は特に無かった。人との交わりが苦手な彼女はネットすらも好いていなかった。独り、机の上に教科書や参考書を広げ、誰もいない中で数字やアルファベットと向き合う事しかやる事がなかった。


年も暮れが近づいた事である。周りはようやく受験モードに入って来た。しかし水方には関係のない事である。学校で習った部分は全て網羅していた。いつも通り学校へ行き、いつも通り授業を受け、いつも通り帰り、いつも通り自習をする。それだけの事である。

志望校は当然のことながらA大学。他に選択する必要は無かった。両親が共に仕事で帰れなくなる時もしばしばあった為、彼女が一人暮らしをするという事に特段心配は無かった。学力面でも合格するに十分な力があった。一応滑り止めに私立も受けたが、予定通り、しっかりとA大学の合格通知を手にした。


大学に入った彼女は変わろうと決意した。同じ高校からA大学に入った人は1人もいなかった。東北という遠い場所から来た為、あらゆる面で心機一転できると考えた。そして何よりも、自分と同じように只管勉強と向き合っていた人達が集まっているという事実が自信をつけさせた。入学する日が1日近くなる度に、彼女は少しずつ楽しい気分を味わっていた。そして遂にA大学の敷地に足を踏み入れた日だった。

日本で最難関でありながら最大でもある総合大学。見渡す限り人、人、人。外へ出てもやはり人、人、人。萎縮してしまうまでに、時間など大して必要なかった。

運良く彼女に声を掛けるような友人がいれば、そうでなくても女目当てで声を掛ける男がいれば、彼女や運命はまた違ったものになったかもしれない。

しかし、ある程度容姿が整っていても、他人との接触を無意識に避けようとした人に対して、無理に近付こうとする人物はこの大学にはいなかったのだ。いや、いたかも知れないが、少なくとも彼女の前には現れなかったのである。


それでも彼女は大学へ通うのはやめなかった。やめてしまえばまた高校の時と同じ、いや、それ以上に暗くて、寂しくて、むなしい時間を過ごさなくてはならなくなると感じていたからだ。


それからしばらく時が過ぎた。彼女は誰も気付かない内に姿を消してしまった。

最初に気付いたのは教授達だった。休まず毎日来ていたが、ある日を境に返事が無くなった。来てないな、とは思っていた。しかしだからどうという事も無かった。沢山いる生徒の中の1人に過ぎなかったから。


次に気付き始めるのは同じ教室にいた人々である。しかし、いなくなったのは彼女だけであった。たった1人、それもあまり話さない、素性もほとんど知らない、名前もうろ覚え。そんな彼女がいなくなったからどうという事も無かった。やはり、沢山いる生徒の中の1人に過ぎなかったから。


誰か1人でも友人がいれば…

誰か1人でも彼女に興味を持てば…

誰か1人でも彼女をサークルに誘えば…


その時、運命は二分にぶんされたのである。



彼女が失踪に事件性があるという話題は少しずつ大学内に入り込んだ。

どこからともなくそんな話が持ち上がり、人々は噂した。

ある者は只のデマゴギーだろうと。ある者は大学が嫌がる情報を掴んだのだろうと。ある者は海外にヘッドハンティングされたのだろうと。ありとあらゆる憶測が飛び交った。しかし、その真実を完全に知る者は誰一人としていなかった。



「宮野さんも気を付けなよ。顔は可愛い方なんだから、気を抜くとさらわれるかも知れないよ」

「心配ありがとう。岡部先輩のアドバイスはいつも正確だわ。でも今回ばかりは自分の心配の方が先よ。香坂くんと連絡が全く取れないのが不安で仕方ないわ。今回の件と関係なければいいけど…とはいえ、本当に水方さんは誘拐されたのかしら。普通に大学が嫌になっただけじゃないの?」

宮野はほとんど会場に変化したサークル活動部屋の椅子に座りながら言った。岡部は鞄からポテトチップスを出し、それを開けて宮野に差し出した。

「いるか?」

「いらないわ」

宮野はプイとそっぽを向いた。岡部は袋から2枚取り、口に放った。そしてそれを噛み砕きながら話した。

「いいか宮野、疑うことは信じる事と同じくらい大切だ」

「そうね」

「だがな、もう1つ忘れちゃいけないことがある」

「食べ終わってから言ってちょうだい」

「ああ」

岡部は喉を通らせてから言った。

「いいか、火の無いところに煙はたたないんだ」

「じゃあ、彼女は誘拐されたと?」

「そうではないにしても、そう勘違いされる根拠が何かしらあったという事だ。正直今回の件に関して、俺は香坂が大丈夫かとても心配している」

「私もよ」

「俺も、お前も、余計な事には関わらない方が身の為だし、周りの人間の為でもある。気を付けよう」

「そうね…」

宮野は試しに香坂へ電話をかけてみた。当然通じる事はなかった。

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