灰塵の銃座

餅月

灰塵の銃座

 足元では、まだ熱を持った鉄くずが焦げ臭い匂いを放っていた。

 だだっ広い畑の真ん中に、帝国軍の大きな巡空艦が擱座している。濁った空と同じ色をしたその残骸は、まだあちこちから煙を噴いていた。

 彼女と彼以外に、そこで生きている者はいなかった。



 夜の暗闇と低く唸るエンジンの音が、否応なく自分を眠気に誘おうとする。

 だが眠れる気はしなかった。延々と続く疲労と緊張の板挟みが生み出す、ちぐはぐな状況。

 腕時計を見ると、出撃からまる七時間が経とうというところだった。時計を巻いた腕が微かに震えているのを、ハンス・シュライヒャーはぼんやりと見つめていた。

 そこへ、

『目標、首都上空まであと五十マイル』

 電探室から艦橋へ上がったらしい報告が、艦内放送で下ってきた。

『艦橋より各方見張り員へ、状況を報告せよ』

 続いたのは、このふねで一番聞き慣れているであろう艦長の声だった。

『艦首見張り台、異常なし』

『後部十一番機銃座、後方及び随伴艦に異常なし』

 そばにある有線電話の通話機を取り、ハンスも各所の報告に倣う。

「こちら六番機銃座、下方視界異常なし。雲、霧共に認めず」

 艦底から突き出した半球状の油圧回転式銃座は、広い範囲がガラス張りの風防になっている。主艦橋が船体上面にあるという構造上この艦は下方視界に乏しいため、銃座が見張り台を兼ねていた。

 艦橋はある程度暖房が効いているのだろうと思うと、少々羨ましくもなる。吹き曝しでこそ無いものの、銃座の中は分厚い風防越しでも堪える気温だった。

「……寒いな、ハンス」

 同じ銃座で銃把を握る若い男が、肩を縮こまらせて言った。ハンスと歳が近く、飛行服の襟についた階級章もお揃いの銀色一本線である。

「ああ、指が固まりそうだ」

 出撃してから、もう五回くらいは繰り返されたやり取りである。だがこうして少しでもコミュニケーションを取らないと、気が狂いそうだった。

 ただでさえ狭い銃座の中には、二十ミリ口径の連装機銃が鎮座していて、銃身から先だけが風防の外に飛び出している。薬室から長く伸びた弾帯がすぐ脇の弾薬箱の中で折り畳まれ、擦れて耳障りな音を立てていた。

 一方、ガラス張りでないわずかな部分には、先ほど艦橋への報告に使った通話機や、他の銃座などと繋がる伝声管、クリップ留めされた地図が並ぶ。そしてすぐ上の天井には、慣れていないと頭を何度もぶつける跳ね上げ扉がある。

 海の機銃手は、装甲もない露天の銃座で風雨と敵弾に晒されるのが常である。まだ覆いがある分だけマシだが、この銃座も小口径弾にすら耐えられない貧弱な風防しか備えていない。

 しがない機銃手の待遇は海でも空でも変わらないのかと溜息をつきながら、ハンスは前の大戦で海軍にいた父のことを思い出していた。まだ自分が幼い頃に前の大戦で戦死したため顔もおぼろげで、どれくらいの階級だったのかも記憶にない。

 外はほとんど暗闇に包まれていたが、つい先ほどから、遥か下の地表と思しき辺りにはぽつぽつと灯りが見えるようになった。

「あとどれぐらいだろうな、ヘルマン」

 今度はハンスの方から話を振る。もう敵領上空に到達したのは明らかで、既に一度交戦があり敵の迎撃機部隊を退けた後なのだが、まだ艦内で対地砲撃の準備が始まる様子はなかった。

「さあな、艦長に聞いてくれ……ああ、そうだ。今のうちにもう一箱、弾持ってきてくれないか」

わかったヤー

 ヘルマンから撃ち終わった弾帯の入った弾薬箱を受け取ると、中腰になって銃座の天井扉を開ける。

「――全く、敵も首都をもっと海っぺりに作ってくれりゃよかったんだ」

「ああ、それなら帝国もこんな代物を作らずに済んだろうにな」

 ヘルマンのぼやきにそう返しながら、ハンスは艦内の通路に上がり機銃弾薬庫へ向かった。

 通路を一面に赤く染める薄暗い照明。排熱管や電気配線が所狭しと並んだ壁。区画ごとに設けられた、被弾して艦に穴が空いた時のための気密扉――そういった艦の内装は、潜水艦のそれによく似ていた。

 先の大戦以来、陸の兵器も海の兵器も大型化の一途を辿ってはいたが、まさか空もそうなるとは一体どれだけの人間が予見できただろうか。


 航続力と機動性に優れていたが打たれ弱い硬式飛行船ツェッペリン

 そして高い攻撃力と防御力を持つものの、機動力と運用範囲に難があった戦艦や巡洋艦。

 当時世界最先端とも言える技術力を誇っていたフェーマルン帝国が、特に発展させていたこの二種。それを融合させた“空飛ぶ軍艦”が、巡空艦という兵器だった。

 ヘリウムガスとプロペラを併用して浮力と推進力を保ち、その太った葉巻か鉛筆のような船体に、艦砲や爆弾を搭載し攻撃する。素人目に見ても安定性に欠けるこんなものが実用化に至ったのは、一重に帝国の高い技術力と、実現に固執した総統の権力によるものだった。

 水上艦並みの兵装と装甲を持つ兵器が空を飛んで、水上艦よりも速い速度で内陸に殴り込む。作戦会議で素人の政治家が出す案と同じくらいには空想的だったそんな戦術が、大真面目に通用する時代が到来していた。

 ともあれ、そうしていち早く巡空艦を実用・量産化した帝国は、真っ先に海の向こうにある北西の島国、アイル・ブリストル王国に狙いを定めた。そこは総統が憎んで止まない、前の大戦で煮え湯を飲まされた仇敵の国であった。

 二度目の世界大戦の嚆矢ともなった宣戦布告ののち、巡空艦による持続的な航空支援を得た帝国軍は一ヶ月と経たずに王国本土の上陸に成功。以後、じりじりとその首都に向けて前線を押し進めていた。

 そんな中で、敵国の戦意と後方支援を削ぐべく、陸に先駆けて巡空艦隊が内陸の首都を爆撃するという作戦が発令される。その露払いとして派遣された艦隊群のうちの一つが、ハンスのいる艦隊だった。

 乗艦であるヴィットムント級重巡空艦〈ローレンフェルス〉と、随伴のレーヒフェルト級軽巡空艦二隻、護衛戦闘機からなるこの艦隊は、つい先ほど戦闘配置が解除されたばかりであった。


『総員、対空戦闘用意。総員、対空戦闘用意』

 弾薬庫を出たハンスの耳に、艦橋からの放送が飛び込んできた。間髪入れずにブザー音が響き渡り、仮眠室や食堂から出てきた兵士達が慌ただしく持ち場へ向かっていく。

『敵編隊複数。方位二六〇及び三一〇、同高度、ともに距離二万七千。各銃座、撃ち方用意』

 急いで弾薬箱を抱えて銃座に戻ると、「畜生またかよ」とヘルマンが悪態をついていた。

 ハンスが窮屈な銃座に弾薬箱を引っ張り込むのを尻目に、ヘルマンは両頬を叩いて銃把を握り直した。弾帯と油圧装置に異常がないか確認した後、彼は銃座を回して艦の前方へ向ける。

 ハンスの担当は射撃ではなく、その補助と観測、艦橋への報告である。弾薬を運び終えたところで天井扉を閉め、ヘルマンのすぐ後ろの座席に着き、銃口と同じ方向に双眼鏡を構える。

 夜間の戦闘というのは、当然ながら相手がほとんど見えない。もちろん艦橋や砲塔には測距儀や測角儀があるが、目視で照準を合わせるため標的が視認できることが大前提になる。

 一方で夜でも使える索敵用機械レーダーは搭載されているが、これはまだ実用化から日が浅い。雲や気候の影響を受けやすく、その上迎撃に必要な敵の方角、距離、高度といった諸元も大まかにしか把握できない。

 月明かりを頼りにするか、あるいは発見され反撃を受けるのを覚悟でサーチライトを使うか。不利な戦闘だが、それは相手の戦闘機にしても同じはずだった。単機での偵察ならともかく、真っ暗闇の中で多数の戦闘機が編隊飛行や戦闘機動を行うのは非常に危険である。双方に被害が出にくいのが、夜間の空戦の常識であり、だからこそ司令部も首都攻撃というハイリスクな作戦を許可したのだ。

『一番二番主砲、榴散弾装填。対空撃ち方用意。上部甲板員は退避』

 スピーカーを通じて、艦橋から鋭い声が飛んだ。

『主砲、榴散弾装填よーし。方位二六○、仰角一一・三○。上部甲板員退避完了』

 砲術長の声が続いた後、ひときわ強い声で号令が下る。

『――撃ち方始め!』

 発砲の衝撃が、〈ローレンフェルス〉の船体を重く震わせる。

 艦内から砲声の残響が消えた頃に、また腹を突く重低音と共に次弾が放たれた。

 艦長以下艦橋にいる面々は、接近される前に敵の漸減もしくは撃退を狙っているようだった。

 主砲、すなわち艦の上部甲板にある一五〇ミリ連装砲は、本来は遠距離から徹甲弾や榴弾で対地・対水上砲撃をするための兵装である。

 だが今装填されている“榴散弾”は内蔵する鋼鉄製の弾子を炸裂時に広範囲に飛散させる対空専用弾だ。敵編隊の針路を予測して時限信管を調整して発射し、敵の目前で炸裂させることで撃墜するという寸法である。

 こちらの発砲に続き僚艦も砲撃を開始する様子が、銃座からも見えた。暗闇の中で、発砲の一瞬だけ、僚艦の甲板が橙色に照らし出される。

 ハンスは、切ろうにも切れない緊張の糸を持て余しつつ、双眼鏡を構えて襲い来る敵機の群れをただただ、待った。


 だが、いつまで経っても肝心の敵機はやってこなかった。砲撃が相変わらず一定の間隔で続くだけで、双眼鏡には風防のガラスと、漆黒の闇が映るばかりだった。

「……引き返したか?」

 ヘルマンが若干肩透かしを食らったような声で言い、機銃の照準器から顔を上げた。流石に目の疲れを感じ、ハンスも眉間を摘まんだ。

「だと、いいんだが」

 そこへ艦橋から再び連絡が入る。

『敵部隊遠のく。各艦砲撃中止。再度の接近に備え、各員戦闘配置のまま待機せよ』

 さっきの砲撃が効いたのだろうと思い、安堵して双眼鏡を下ろした、その時だった。

 鈍い爆音が響いた。

 風防がびりびりと震え、僚艦がまだ撃っているのかと苦笑する――だが、それが主砲の砲撃ではないことに、ハンスは一瞬遅れて気が付いた。

「おい……!」

 慌てて双眼鏡を構える。

 〈ローレンフェルス〉に先行して飛行していた随伴艦の軽巡。その底部が、たった今巻き起こった爆炎に包まれていた。

 そして、その炎に照らされて夜闇に一瞬煌めいた複数の翼面を、ハンスは見逃さなかった。

 すぐさま通話機を引っ掴んで艦橋へ繋ぐ。

「僚艦被弾、敵機だ! 雲の中から上がってくる!」

 自分で言っていながら驚く。

 さっきまで、辺りは地表の街の灯りが見えるくらいには晴れていたはずだった。いつの間にか、艦隊は低い層雲の上を航行していた。

 ――あの敵編隊に、誘い込まれた。

 ハンスだけでなく、この艦隊に所属する全員が、今になってそれを悟り、愕然としていた。

『下方見張り員は対地警戒を厳とせよ! 各銃座は発砲も許可する、僚艦の位置に注意』

 そう艦橋から命令が来た矢先、ハンスの恐れていた事態が起きた。

『敵編隊、直下から接近!』

 伝声管越しに響いたのは、他の銃座からの悲鳴だった。

 トビウオのように次々と雲の中から飛び出してきた敵機が、空を泳ぐ巨艦に牙を剥く。

 敵機はみな、普通の戦闘機とは違い翼下部に四発のロケット弾を懸下していた。それは明らかに、機動力を犠牲にして巡空艦を屠るためだけに特化した航空隊であった。

「クソッ」

 ヘルマンが慌てて機銃を真下に向け、すぐに発砲する。同じように、他の銃座からも一斉に弾がばら撒かれた。

 彼我の距離がみるみる縮まる間に、二十ミリ弾の一つが先頭にいた機体の鼻面に突き刺さる。火花と白煙が散り、機体はプロペラとコクピットを四散させて雲に沈んでいく。

 だが、こちらの戦果はそれまでだった。

 残りの敵機は、ハンスのいる銃座にロケット弾を放つ――ことはなく、不意に散開して視界から消える。

 次の瞬間、着弾音と衝撃が脳天を揺さぶった。一度ではなく、三回、四回と立て続けに被弾した。

 彼らの狙いは銃座や砲塔ではなかった。

 巡空艦はその巨体を浮かべるためにヘリウムを使用しているが、当然それだけでは足りない。併せて用いているのが、推進用とは別に船体側面に取り付けられた、六基の“浮揚機”――偏向型のプロペラエンジンだった。

 身体の芯が底なしに冷えていくのを感じる。

 敵編隊は勝ち鬨を上げるように旋回し、砲火を悠々と潜り抜け雲に戻っていく。

『第五、第六浮揚機大破!』

『八番砲塔にて火災発生! 弾薬に誘爆する!』

『被弾区画の閉鎖急げ! 応急班各員は酸素マスク用意!』

 被害報告や怒号が瞬く間に艦内を埋め尽くす。

 その時、どこからか船体を伝って、悲鳴のような金属音が聞こえてきた。

「くそったれが……」

 ヘルマンの脱力したような声。

 ロケット弾の直撃を受けたのだろう――無残にひしゃげ、燃えながら船体から剥落していく浮揚機を、ハンスは青ざめた顔で見つめるしかなかった。

 そこへ間髪入れず、爆発の振動が襲う。被弾ではなく、艦の内部での誘爆だった。

 海の軍艦にこそ劣るが、巡空艦の装甲厚はほとんどの戦車や爆撃機のそれを上回る。哨戒艦ならともかく、重巡である〈ローレンフェルス〉ならば尚更である。

 だが飛行船譲りのその巨体ゆえに、全面をその重装甲で覆うことはできない。排熱設備や、積載物の搬出入用ハッチといった弱点がいくつか存在する。

 敵機の放ったロケット弾はその弱点に命中し、外部隔壁を突き破って艦内で炸裂したのだ。ヘリウムタンク損傷、主機室延焼、燃料庫誘爆と、ひっきりなしに艦内を飛び交う報告からしてその惨状は察するに余りあった。

 銃座の凍えるような気温に反して、全身が嫌な汗を纏っていくのを感じる。ヘルマンと顔を見合わせ、ハンスはいつでも退避できるように銃座の天井扉を開け放つ。通路からは怒号や警報音が直に聞こえてくる。

 そこに操舵室から放送が割って入る。

『昇降舵、マイナス十五。雲の中に降下する、総員体位保持!』

 辺りの乗員と同じように、ハンスも慌てて跳ね上げ扉についたグリップを握った。

 舵が効いて、軋むような音と共に、ぐっと艦が前傾する。

 銃座内に目をやると、一面の雲が迫ってくるのが見える。言いようのない本能的な恐怖に、首を掴まれるような心持ちがした。

 やがて、艦全体が雲海に沈む。視界はほぼゼロだ。それがより一層、艦の乗員を不安に押し込めていく。

 雲の切れ間に差し掛かった瞬間、

『電探室より総員。レーダーに反応を認む、先ほどの敵機らしき集団が再接近!』

 そこから、再び悪夢のような時間が始まった。

 丸い双眼鏡の視界の中、雲の合間、月明かりを背に、小さな黒点の集まりがみるみる近づき、やがて上下左右に分かれ、襲い来る。

 今度は敵も銃座を見逃しはしない。これ以上エンジンをやらせまいと火を噴く銃座が、一つまた一つと機銃掃射を浴びて沈黙していく。そんな中でハンスはひたすら、ヘルマンに射撃目標を指示し、弾が切れそうになる度に弾薬箱を抱え、野戦病院と化した通路を往復する。

 横たえられた手や足の無い兵士、音信が途絶した区画へ直接走っていく伝令、人を刺したかと思うほどの血に塗れたまま奔走する軍医達。

 凄惨な光景を目にしても、徐々に気にならなく――気にできなくなっていくのを感じる。

 人は心に余裕がなくなると身の回りや仲間内しか見えなくなるものだが、さらにそこからもう一段追い込まれると、きっと仲間のことすら心に入れられなくなるのだ。否、そこを克服していく兵士も多いのだろうが、ハンスはそうなれなかった。

 段々と艦橋や他の銃座からの指示連絡も途切れ始め、艦の状況が把握できなくなっていく。

 通路を行き来する度に喉を突く血のにおいと、負傷兵の呻き声。銃座に戻っても硝煙臭と、辺りの装甲に弾が跳弾する音、銃座内部に反響する発砲音がハンスを取り囲む。

 いよいよ五感が痺れてきた頃、突如銃座のヘルマンが怒声と共に銃把を手放した。

「ああ畜生、弾が真っ直ぐ飛ばねえ」

 見ると、撃ち過ぎによる熱膨張で銃身が歪んでいた。先端に至っては赤熱している。

「待ってろ、替えがないか探してくる」

「すまん頼んだ」

 ヘルマンは射撃を連射から単射に切り替え、銃身の様子を見ながら撃ち始めた。

 最寄りの倉庫に向かうため、ハンスはすぐに天井扉を開けて通路へ身を乗り出す。

 その直後だった。

 それまでの砲声や銃声を凌駕するほどの、とてつもない轟音と振動が響き渡る。何が起きたかわからぬまま、ハンスは耳を押さえて通路へ倒れ込んだ。

『艦底部被弾! 地上から、地上から砲弾で狙われてる!』

 麻痺しかけた耳に、誰かが叫ぶ声が聞こえた。

 この高度までこれだけの威力の砲弾が飛んで来たとなると、本格的な対空砲陣地から捕捉されたのかもしれない。巨体を雲の中へ隠そうと高度を下げたのが完全に仇になった。

「落ちる……」

 震える口から無意識に漏れた声は、何かが突っ込んでくる風切り音に掻き消される。

 身構える間もなく、ハンスはもう一度来た衝撃と共に意識を失った。


 気が付いた時には、ハンスは元いた銃座から随分離れたところで倒れていた。いた所のすぐ近くに被弾したのだということを理解するのに、だいぶ時間がかかった。

 手足も動かせないままかろうじて保っている視界には、不自然にひん曲がった通路の床が見えた。貫通されてはいない。榴弾が装甲に命中したのだ。

 自分の持ち場である銃座は扉が開いていて、白煙が上がっていた。

 そこから、呻き声が聞こえた。

「――ヘルマン?」

 よろめきながら立ち上がり銃座へ歩み寄る。だが中へ入ろうとしてハンスは息を呑んだ。

「ハンス……ハンスか? すまない、上に引き上げてくれないか……足が何かに挟まって……」

 見当違いの方向に顔を向けたヘルマンは、顔の半分が焼けていた。片目が無くなっていて、虚ろで赤黒い眼窩があるだけだった。もう片方の目も焦点が合っていない。

 呑んだ息が吐き出せず、血痰のように喉に詰まる。

 銃座の中は、至近距離で炸裂した榴弾の破片や爆風をもろに受け、半ば原型を失っていた。

 機銃は銃身がへし折れ、弾が暴発を起こしたのか薬室の部分が砕けている。銃把の部分には指のようなものが引っかかり、割れた風防からは耳障りな甲高い音と共に空気が漏れ続けている。

「……ヘルマン、おい、何てこった」

 ようやく我に返り、ハンスは銃座に上半身を突っ込んでヘルマンの両脇を抱える。だが引っ張り上げようとして、足が“挟まる”どころか捥げていることに気付く。かろうじて繋がっていた左足が、止めどなく血を流しながらだらりとぶら下がった。

 近くにいた兵を呼び、二人がかりで彼の身体を銃座から引きずり出した時には、既に事切れていた。

 やがて通路に横たえた遺体のもとに軍医がやってきて、無意味とは知りつつも脈を確かめた。そしてヘルマンの首にかかった認識票ドッグタグを半分ちぎるとポケットにしまい、茫然自失のハンスの肩を気遣わしげに叩いてから、去っていった。

 崩れるようにして、ハンスは通路の脇にへたり込む。

 あちこちで起きた火災で艦内の気温は上がっているのに、身体の震えが止まらなかった。

 恐怖のせいかと思っていたが、ふと見ると自分の身体の下に小さな血溜まりがいくつもできていた。

 ああ、と呻く。常識的に考えれば、怪我をしていない方がおかしいのだ。致命傷なのかもしれないが、酷く無気力になっている自分がいた。――どうせ、もう生きては帰れない。

 どうにも不思議な感覚だった。

 艦はどんどん高度を落としていた。平地があればそこに不時着するだろうが、山があれば激突して砕け散る羽目になるし、敵軍が近ければ脱出したところで掃討されるだけだ。第一、いつ艦の制御そのものが効かなくなるかもわからなかった。

 艦長達はせめて墜ちる前に一矢報いようと躍起になっていた。ほとんど怒鳴るような声がスピーカーから聞こえてくる。

『対地榴弾砲、一番から三番! 砲側照準に任せる、撃て、撃て!』

 だが発砲は無い。三つとも砲塔がやられたか、誘爆を防ぐため砲弾が撤去されたのだろう。

 先ほどまで耳朶を打っていた銃声や砲声も聞こえなくなっていた。敵編隊を全滅させたのではなく、向こうが効果十分と見て撤退したのだ。

 この時点で〈ローレンフェルス〉は僚艦を一隻失い、残る二隻も既に撤退させており完全に孤立していた。何とか帰還する方向に舵を取ってはいるはずだが、恐らく敵の本土上空を脱する前に船そのものを浮かせる機能が失われて、墜落するだろう。

 巡空艦が航空機とも洋上艦とも違うのは、この“死を待たされる時間”が異常に長いことだった。巡空艦の乗員は水上艦とほぼ同程度であり、空を飛んでいる最中に人員を脱出するのは海の上ほど容易ではない。

 さらに言えば、帝国軍の巡空艦搭乗員は、敵地で脱出ないし不時着した場合も、武器のある限り戦えと教わっている。その訓示に忠実に、艦内にはあらゆる指示が飛び交っていた。

『手の空いた者は保管庫から小銃を出せ!』

『電信室、機関室各員は全ての文書を焼却し、通信機器は全て破壊せよ。刻銘板も可能な限り剥ぎ取れ』

 だが今のハンスには、帝国軍兵士としての自覚も何も無くなっていた。戦友の亡骸を横に、通路の壁にもたれかかったまま、小刻みに震え浅い呼吸を繰り返す。

 体温が下がっている感覚が消えない。もしかしたら墜落より先に失血死するのではないか、とどこか他人事のように思う。

 抜け殻のようになったハンスの前を、幾度となく兵士や士官が往来していった。

 将校が通りかかり、抱えていた何丁もの小銃から一つを差し出された。彼は何事か声をかけてきたものの、震えて口が開かない。怒声と共に胸ぐらを掴まれたが、すぐに将校の目が諦めの色に変わった。

 彼は掴んでいた手を離すと、無言でハンスの傍らに小銃と弾倉を一つだけ置いて立ち去った。

 血の滲んだ自分の身体とは対照的に、傷一つない制式小銃。鈍く黒艶を放つ銃身と滑らかな木製銃床を、ハンスはぼんやりと見つめていた。


『高度三〇〇…二八〇…二六〇……』

 何分ほど経ったか、カウントダウンのような声でハンスは我に返った。これは確か航行長の声だ、と記憶を探る。

 船体が異常に大きく揺れていた。通路の窓の外は相変わらず真っ暗だったが、時たまおぼろげに地表らしきものが窺える。艦のあちこちで起きている火災の光が、地面に反射しているのだった。

 〈ローレンフェルス〉はほぼ動力を失い、まるで惰性で飛ぶ紙飛行機のように、地表へ向かって緩やかに降下していた。

 ――ああ、死ぬのか。

 脳裏に、ある光景が浮かんでくる。

 墜落した巡空艦の残骸の中で、身体が真っ二つになって息絶えている自分。曇りがちだという王国の土地で、血と内臓を晒して、降りしきる雨に打たれている。傍らには何故か無傷のままの小銃がある。小銃は泰然と雨雲を銃身に映しながら、その木製の銃床で血を吸っていくのだ。

 それを思い浮かべた時……その時になって、ようやく、ハンスの背に強烈な冷たい感情がせり上がってきた。

 怖い。

 そう自覚してしまった。その恐怖は紛れもなく、冷然と佇む死への恐怖でありそして死への恐怖は、生への執着心と同義だ。

 全く為す術のない状況になってしまってから、まだ死にたくないという思いが湧き上がる。絶望的と言う以外になかった。

 ここは艦底部だ。飛行時の重心を保つために一番隔壁が厚いとはいえ、墜落時には真っ先に潰れるのではないか。

 せめて、少しでも上層に移れば、生き残れるかもしれない。

 息を震わせつつ立ち上がると、ハンスはおぼつかない足取りで通路を歩き出す。

 だが、それはあまりにも遅い判断だった。

『一四〇…一二〇…一〇〇! ――総員、衝撃に備え!!』



 窓の庇の上に留まったらしい鳥の鳴き声で、リネット・グレーナーは目を覚ます。

 薄暗い視界が徐々に広がり、部屋の窓越しにまだ太陽も上っていない薄白みの空が見えた。

 ゆっくりと起き上がるとベッドから降りて靴を履き、まとめていた後ろ髪を解く。栗色の、少しウェーブのかかったロングヘア。

「まだこんな時間……」

 壁時計の短針は四を指している。両親が起きだすのにもまだ早い時間だ。昨晩は空襲警報のせいで寝られなかったというのに、どういう訳か今は全く眠気が無かった。

 だがその理由にはすぐに気付いた。

「……?」

 どこかから漂う、鼻をつくにおい。

 普段着に着替え、自室からリビングへ。そのままにおいの元を辿るように家の外に出ると、少し強くなる。

 煙のにおいだった。

 この辺りは人家もまばらな、一面が畑の丘陵地だ。焼畑でもしていなければ火元があるような場所ではない。

 リネットが家の裏手に回ると、なだらかな丘の向こう側で、黒煙と白煙が混じりながらたなびいているのが見えた。

 もしや、と思う。

 昨晩、防空壕から出た後に父が話していた。

「町の近くに爆弾か何かが落ちたかもしれない」

 自警団で地上にいた父は、砲声とは明らかに異なる轟音を聞いたらしい。

 つい最近上陸してきた帝国軍と、それを迎え撃つ王国軍の最前線からこの村まで数十キロ。そこで負傷した兄が搬送された後方の野戦病院からでも、かなりの距離がある。帝国軍がこの地域まで空襲しに来ること自体が、ほぼ初めてのことだった。

 だから、きっと父は動揺してあんなことを言ったのだと、昨晩は思っていた。だが今見えているものは間違いなく、野焼きや畑焼きの煙ではないとわかる。

 一抹の恐怖より好奇心が勝って、リネットはあぜ道を辿って丘を越えた。

 越えたところで、絶句した。

 煙の主は、爆弾でも、航空機でもなかった。

 空と同じ灰色をした、飛行船のような形の巨大な鉄塊。

 

 ――巡空艦。


 だだっ広い畑の真ん中に擱座していたのは、紛れもなく、その残骸だった。

 思わず口元を覆う。小刻みに震えた息が、指の隙間から漏れて外気に溶けていく。

 全長はゆうに二百メートルはあるだろう。もしかしたら、“戦空艦”クラスかもしれない。それまで新聞の写真でしか見たことのなかった敵の巨大兵器が、リネットただ一人の目前にあった。

 ただしその艦は、随所から煙を上げ、無残に中央部から二つに割れている。頭から墜落したのか艦首は大きく歪み、地面も酷く抉られている。甲板や側面からはいくつも砲塔が脱落していた。

 船体には、灰色のグラデーションのような模様が施されていた。どうやらあれが雲上迷彩というものらしい。半分以上が黒く焼け焦げてはいたが、残骸に残ったその塗装は確かに曇り空とよく馴染んでいた。

 ゆっくりとリネットは歩を進め残骸に近づいていった。この場に兄がいたら「敗残兵が出てくるかもしれない」と物凄い形相で止めるだろう。

 巡空艦は、近くに寄れば寄るほど、飛んでいることがまるで想像できないほどの大きさだった。

 船体の周囲に人影は一切なく、大小様々な残骸が散らばっている。装甲板、エンジン、鉄くず、銃弾、装備品。そして、かつて人だったと思しき赤黒い塊や手足。

 普段のリネットなら、悲鳴の一つも上げただろう。だが今は何故か、この巨大な残骸に押し殺されているのか、感情の起伏がなかった。まるで自分が泥沼の塹壕戦の跡を、生存者を探して歩いているかのような。

 もっとも、生存者など到底いるようには思えない。それほどの惨状だった。


 その時突然、残骸の中から大きな音がした。

「……!」

 反射的に後ずさる。物音一つで、それまで鳴りを潜めていた恐怖心が一気に戻ってきた。首筋から背中へ冷たい感覚が下りていく。

 身を隠す間もなく、残骸に空いた穴の中から人影が現れる。

 まるで魂が抜けたかのような足取りで出てきたその兵士は、手負いと言うのも憚られるような酷い恰好だった。

 飛行服と思しきものは破れたり焦げたりして既に原型が無く、下に帝国軍のダークグレーの制服が見え隠れしている。だがその制服さえも、煤や赤い染みで大部分がグレーとわからないほどに汚れていた。額には乾きかけの血が伝い、腕には裂傷のようなものまで見える。

 見るからに意識朦朧といった状態で、目が見えているのかすら怪しげだった。

 逃げるなら今しかない。

 そう思って踵を返そうとした瞬間、兵士が顔を上げた。二十メートルほどを挟んで、目が真正面から、合ってしまった。

「――――!!」

 知らない言語で発された言葉と共に、兵士が大きくよろめきつつ懐に手を伸ばした。

 素人のリネットにも、その手の先にあるものはわかった。彼は瞼に傷を負った目を無理やり見開き、飛行服の内ポケットから拳銃を抜く。遊底スライドを引いて、また何事か喚くような声で言い、銃口をリネットへと向けた。

 リネットは足が強ばるのを何とかして抑えつつ、とにかく武器と敵意を持っていないことを示すため、両手を上げて頭の後ろに寄せた。

「――! ――!」

 兵士は片足を引きずりながら近付いてきて、銃口を下に振って合図をする。だが言われるがまま膝をついた時、リネットは彼の目を見て息を呑んだ。

 その目に浮かんでいたのは憎悪でも殺意でもなく、ただひたすらな恐怖だった。こちらに向ける銃口すら震えている。

 全身から力が抜けるような感じがした。

 自分達を殺しに来たはずの人間だというのに、こんな丸腰の娘一人に彼は怯えている。

 一体どれほどの恐怖や絶望を味わったらそうなるのか。リネットには想像しようにもできない。

 ただ一つ、彼の表情に現れた恐怖は本物だと思った。

「あ、あの――」

 ところが次の瞬間、兵士が足をもつれさせて転倒した。

「あっ……!」

 思わずリネットは立ち上がり、駆け寄ろうとした。――それは偽りなく、彼を助けたいという気持ちの片鱗が芽生えていたからこその行動だった。

 刹那、腿の辺りを殴られたような衝撃が襲った。

 視界がぐらつき、緩やかに舞うようにして倒れる。追って押し寄せる痛みで、撃たれたことを自覚する。

 だが、それに一番驚いているのは兵士の方だった。彼は仰向けの体勢で、拳銃の銃口から硝煙を漂わせて固まっていた。

 数秒ののち、我を失ったような叫び声を上げて、兵士は慌てて立ち上がり、何度も転びながらリネットの元に駆け寄ってきた。

 ――彼は泣いていた。

 転倒した隙を突かれると思って、恐怖が勝って、引き金を引いてしまったのだ。

「――! ――…っ!! ああ、――……」

 彼は血の滲んだ腕でリネットを抱き起こし、言葉が違うことも忘れて、必死に声をかけてくる。スカートの中に手が入って一瞬慄いたが、彼は銃創の場所を探しているのだった。

 やがて彼はぼろぼろの飛行服をちぎると、即席の縄のようにして足の付け根を縛り止血した。

 呻き声が漏れる激痛ではあったが、致命傷ではないはずだ。むしろ彼の方が、何倍も死に際のような雰囲気を纏っていることが、リネットは不安になっていた。

 止血を終えた途端、彼は骨が抜けたようにしてリネットの傍らにへたり込む。

 まるで肺に何かが憑いたかのような震えた呼吸。その何かに怯えるようにして声を押し殺し、肩を揺らして彼は嗚咽していた。

 それがどうしても見ていられなくなって、リネットは痛みを堪えて身体を起こし、彼の肩に手を置いた。

「大丈夫、私は大丈夫だから」

 言葉が通じないのはわかっていた。だが兵士はその声を聞いた途端、まるで故郷の友人に会ったかのような顔をした。

「あなたの国は敵国だけど、今は、それはいいの」

 勇気を出して肩から背中へ手を回すと、リネットの背中にも震えながらゆっくりと両手が触れた。

 性別も人種も違うのに、この極限状態で何かが通じ合ったような気がした。

「………」

 しゃくり上げるような声だったのが少しずつ落ち着いていくのがわかる。

 やがてゆっくりとした深い呼吸に変わって、安堵の込もった長い溜息が続いた。そして――

 そして、止まった。

 何も聞こえなくなった。

「は……っ」

 絞り出すような息が自分から漏れた。気道が塞がり、胸の底が強く締まる。

 彼は息絶えていた。

 そこにはもう戦争は無かった。リネットと、生きている彼の間にだけあった一瞬の、戦争の残滓。まるで霧のように、二人の間から消えていた。

 リネットの他に、動くものも、生きるものも無い。残骸から噴き出す煙だけが、風になびいて揺れている。

 心の中が、何も無くなっていた。

 代わりに、ただの無力感ではない何か、かさ張るのに質量のない何かが、全身を少しずつ満たしていった。

 眠ったような顔で横たわる兵士を地面に寝かせ、手を握る。温もりが少しずつ遠のいていく。

 肌に雨粒が当たり、リネットは目を閉じて空を仰ぐ。ゆっくりと開けた目には、高くそびえる残骸と、水滴を撒き始めた曇天だけが映っていた。

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灰塵の銃座 餅月 @motch

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