第2話 思い出のアイス

 三島秀太と宮住ののは親戚だが、単純にいとこという間柄ではなかった。

 秀太の父親は三人姉弟の末っ子で、一番上の姉とは十歳以上の歳の差が開いていた。その長女の嫁ぎ先が宮住家であり、姉夫婦の孫として誕生したのがののというわけだ。つまり家系図的に言えば、秀太にとってののは従姪という存在だった。従姪、すなわちいとこの娘である。

 とすれば、秀太がおばさんと呼んでいる女性こそが本来のいとこであり、秀太とののはだとか、はとこと呼ばれる関係が正しかった。

 しかしながら、このような親戚間で起こる現象は大して珍しいものではない。ましてや、秀太たちは彼らの中で一番若い世代だ。年始や里帰りなどの行事で大人たちの話し合う時間というのは退屈で、秀太とののが互いに惹かれ合ったのはごく自然な事だったのかもしれない。

 普通に仲良くやっていた、というのは秀太側の意見である。それがどうして、普通ではない習慣が彼らの中で始まったのか。きっかけは然して特異なものではなく、シンプルで些細な事象から生まれるものである。それは大人になると失われる、無垢で無邪気なアイデアに依るものだった。


 小学三年生の夏、秀太の自宅に二年生になったののとその家族が遊びにやって来た。かわいいねえとか見ないうちに大きくなってから始まった世間話が一段落すると、夕食の買い物をしてくると子ども二人は家に置いてきぼりにされたのである。だが、秀太たちにとっても、それはちょっぴりつまらない時間からの解放だった。

 何をして遊ぼうかと秀太が持ちかけた結果、ののは開口一番トランプがいいと言った。テレビゲーム全般は秀太の方が上手かったが、トランプでは彼女に分がある。特に〈スピード〉や〈神経衰弱〉などでは、秀太はののに歯が立たなかった。だが、秀太も男である。持ちかけられた勝負からは決して逃げない姿勢を見せ、見事に惨敗を喫したのだった。

 真剣勝負で熱くなったのか、ののはアイスが食べたいと言いだした。秀太はここを勝機と見た。既に五つの種目で敗北していたが、子どもの勝負では最後に勝った方が勝ちという謎のルールがある。それを活用した卑怯な手である。次に勝った者がアイスを食べられるという、言わば意地とアイスの倍プッシュを懸けた大一番を申し込んだ。決着は実に淡白なもので、秀太に何の見せ場もないまま、ののが勝利を収めたのだった。

 思えばその頃から、ののは悪戯っ子の気質があったのかもしれない。お気に入りのバニラアイスを取られ、体を震わせて悔しむ秀太を見てほくそ笑む顔の魔力といったら……。しょうがないなあと言って秀太に差し出したひと口も、Uターンして彼女の口の中に収まった。


 その時、溢れる感情が一筋の涙となって秀太の顔を伝った。必死で抑えようとすればするほど哀しみは募っていく。子どもにとって人が泣く、人を泣かせることは一大事だ。もうすぐ大人たちが帰ってくる。そうなれば秀太が泣いた原因の追及は免れない。慌てふためく少女の頭に、天啓とも言うべき解決策が浮かぶ。逡巡もないうちに、ののはすぐさまそれを実行に移した。

 不意に秀太の口内に広がる甘い味覚。視界一面には瞳を閉じる少女の端正な顔。意外なほどに柔らかい唇。初めてなのに受け入れてしまうほど、その感覚は秀太に至上の歓びをもたらした。

 驚いたことで秀太の嗚咽は治まったが、それと反比例するようにある複数の感情が彼の中で芽吹きをみせた。秀太はその事について、〈いい気持ちとわるい気持ち〉と拙さの残る表現で表していた。禁忌を犯す愉悦と罪悪感――かどうかはさておき、相反する二つの感情が彼の中で生まれ、ひしめき合うように育まれていった。


 それからというもの、二人は会う度に、隠れてその〈アイスを食べる〉という行為をおこなうようになった。アイスを食べるだけだ。そう、アイスを――。


 年を追うごとに、その行為の孕む危険性を秀太は知った。

 まず、唇を合わせる行為はキスだということ。

 そして、日本では親戚同士であまりキスをしないこと。

 さらに、キスは一種の愛情表現であり、また性行為の前段階におこなわれるということ。


 もう止めようとののに幾度も伝えようとしたが、秀太は伝えられなかった。微妙なバランスで均衡を保っている二人の関係を、自らの手で崩すことができなかったのだ。そんなジレンマに苛まれる秀太とは対照的に、ののは〈アイスを食べる〉という行為を楽しむようになっていた。理由はわからない。


 評判の良い進学校に通うため、遠方の宮住家に世話になることが決まった時も、秀太の心境は複雑だった。なぜなら、同時期に思春期を迎えた従姪が、より一層魅力的になっていたからだ。

 前々からとても可愛いらしいとは思っていた。だが、ののと一緒に街を歩けば、ほとんどの男がすれ違いざま彼女に性的な視線を向ける事実に、秀太は困惑した。のの曰く、素知らぬ輩に声をかけられる日とそうでない日が半々だそうだ。

 男共が妄想の中でののと戯れる中、秀太たちの行為は次第にエスカレートしていった。先日は彼女の母親が帰宅し、居間の扉を開ける寸前まで唇を重ねたままだった。


「三島くん? おーい、三島くんってば」


 万が一バレたら、若気の至りでは済まされない。それがわかっているのに、従姪にされるがままの自分。秀太は重たい息を吐いた。


「次無視したら君の膝の上に乗るぞ?」

「え? すみません、ぼーっとしてて。……何か言いました?」


 物思いに耽っていた秀太はハッとして、現実に舞い戻る。正面にいるのは件の従姪ではなく、秀太と同じ生徒会役員の、言葉遣いが独特な女子生徒だった。時刻は午後四時過ぎ。窓の外はほんのりと薄暗い。

 秀太は放課後の生徒会室で、アキラと共に資料の整理をしていた。エアコンの送風音が耳に残るくらいに、室内はしんと静まり返っている。それもそのはず、室内には彼らしかいなかったのだ。


「確信犯め、いつか逮捕してやる」

「よくわかりませんが、きっと冤罪です」

「まったく、才色兼備の次期生徒会長を前にして、よくそんな事が言えたものだな」

「自分で言います? それ」

「三島くんが言ってくれないからだ」


 このような具合で、アキラと言葉を交わしながら雑務に勤しむのも、秀太の一つの習慣だった。長い黒髪が映える色白の肌に凛とした顔立ちながら、低身長というギャップも相俟って、アキラの校内での人気も多かった。

 皆が畏まった態度で彼女と接する中、自分を特別扱いしない秀太をアキラは気に入ってくれているようだった。小悪魔とひとつ屋根の下で暮らしている身の秀太にとって、品格のあるアキラとの対話はむしろ、心地よいそよ風のようでもあった。自然体でいればいいだけなのだから。

 歓談を挟みながらプリントを片づけていると、一つの挿絵が秀太の目に入る。思わず発した呟きによって、秀太はなぜその挿絵から目が離せなかったかを理解した。彼の脳裏には、従姪の屈託ない笑顔が浮かんでいた。


「これ……」

「どうかしたか?」

「アキラさん、突然ですが、来週の土曜日空いてますか?」

「え?」


 秀太がそう訊いた瞬間、アキラの体がビクッと跳ねた。その瞳はパッと輝いている。


「も、もちろん空いているぞ! いざという時のためにな!」

「そうですか。じゃあ、もしよかったら一緒に出かけませんか?」

「うむ、苦しゅうない」


 いつにもまして意味不明なアキラの言葉遣いに、秀太は首を傾げる。殿様みたいな台詞を言いながらも、アキラは頬を赤らめてもじもじとさせている。まるで穢れを知らない乙女のような反応に秀太は怪訝に思った。別にただ、個人的な用事につきあってもらうだけなのにと。

 腕を抱く仕草をしながら、アキラは伏し目がちに口を開く。


「しかし驚いたよ。まさか君の方から誘いがあるなんて」

「困ったときのアキラさんですから。わからないこと訊いたら大体教えてくれますし」

「褒めても何も出てこないぞ。それにだな、三島くん。大事な予定というのは、もう少し早めに取りつけるものだ。わ、私だってその日は、色々と断って空けておいたのだから……」

「先客がいるのでしたら、そちらを優先しても――」

「いや! 三島くん、君がいいんだ!」


 前に乗り出したアキラが叫ぶようにそう言うものだから、秀太は思わず上体を反らした。そうしていなければ額同士がごっつんこするくらい、アキラは顔を近づけてきたのだ。だが、己の行儀の悪さに気づいたのか、アキラはすぐに居直って咳払いをした。


「そういうわけだから、後日、待ち合わせの詳細を伝えてくれ」

「ア、アキラさん?」


 まだ雑務が終わっていないというのに、アキラは席を立ち、早足で退室していった。彼女が仕事を残して去るなんて初めての事で、止めるに止められず呆然とする秀太。

 どうしてアキラはさっきから様子が変だったのか。確かに恋愛には免疫がなさそうな感じはするが、もしかしてデートのお誘いと勘違いしているのだろうか。考えを巡らせているとあるものが目に入り、秀太は「あっ」と小さく発した。

 正面の壁に掛けてあったのは質素なカレンダー。来週の土曜に目を移すと、日付は24とあった。今月は師走だ。あらぬ勘違いをさせてしまったのは秀太の方だった。

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