バニラ

東京輔

第1話 夕飯前のアイス

「ねえねえ、何味のアイスが好き?」

「イチゴ! 果肉入っているやつ」

「あー美味しいよねぇ」

「ゆっこは?」

「ウチはチョコミント」

「えー? あれ歯磨き粉の味じゃん」

「だ・か・ら! 歯磨き粉がミント風味なんだって、この前説明したし」

とりが先か卵が先か、的な?」

「哲学じゃん! りりちゃ、頭良い!」

「つまり、アイスは哲学だった?」


 女子生徒の笑い声が教室内に響く。進学校にしてはおよそ知性の感じられない内容だったが、日常における会話など大抵そんなものだろう。期末テストが終わり、師走も中旬を迎える頃となれば尚更だ。なぜこの寒い時期にアイスの話題になったのかは、全くの謎だが。

 二人の内の片割れが、視線を横に移して口を開く。実は彼女たちは三人で会話をしていた。スマホを眺めていたもう一人に、りりちゃと呼ばれる女子は公平に同じ事を訊いたのだった。


「ねえねえ、ののっちは?」

「え?」

「ののっちは何味のアイスが好き?」

「うーん、私は――」

宮住みやずみ、ちょっといいか?」

「え、なに?」

「いいから、ちょっと」


 しかしながら、世の中は不公平にできている。

 不意にクラスメートの男子に手招きされた女子の一人が、ひとつ重たい息を吐いて席を立つ。ゆっこが教室の外に目をやると、前髪をやたらと気にする男子が緊張した面持ちで廊下に立っていた。

 宮住ののは、校内一の――いや、他校でも噂されるほどの美少女だった。


「ののっち、モテるねぇ」

「でも、誰ともつきあわないよね」

「いるんでしょ、本命が」

「誰?」

「誰でしょうな。あ、でもこの前――」


 残されたゆっことりりちゃは、可憐な背姿を見送って取り留めのない会話を続ける。なぜかというと、結果はとうにわかりきっていたからだ。あの男子とののっちとではが違う。それは、教室にいた全ての生徒の共通認識であった。世の中は不公平で、残酷だ。


 その頃一方、最寄りの階段付近にて佇む二人の上級生の姿があった。


「ストップだ、三島くん」


 階段の踊り場にいた装い正しい女子が、先を行こうとする男子を呼び止める。悠然と階段を上りきると、彼女は男子を追い抜いて先行する。追い抜きざまに女子の方が口を開いた。


「先を行き過ぎるなといつも言っているだろう? そうでなくとも君は歩くのが速いのに」

「少しはアキラさんが急いでくださいよ。俺、次の授業移動教室なんスから」


 二人の身長差はつむじが覗けるほどあったため、三島の方が歩くペースを合わさざるを得なかった。アキラと呼ばれた女子はそれをわかっていながら、艶やかな黒髪を揺らし、敢えて余裕たっぷりに答えるのだった。


「生徒会役員たるもの、そのように慌てふためいていたら下級生に示しがつかない」

「アキラさんの威厳が足りないからでは?」

「……今、想像の中で君の首を絞めた」

「手、届きました?」

「次は棒状のもので殴打しようと思う」

「それは物騒ッスね。さあ、バカ言ってないで仕事しましょう。まずは一番奥の教室です」

「フフ、承知した」


 この間、アキラは表情をピクリとも変えずに微笑んでいたのだから大したものだ。生徒会の二人は、こうして各部活動の次代部長らに挨拶をして回っている最中だった。

 しかし、見た目からしてそれらしいアキラに較べ、三島秀太みしましゅうたはこれといった雰囲気を持ち合わせていなかった。どこかイイところのお嬢様と頼りない付き人といった具合の関係性を、多くの人が容易に想像したことだろう。

 そんな生徒会の彼らの傍を、ある男女二人が横切る。男子の方は知らないが、女子の方は誰もが知っていた。――宮住ののだ。


 圧倒的美少女と、冴えない生徒会役員。

 視線こそ合わせなかったが、二人は互いに意識した。

 二人には、他人に知られてはいけない秘密の習慣があった。


                 ***


 その夜のこと。

 郊外にある閑静な一区画は高級住宅街となっており、宮住家の一軒家もその場所に構えていた。駐車場に車の姿は見当たらなかったが、玄関とリビングの照明は点いている。

 時刻は午後六時。それを示す時計の鐘の音は鳴らず、代わりに何かを啜るような音が物静かなリビングから聞こえてくる。三島秀太は、自分と他者の唇が合わさって生まれるその音に、扇情的な気分を覚えずにはいられなかった。

 彼の見上げる先には、悪戯に微笑む宮住ののの姿があった。ソファに座る秀太、その上を覆い被さるようにして跨るのの。どちらも制服姿のままだった。艶めいた彼女の唇を眺めていると、秀太はどうにかなってしまいそうだった。

 ののは唇を指で軽く撫でると、一呼吸置いてすぐ傍にある顔に最接近する。


――秀太の口内に、甘く、冷たく、そして温い液体状のものが入れられる。


 唇を弄ばれた秀太は鼻呼吸をすることすら忘れていた。密のようなそれにただ酔いしれ、溺れてしまいたいとさえ思った。だが、一旦唇が離れるとすぐに、秀太の口は戸惑いの言葉を漏らすのだ。


「のの、まずいって。もうおばさんが帰ってくるから……!」

「じゃあ、抵抗すれば?」


 次の言葉を返す間もなく、目を伏せた美少女が再び秀太の唇を塞ぐ。秀太の脳天に甘い衝動が突き抜ける。抵抗などできるはずもなかった。彼女の親がいない二人だけの時間と空間。その時に限り、秀太はののが繰り出す甘い支配になすがままにされていた。

 程なくして、玄関の扉の開く音と、次いでリビングに近づく足音が聞こえる。


「ただいま~」

「お帰り、ママ」

「また待っててくれたの? 先に食べててよかったのに」

「ごはんは家族と一緒に食べる方がいいに決まってるでしょ。ね、おにぃ?」

「う、うん……」


 完璧に平静を装うのの。対して秀太の方といえば、息も絶え絶えの切羽詰まった中での相槌だった。乱れたソファのカバーを淡々と直すのの。彼女の唇はまだ光沢を帯びているというのに、なぜ何も動じていないのか。


「あら、秀太くん、またお夕食の前にアイスを食べたのね?」


 そう感心する前に、おばさんに空の容器を指摘され秀太はぎくりとした。舌にはまだ、バニラの風味が色濃く残っていた。


「食いしん坊だからね、おにぃは」

「食べ盛りなんだから、今度からおばさんのことは構わず、お夕食を食べててね?」

「は、はい」


 そう返して、秀太がソファに腰を下ろしてしばらく茫然としている間に、ののは食卓に置かれた料理を手に取り、レンジで温め直し始めた。ツーサイドアップの髪を揺らしながら夕飯の支度をする彼女を見ていると、多幸感や罪悪感に苛まれている自分が情けなく思えてくる。端正に整ったののの横顔を眺めながら、秀太は胸の内にある種の不安を浮かべていた。

 時を進める前に、まずは彼らの奇妙な関係性について、いくつか記しておかねばなるまい。

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