第40話

 意識が暗転し、次に知覚したのは音だった。

 シャリシャリと、何かを削るような音がする。

 次に分かったのは、自分は豪雨の中で大の字にぶっ倒れているわけではなく、清潔なベッドの上で寝かされている、ということだ。貫頭衣のようなもの着替えさせられた模様。アルコール臭いところからして、ここは病院だろう。


「ん……」


 俺は意識の暗転の謎を解明すべく、ゆっくりと目を見開いた。枕の上で、ゆっくりと頭を左右に動かす。その時だった。


「お目覚めかい?」


 至近距離から声をかけられた。しかしその声音は極めて穏やかであり、驚くには至らなかった。


「おっと、カーテンを閉めた方がいいな」


 俺に語りかけてきた人物は、俺のベッドの反対側に回り、遮光カーテンを下ろした。それからまた席に戻ると、シャリシャリという音を再開させる。リンゴの皮をむいていたのだ。


 その頃になって、ようやく俺は口を利くことができた。


「……長谷川先生?」

「ああ。交代交代で君のそばについているようにと思ってね。私も駆り出された」


 眼鏡の向こうで、キラリ、と優しい光が反射する。


「台風一過、雲一つない晴天だよ。こんな時に出歩けないのは、日頃の行いのせいかな?」

「余計なお世話ですよ」


 と言ってはみたものの、思いの外子供っぽい笑顔を作る先生の前で、俺も口元が緩んでしまった。


「私が君の容体を見ている時、今この瞬間に君の意識が戻った、ということは、説明する義務は私にあるようだね」


 その時になって、俺はようやく自分の置かれた状況を把握すべく、頭を回転させ始めた。


「えっと……ここはどこです? 病院の……」

「うちの大学附属病院だ。患者はこの部屋には君しかいない。このように個室が提供されたのは、やはり月野財閥の手回しがあったらしい」

「また金ですか」


 そう言って俺は左手を持ち上げ、指で輪っかを作ろうとしたが、


「あれ? 動けない?」

「ああ、あまりに痛みが酷いようだったので、一時的に麻痺させているそうだ。もうじき痺れは取れて、骨折もひと月程度で治るそうだよ」

「ふうん……」

「ちなみに君が月野美耶を救出したのは、一昨日の夜のことだ。丸一日、眠っていたわけだな」

「そんなに寝てたんですか、俺?」

「正確には、意識が戻ったり、睡眠状態になったりということを繰り返していたらしい。もうじき意識が戻る、という話を聞いて、駆けつけてきたのさ」


 教授は人工知能の研究に余念がなく、多忙なはずだ。それをわざわざ……。

 俺が再び視界をぐるりと回転させると、左の首筋がすこし攣りそうになった。注意深く首を回す。すると、先ほどよりも多くのものが目に入ってきた。

 教授が座っている側のテーブルには、何やら豪華な果物類が並んでいた。メロンやらサクランボやら、それにこの見慣れない果物は……何だ?


「ああ、それはスターフルーツといってね、沖縄で取れる高価な果物だそうだ。オクラじゃないよ」


 ふむ、と息をついて俺は顎に手を遣った。


「こんなものを一般人が手に入れられるわけないですよね? 少なくとも、どんなに急いでも今日中に入手するのは難しいはず」


 俺が視線を合わせると、教授は呆れたような笑みを浮かべた。


「まったく、これだから金持ちは……とでも言いたげだね、葉山くん?」

「ええ、まあ」


 とにかく果物の種類と数に圧倒されてしまっていたが、反対側、窓側の方を見ると、花瓶に花が添えられていた。


「それは神崎さんという人から、先ほど預かったんだ。まだ松葉杖をついていたけど、それも左半身だけだった。何とか生活できるということで、今日退院だそうだ。まだ薬物常習犯としての拘留は続きそうだがね」

「そうですか」


 俺はひとまず、皆の状態が分かって安心した。


「ところで葉山くん、是非君に会わせたい人がいる。呼んでもいいかい?

「え? ああ、はい」


 俺の見舞いに? 一体誰が、と考えを巡らせようとした時、その声は響いた。


「失礼します」


 少女が入ってきた。否、『少女姿の人物』が。俺は思わず上半身を起こした。


「アキ!」

「やっほー、俊介!」


 気楽に挨拶してみたものの、俺の脳裏に浮かんでいるのは、ホログラムで明滅しながら研究所へと運ばれていく姿のアキだ。


「アキ、大丈夫か? 俺よりよっぽど酷い怪我をしていたように見えたんだが……」

「へーきへーき!」


 相変わらずぺったんこの胸を張るアキ。


「教授が直してくれたからね」


 そうかそうか、と頷きながら、俺は再び視線を教授の元へ。


「ウィルスの研究はどうなったんです? やっぱりまだ続けているんですか?」

「そうだね」


 微かに目を逸らしながら、教授は言った。


「今回はアキを敵性プログラムとして認識させてしまったが……。ウィルスバスターとしての期待度は上がってしまったようでね。もちろん、今まで以上に警戒しながら実験を続けるつもりだ」

「頼みますよ、教授……」


 すると、俺の目の前で二人は目を合わせ、頷き合った。


「実はもう一人、君に面会希望者がいるんだ。我々はお暇させてもらうよ」

「え、あ、ちょっ!」


 教授は丸椅子から立ち上がり、さっさと出入り口へと向かう。


「まったね~」


 アキもひらひらと手を振りながら、教授について行ってしまった。

 咄嗟のことだったので、誰が来たのやらさっぱりだったが、廊下から聞こえてきた文句が最後の『面会希望者』の正体を明らかにしていた。


「何なんだよてめえ、俊介と仲良さげにしやがって!」

「まあ落ち着いてよ麻耶ちゃん、私と俊介はそういう仲じゃないから」

「あ! 今コイツ、俊介って呼び捨てにしやがった! 相当仲いいんだろこん畜生!」

「仕事仲間よ、仕事仲間」


 はあ。全くあいつらは何をやっているのやら。

 俺が呆れて肩を(といっても右肩だけだが)を竦めた直後、


「おい俊介!」


 怒声と共に麻耶がずかずかと病室に入ってくる気配がした。


「あ、はい、なんでございましょう?」


 俺はわざと何気ない風を装い、コップの水を一口。しかし横を向き、水を飲み込みかけて、危うく吹き出しそうになった。


「麻耶! な、何なんだその格好!?」

「え、あ、これ? えっと……」


 何てこった。麻耶が。あの月野麻耶が。


「高校の制服着ていやがる!」

「そっ、そんなに驚くことねえだろ!? ちょ、ちょっと今日は、保健室くらいには行ってみようと思って。だから、その、学校に行くには、制服かな、と……」


 先ほどまでの威勢はどこへやら、麻耶は肩を落とし、同時に声量も落としていった。

 俺は意地悪く見えるであろう笑みを浮かべてみせる。


「なかなか似合ってるじゃないか」

「バッ、馬鹿! お前制服フェチなのか!?」

「それは論理飛躍しすぎだろ!」


 動ける範囲で、ベッドから乗り出して口論する俺と、そばに立っている麻耶。

 俺は念のため、確認してみることにした。


「なあ麻耶、美耶のことは……?」

「聞いたよ、聞いたに決まってんだろ」


 すると微かに頬をそめて、麻耶は


「世話になった」


 と一言。


「親父さんやお袋さんはどうしてる?」

「相変わらずだね。今回の事件、関係者が少なかったから、何とか緘口令を強いて情報の流出を堰き止めてる。そんでもって、確か肥田と細木、だったっけ? あの刑事二人が、あたいたちに両親と面会するよう、勧めてくれたんだ」


 ほう。今頃報告書の作成で多忙を極めているだろうに。


「相変わらず、なんて言ったけど、娘のあたいには分かったよ。親父もお袋も、ショックで沈んでた。まさか美耶が、自殺しようとするなんて、だってさ。ま、確かに小学生が自殺、ってのも怖い話だけど」

「だよな……。ってあれ? 美耶はどうした?」

「学校。あたいより行方不明期間が短かったから、復帰も早いってわけ」

「そう、か」


 俺は安堵しつつ、身体をベッドに戻した。今度こそ水を一口。だいぶ喉が渇いていたようだ。胃袋に液体がすとん、と落ちてくる感じがする。

 そうだ。俺も少しくらい、勉強してみるか。手始めに、先日参考にした心理学の教科書を読むところから始めるのがいいのかもしれない。


「まあ、頑張れよ。今の俺には何もできないけど、応援はするからさ」

「う、うん……」


 すると再び、否、先ほど以上に麻耶の顔が赤くなりはじめた。


「ど、どした?」

「あたい、まだ高校に通ったことないんだ。どんな連中がいるか分からないし」


 これは珍しい。ヤク中共の方が、クラスメイトや教師陣よりマシということか。まあ、麻耶らしいと言えば麻耶らしい。


「だから……ね。ちょっと勇気を分けてもらえないかな、って」

「勇気?」


 ゆっくり歩み寄ってくる麻耶。でも勇気を分ける、って言っても。


「どうすりゃいいんだ? 俺が学校に同行するとかか?」

「違う」

「じゃあ、誰かに護衛を頼むとか」

「違う!」

「じゃあ何――」


 俺の言葉は、そこで途切れた。


 だって、唇を相手の唇で塞がれてしまっては、どうしようもないじゃないか。


 突如としてバクン、と跳ね始めた心臓を抑え込むことができない。呼吸もろくにできない。この前キスした時よりも、何というか……心が繋がる感じがした。

 ゆっくりと、麻耶が唇を離し、真っ赤になった顔を背ける。


「悪い。不意打ちだった」


 俺はと言えば、何も考えることができず、ただぼんやりと麻耶の横顔を見つめていた。その直後、


「ありがとな」

「ありがとよ」


 何故か、俺と麻耶はシンクロしたように声を合わせ、礼を述べ合った。一体何に対してだろう?

 ただ一つ確かなのは、俺はこの上ない安らぎを得た、ということだ。こんな穏やかな気持ちになれたことが、今まであっただろうか?

 しばしの沈黙の後、麻耶は鞄を肩に掛け直した。


「じゃあ、学校行ってくる」

「ああ、無理すんなよ」


 背を向ける麻耶。足早に病室の入り口まで進んでいく。すると、麻耶は再び振り返った。

 俺が何事かと顔を上げる。すると、麻耶は叫んだ。それはそれは、病院中に聞こえ渡るような大声で。


「大好き!!」


THE END

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ラバー・ソウルズ〔take2〕 岩井喬 @i1g37310

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