第37話

 うなじを掻く肥田に、『だからですよ』と後ろから声をかける。


「どういう意味だ?」

「刑事さんたちも読んだでしょう? 母親からの手紙。今までずっと除け者扱いされてきた腹いせをつもりなんですよ、美耶は。両親の、一世一代の投資に関連して『自殺者が出た』というレッテルを貼りつけることで、両親に大打撃を与えるつもりなんです。財政的にも精神的にも」


 しかし、肥田は軽くかぶりを振りながら


「そんな推測だけじゃ、警察は動けんなあ」


 と言ったところ、


「いえ、話の筋は通ってますよ」


 ハンドルを握った細木に口を挟まれた。


「それだって推測だろ、細木?」

「しかし……」


 俺はうなだれた。そう、これは俺とアキにとっては確定情報だが、アキの存在を隠しておかねばならない以上、その信憑性は一気に下がる。

 くそっ、ここまで来て……!


「でも、まあいいか」

「ですよね肥田さん、やっぱりこれだけじゃ――って、え?」

「あんちゃんの言うとおりにしてみようじゃねえか。細木、車をあのビルにつけろ。責任は俺が取る」


 慌てたのは細木だ。


「ちょっ、本気ですか肥田さん! こんなことで動いていたら、上層部の大目玉を喰らうことに……!」

「相手は月野財閥だ。自分の娘が自殺しようとしていてそれを警察が見過ごしたとしたら、その方が警察全体に対するダメージはでかい。だったら、俺たち二人がちょっと懲罰を喰らうだけで済ませた方が、よっぽどいいじゃねえか」


『責任は俺が取る』と、肥田は繰り返した。

 納得した様子の細木。頷いてみせる俺。アキも電子空間のどこかで、ガッツポーズをしているだろう。


「おっと、後続車はないようだな。頼むぞ、細木」

「了っ解!」


 すると細木は、凄まじいスキール音を立てながら、車体をぶん回した。


「どあ!?」

「あんちゃん、シートベルトを忘れるな! なあに、すぐに慣れるさ!」


 ウー、ウー、というパトランプの音と、


「交通課様のお通りだあああ!」


 という細木の叫び声が混ざり合った。ハンドルを握ると性格が変わる人、なんてのはコミックでよく見るが、まさかリアルに存在していたとは。


「馬鹿野郎、お前は今は刑事課じゃねえか!!」

「なあに、腕は落ちてません、よっと!!」


 俺は気分が悪くなる暇も与えられず、あっちこっちに頭をぶつけた。せめて俺がシートベルトを締めてから飛ばしてくれ。


 一旦、パトカーは逆走した。


「細木刑事、これって逆方向なんじゃ……」

「シッ!」


 肥田は俺の口に自分の人差し指を当てながら、鋭い声を上げた。


「今の細木は、誰にも手をつけられない。なあに、このあたりのカーナビは、全部細木の脳みそに入ってる。心配するな」

「そ、そうじゃなくて! こんなに爆走して大丈夫なのか、ってことですよ!」

「皆、掴まれ!!」


 細木の叫び声が響く。次の瞬間、


「……?」


 身体が、宙に浮いた。もしかして。

 俺はできる限り歯を食いしばるようにして、衝撃に備える。

 その直後、ズゥン、と腹に響くような衝撃が、車体と車内を震わせた。俺は察した。これは跳び下りだ。通りから跳び下りて、大雨で誰も通行しようとはしない山道に入ったのだ。

 細木は車体の尻を振るようにして、荒れた山道を行く。山道と言っても、倒木がそのまま放置されているような険しい道だ。泥を弾き飛ばしながら爆走するクラウン。一体、どのくらいの賠償を請求されるのかと思ったが、『責任は俺が取る』という肥田の言葉に懸けるしかなかった。


 そんなことを考えつつも、俺は歯を食いしばり続けていた。舌を噛み切ったら大変だ。しかしそれも容易なことではなく、あっちでガタン、こっちでゴトンと激しくクラウンは揺れ続けた。


「車道に出るぞ!」


 勢いはそのままに、ドリフトをかけながら車道に出る。すぐに十字路にぶつかったが、細木からはブレーキをかける意志が微塵も感じられない。


「今なら行ける!」


 とだけ告げて、十字路に差し掛かった……はずだった。

 鳴り響くパトランプ。威嚇するクラクション。真っ白に染まる、俺の視界。

 そして、クラウンの左後部座席――俺が腰を下ろしていた場所だ――のドアが思いっきりひしゃげた。


「うわあああああああ!!」


 ドアがぐしゃりと、巨人にでも握り潰されたかのように変形し、俺はその余剰エネルギーをまともに喰らった。主に左腕に。クラウンは、突っ込んできた軽トラックの勢いを殺しきれず、その場で水平方向に一回転した。その間も、軽トラックほどではないにせよ、あちこちが他車とぶつかる。


 クラウンが止まった時、あたりはクラクションに満ちていた。俺はゆっくりと目を開ける。あれだけの事故だ、無傷でいられた自信はない。と、思っていると、


「ぐあああッ!!」


 左腕の神経が復活し、激痛をもたらした。左腕に無数の裂傷が走っている。身体の他の部分は無事なようだが、こんな血まみれの左腕をぶら下げて、どうやって美耶を助けようというのか。クラウンも大破しており、ドアを蹴とばしながら外に出てくる二人の刑事と目が合った。


「大丈夫か、葉山くん!!」


 細木が慌てて駆け寄ってきた。どうやら無事だったらしい。肥田は無線機で事故の報告を入れていた。彼もまた大丈夫だろう。だが俺は……。


「ビルには他の刑事を向かわせる! 君は病院に!」

「駄目です!」


 俺は声を張り上げた。その勢いで、ひん曲がった左腕にがさらにビリビリと痺れる。それでも。


「あなたたち大人が行ったんじゃ駄目だ! きっと美耶はすぐに跳び下りを決行する! 俺に……どうか俺に任せてください!」


 俺は右手だけをアスファルトにつけ、両膝を追って頭を下げた。

 肥田も細木も黙り込む中、きゅるり、とバイクの停車する音がした。


「おや? 俊介くんじゃないか」


 人混み・車混みの中から聞こえてきたこの声。まさか。


「神崎……さん……?」


 俺が振り返ると、重量級のバイクのエンジンを僅かに噴かした神崎龍美がそこにいた。ノーヘルだったのですぐに分かってしまった。


「神崎さん!」


 俺は挨拶もそこそこに、事態を大慌てで話した。あまりに俺が早口で喋るものだから、刑事二人はついてこられない。だが、神崎の方は事態を把握してくれたようだ。


「そのビルに向かえばいいんだね?」


 いつになく(と言っても大した回数会っていたわけではないけれど)真剣な目を光らせる神崎に、俺は頭を下げた。


「お願いします!」

「うん、それは構わないんだ」


 淡々と、神崎は応じた。


「ただ、ご覧の通り、私の足はまだ不自由でね」


 視線を下ろすと、両足のブーツの口から、ぐるぐる巻きにされた包帯が見えた。


「松葉杖がないと歩けないし、階段を登るなんてことになったらとても耐えられない。私は俊介くんを搬送することはできるけど、美耶ちゃんの説得に協力することは不可能だ。それでもいいかい?」

「はい!」


 俺は即答した。きっと、神崎という味方が登場したお陰で安心したのだろう。

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