第36話

「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 俺の肺は酸素を渇望し、心臓はひたすら動脈に酸素を注入し続ける。

 とまあ、中学理科の知識を脳から引っ張り出すことで、なんとか身体の疲労を誤魔化そうと試みる。自転車のギアは、三段階のうちの『1』。これ以上、ギアを軽くはできない。


「こん畜生おおおおおおお!!」


 俺は叫んだ。一種の雄叫びのようなものだったのかもしれない。すぐに爆弾的豪雨の前にかき消されてしまった。が、叫んだお陰で、足に新たな力が宿されたような気がした。

 人間は通常、最大筋力の三十パーセントしか使っていないらしい。下手に全力を出すと、身体にガタが来るからだ。だが、今はそれどころではない、ということを、俺の身体は認識してくれた。


「どりゃあああああああ!!」


 ファンタジー世界で、剣士が怪物に突撃する時に発するような叫び。いや、そんなカッコいいものではないか。だが、こんな急斜面を登る人間がいる、しかもこんな悪天候の中で、なんてのもなかなかファンタジックじゃなかろうか? 現実離れしているという意味で。


 やがて、雨粒で霞んだ俺の視界に、一時停止の交通看板が見えてきた。ここから大通りに入り、駅裏まで行くのだ。

 上り坂制覇まで、あと……何メートルだ、こりゃ? とにかく、あともう少しなのだ。

 そんな油断が招いたのだろう、


「うおおお……わうっ!!」


 コケた。見事な横転だ。身体の右側、肘をアスファルトにぶつけ、擦過する。シャツの繊維は簡単に裂けて、俺の右腕の皮膚はごっそり持っていかれた。慌てて左にハンドルを切ったので、対した怪我ではないのだが。


「いってぇ……」

《俊介、大丈夫!?》

「ああ、このくらいなら……」


 これもまた目測だが、俺はほぼこの坂を制覇していた。地面が水平になるまで、すこしばかりの距離は自転車を引いて登ることにしたが。


「はあっ、よし!」


 俺は再び自転車に乗り、爆走を再開した。

 予想通り、幹線道路は渋滞していた。ボンネットや屋根に雨粒が当たり、そこら中に弾かれる。信号はもはやその機能を果たせず、ふとその先を見れば、マンホールから水が溢れ出していた。


「アキ、やっぱりチャリで来たのは正解だったみたいだな」

《私の方でも交通情報をモニタリングしてるけど……。やっぱり小回りの利く自転車、っていうのは最適ね。車で行こうとしたら、この渋滞に巻き込まれるか、すごい勾配の激しい山道をいかなくちゃならないから》

「なるほど、なっと!」


 俺が再びペダルに重心をかけようとした、その時だった。


「うっ!」


 俺は再び倒れ込んだ。今度は左側だ。激痛に息が詰まり、慌てて左腕で身体を支える。


《どうしたの!?》

「あ……足、攣った……」

《はあ!? そんなこと言ってる場合じゃ……って、あれだけの坂を一気に登ってきたんだものね、仕方ないか》


 そんな悠長なことをのたまうアキを無視して、俺は自転車を倒し、ガードレールに両手をついて片足で飛び跳ねた。


「いてえよぉ!!」

《うーん……》


 アキも迷っているのだろう。こんな無様な俺を叱咤するか、それとも励ますか。 美耶の自殺を食い止める、という意味では些細な問題なのだろうとは思うのだけれど。


「うっ……く」


 俺はつった左足をなんとかペダルに乗せ直し、ゆっくりと進みだした。徐々に痛みが引いていく。

 

 動けずにいる車たちを見つめながら、俺は軽い下り坂に入っていた。


「アキ、飛ばすぞ! しっかり掴まってろ!」

《掴まりようなんてないじゃないのよ!》

「細かいことは気にするな!」


 そのまますぐにマックススピードへ。これでも高校時代は、危険運転取り締まり強化週間に五回はとっ捕まった経験がある。若気の至りというやつだ。

 俺は法定速度をとっくに超えているであろう勢いで、下り階段に差し掛かった。と、いうか飛び出した。


《ちょっ、俊介!?》

「黙ってろ、気が散る!」

《私が正気でなくなっちゃうわよ!》


 アキの悲鳴のような声を聞き流し、自転車の角度を調整、適度にブレーキをかけながら、ガタンガタンと下りていく。

 ここでコケたら洒落にならない。そんな思いを無理矢理胸の奥に封じ込め――ネガティヴ・シンキングは人類の敵だ――、運転に集中する。俺は階段を下りきって、崖と車道とを隔てているガードレールにぶつかる寸前に舵を切った。


「くっ!」


 ガタン、と揺れるのを自覚しながら、ガードレールを蹴って方向を合わせる。この道路も渋滞していたので、ちょうど車と車の間に自転車をねじ込むようにして走り込んだ。

 ここからは平地を直進、と思ったその時だった。


《そこの自転車、停まりなさい!!》

「何だ!?」


 げっ、覆面パトカーの前に出ちまったのか。渋滞の最後尾、真っ白なクラウンが渋滞の列に並んでいた。運転席の窓からぬっと腕が出てきて、パトランプを屋根に乗せる。


 俺は咄嗟に逃げることを考えたが、これだけの混雑状態では、自転車といっても小回りを利かせるのは至難の業だ。俺は素直に自転車を降り、スマホが無事ポケットに入っていることを確認した。そして、どうにかしてサツの連中から離れなければと考え始めた。


「ゆっくりそっちに行く。逃げようとは思わない方がいいぞ」


 ん? この声は。

 ドスを利かせているのだろうが、まだ若い。迫力不足だ。こんな人、最近出会った気がするぞ。

 バタン、と運転席側のドアが開き、コートを着た人物が出てきた。そして俺は、その人物が目を細め、こちらを見定めようとしているのを確かめた。


「まったく、あんな無茶な運転を――」

「細木刑事、ですよね?」

「って君は!」


 相手はポカンと口を開けたまま固まった。その手から傘がするりと落ちる。


「葉山くんじゃないか! 一体どうしたんだ?」


 俺はパトカーに視線を移し、無造作に近づきながら


「緊急事態です。俺をサンライズ21まで連れて行ってください!」

「緊急? あそこはまだ建設中で、人の出入りは――」

「あったんですよ。説明が難しいけど」


 一瞬黙した後、細木は傘を拾い上げた。


「まあ、こんなところで止まってはいられない。パトカーに乗ってくれ」


 すると助手席から、ぬっと短い首と頭が出てきて、怒声を上げた。


「おい、どうしたんだ細木? 早く運転席に戻れ!」

「あ、肥田刑事も一緒なんですね。なら話は早い」


 俺は頭上に『?』を浮かべている細木のそばを通り過ぎ、


「すいません肥田刑事、俺です、葉山です! ちょっと緊急事態で!」


 と声をかけた。


「おう、どうしたんだあんちゃん? ついにハッパに手を出して自首しに来たのか?」

「違います!」


 俺にそれなりの迫力があったのだろう、肥田もまた黙り込んだ。

 その隙に後部座席に滑り込んだ俺は、自転車を乗り捨てながら叫んだ。


「サンライズ21までお願いします! その後だったら、事情聴取でも何でも受けますから!」


 細木が運転席に戻ると同時、肥田は尋ねてきた。


「緊急事態って何があったんだ?」

「美耶が……月野美耶が自殺しようとしています!」

「何だって!?」


 叫んだ二人の刑事の声がハモった。


「場所はサンライズ21、屋上からの飛び降りです!! 月野美耶は、今は失踪扱いなんでしょう? 彼女は連日の警官隊の捜索をやり過ごして、自殺する決心を固めたんです!」

「しっかし、何だってそのビルなんだ? 確かそこは月野財閥が運営する大型のマンション兼ショッピングモールになるはずだが……」

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