第35話【第七章】
《そうか。君も大変な目に遭ったね、葉山くん》
「ええ、まあ……」
キラキラ通りに機動隊が突入してから三日後。レポート作成中の俺のスマホに、長谷川教授から着信があった。アキがウィルスに殺されかけて以来、俺は教授とは会っていない。というより、大学に行っていない。どうせ何もなくても行かなかった可能性が高いわけだが。
教授はどこからか、俺が警察に連れていかれた経緯を聞いて、連絡をくれたのだ。こんな時(アキは破壊されかけ、麻耶は警察署に拘留中だ)にレポートだ何だと騒ぐのは、一見滑稽かもしれない。しかし、俺はここ数日間に起こったことが、現実だったのか夢だったのか、分からなくなっていた。
引きこもりに逆戻りして、現実逃避に走っていたのだ。その逃避先が、かつて苦手意識を持っていた勉強だというのだから、皮肉なものである。
《葉山くん? 大丈夫かい?》
「あ、は、はい」
本当なら、ここでアキのことを心配すべきなのだろう。だが、そんな気持ちにはなれなかった。
忘れるべきだと思ったのだ。アキのことも、麻耶のことも、キラキラ通りの連中のことも。
警察だ財閥だといった強大な力に、怠け者の間抜け学生一人で対抗できるわけがない。
しかし……。
いつの間にか教授との通話を終えていた俺は、スマホをベッドに投げ出し、テーブルの前に腰を下ろした。そのまま息をすとん、と落とすようなため息をつく。
相変わらず、パソコンの画面だけがチラつく薄暗い部屋。
結局、俺には何もできなかったなあ。そのへんの不良に少し顔が利くようになったくらいで、そして少し勉強に身が入るようになったくらいで、何も変わっていない。
変わらなければ。現実に立ち向かわなければ。できることもできないことも、やらなければ。しかし、どうしたらいい?
――麻耶、俺は君に会いたい。
その時、スマホが着信音を奏で始めた。
「誰だ、こんな時間に……って、教授?」
またか? 何か言いそびれたことでもあったのだろうか。
「はい、葉山で――」
《あ、やっと繋がった! あんた、無事!?》
その声を聞いた瞬間、俺の胸で何かが覚醒した。
《アキ、お前か? お前だな!?》
「そうよ俊介、決まってるじゃない! 私、声を変えることができるけど……偽物かどうかなんて、疑ってない?」
「知るかそんなこと! とりあえず、今はデフォルト状態みたいだな」
《正確には、ちょっと違うわね。私はだいぶ修復されたけど、まだ物理的実体には意識を移せないのよ》
身体を構築して意識をインストールさせ、物理的に動き回ることができない、というわけか。
《あなたに、早急に伝えなければならないことがあってね――。今代わる》
《俊介? あんた、そこにいんの!?》
「麻耶! 今は警察署にいるんじゃ……」
《もう帰されたよ! それより、美耶が、美耶が……!》
なんだなんだ。まずは的確な情報を告げてもらわなければ。
「落ち着けよ、麻耶! 美耶が一体どうしたんだ?」
《美耶が、自殺しようとしてる!!》
「……ぇ」
俺は喉が詰まる思いがした。実際、言葉は詰まった。
《美耶のスマホに、遺書が残ってたんだよ! 理由は分からないけど、自殺するって!》
カタン、と音を立てて俺のスマホが手から滑り落ちる。慌てて拾い上げると、今度はアキの声がした。
《私がナビゲートするから、スマホの電源は切らないでおいて。俊介のいるところが一番追いつきやすいから》
「あ、ああ! でも、本当に美耶が……?」
《じゃああなた、美耶が警察に捕まったと思ってたの?》
今度こそ俺は返答に窮した。そうだ。確かに、機動隊突入時に俺たちが連れられていく際、美耶が一緒だったわけではなかった。俺はてっきり、別の機動隊員や刑事たちに美耶が連れられていったものだと、勝手に判断していたのだ。
まさか、アジトに引きこもって、警官隊の捜索をやり過ごしたのか? あまり現実的ではないが、しかし、警官隊とて人間だ。どこかしらに見落としがあって、それを先読みした美耶が、そこに隠れていたとしてもおかしくはない。
「じゃあ、美耶は今どこにいるんだ?」
《市街地を徒歩で、まっすぐ『サンライズ21』に向かってる。最近よく見かけるんじゃないの? 駅裏に建てられた高層ビル》
俺は最近、外出した時のことを思い出した。そうか。お袋に会いに行く時、新幹線の窓から見えたのは、あの建築途中のビルだったのか。
《ねえ、俊介……》
今度は麻耶の声だ。電話の向こうから、嗚咽に混じって、しかしはっきりと声が響いた。
《美耶を、助けて》
俺も目頭が熱くなるのを感じながら、
「分かった。大人しく待ってろ」
と言ってやった。
《ここから先は、私のナビゲーションに従って。麻耶との通信は、盗聴の恐れがあるからここまで》
「了解だ。まともなナビ、頼むぜ」
そこからの俺の判断は、我ながら迅速だった。
「タクシー拾うぞ。電車やバスよりは融通がきくはずだ」
俺は自室の鍵さえ持たずに、外へ飛び出そうとした。
《あ、ちょっと俊介!》
「何だよ!?」
アキの声を無視してドアを押し開ける。そして俺の目に飛び込んできた光景に、俺は愕然とした。『絶望的』と言ったら、誰しも頷くような状況だ。
「な……なんだこれ……」
水だ。水が空からぶちまけられている。そのくらいの勢いの雨が降っていた。
呆然と立ち尽くしていると、轟、と音がしてものすごい風が吹き込んできた。もちろん、雨粒と一緒に。ほぼ同時、一旦ドアを閉めようとした俺の視界が、一瞬真っ白になった。間もなく、何かが地面に叩きつけられるような打撃音が響く。雷だ。相当近い。
つまり。
「これじゃあ渋滞でまともに車なんか走れっこねえじゃんか!」
《それを伝えようとしたんでしょうが!》
俺は一瞬でびしょ濡れになった身体を反転させ、背中をドアに押しつけた。
くそっ、どうしたらいい? 何か移動手段、それもかなり距離のある場所を歩いている人間に追いつけるだけの速度のあるもの。
その時、閃いた。
「あ」
《何!?》
「チャリがある。大学にちゃんと行ってた頃は、それなりに飛ばしてたんだ」
《それよ! その手があるじゃない!》
興奮気味のアキに、確認の意味も含めて俺は確認を試みた。
「このスマホ、防水仕様だよな?」
《もちろん!》
「じゃあ、行くぞ」
ドアの方に振り返りかけて、俺はあるものに目を留めた。合羽だ。だが、今はそんなものを着込んでいる暇はない。それに、フードまで被ってしまうと視界が遮られる。合羽作戦は止めだ。びしょ濡れで突撃するしかない。
そう考えているうちに、俺は愛車のロックを開錠し、転倒防止ストッパーを蹴り上げ、軽くジャンプするようにして尻をサドルに乗せた。
「行くぞ!」
《ええ!》
ものの数秒で、俺は頭のてっぺんから足の先までびしょ濡れになった。服を着たままシャワーを浴びたみたいだ。だが、そんな些末なことに囚われてはいられない。
「美耶、姉さんを泣かすんじゃねえぞ!!」
こうして、俺の人生史上、最恐最悪のサイクリングが始まった。
※
しばらく平地を走っていくと、住宅街の途切れる場所、急な上り坂の下に辿り着いた。
「おっと、見えてきやがったな」
と、言い切るまでもなくそのまま爆走。普段なら、真ん中あたりで息切れを起こし、一旦自転車から下りて引っ張っていくのだが、
「なんの、これしきいいい!!」
非常事態だという認識が俺の足の筋肉に伝達されたのだろう、俺は我ながら信じられない速度で、上り坂の半分を乗り越えた。
このまま残り半分も……ッ!
と思ったものの、世の中そう甘くはないらしい。七十パーセント(目測)ほどで、流石に足が悲鳴を上げ始めた。
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