第33話
「畜生、畜生……」
って、何だこれは? 視界が滲んでくる。頬に水滴が走る。俺は泣いているのか? 何故?
そうか、きっと悔しいのだ。
そんな大人がいることが。それを許す社会が存在することが。そこから逃げ出した子供たちの居場所を守れなかったことが。
どのくらいの時間が経ったのだろう、俺は喉を鳴らし、目をつむっていた。
ふと、頬に温かい肌触りが伝わってきた。目を僅かに開き、視線を温もりのある方へ。
そこにいたのは、俺の頬に指を当てた麻耶だった。
「俊介、そんなにあたいたちのこと……」
拳をガラスから離し、顔を上げてみる。
「何も言うなよ」
と駄目押しをしてから、俺は涙をぐいっと拭った。そっと麻耶の手を取り、押し返す。
「お前は自分の心配だけしてろ」
「でも、美耶は……」
「大丈夫、ちゃんと保護されてるさ」
すると、会話が一段落したのを見定めたのか、肥田が声をかけてきた。
「あんちゃん、財閥に詳しいのか?」
「詳しいわけじゃないけど、月野財閥のボスとその女房は、とんでもない馬鹿野郎だってことだけは今分かりました」
「ふむ」
恐らく麻耶も同じことを考えていたのだろう。自分の両親が罵倒されているにも関わらず、口を挟もうとはしなかった。
すると肥田が、どっしりと背もたれに身を預けてから語りだした。
「このあたりはな、第二次大戦中の空襲で焼け野原にされたんだそうだ」
親父によく聞かされたよ、とはにかんでみせる。
「そんな街を立て直すのに、資金源になってくれたのが月野財閥だ。GHQから随分目をつけられていたようだが、それでも解体されずに根強く生き残って、街の復興やら公共事業やら、いろいろと便宜を図ってくれたらしい」
「だったら!」
俺は思わず身を乗り出した。鼻先をガラスに押しつけるようにして喚きたてる。
「その一パーセントでも、子供に、今の麻耶の親父に熱意を向けてやればよかったんだ! そうすれば麻耶の親父だって、大人からの愛情を感じられただろうし、麻耶だって一人前の『子供』でいられただろうに……」
ふうむ、と唸って視線を逸らし、腕を組む肥田。
「お前んとこの娘はどうなんだ、細木?」
「私の娘ですか? まだ三ヶ月ですけど……」
すると、『あちゃあ』と言いながら肥田は額に手を遣った。
「これじゃあ参考にならんか……」
「で、でも家内と二人でちゃんと面倒みてますよ! 子育てには経験が……」
「と言っても三ヶ月なんだろ? 娘さん。まだまだこの嬢ちゃんの年頃には達していない。そんな生意気なガキ相手をした経験があるのは、俺一人ってわけだな」
「うぐ……」
ハンドルを握る細木が前屈みになる。するとお返しとばかりに、
「肥田さんは息子さん、幾つでしたっけ?」
「長男が二十歳、二番目が十七だ」
「ならトラブルの一つや二つ、抱えててもおかしくない。そう思いません?」
「んー、酒や煙草には手を出すなと散々言っているんだが……」
そう言って胸ポケットを漁る肥田に、
「だから車内は全席禁煙だって、言ってるじゃないですか」
とツッコむ細木。
『これだから、お子さんを叱るのに説得力なんてないよなあ……』と小声でぼやく。
「何か言ったか?」
「いえ、何も」
何だか下手な漫才を見ているような気になった俺は、ひとまず一番の問題に切り込むことにした。
「俺たちの身柄はどうなるんです?」
「ああ、今警察署に向かってる。葉山くん、君はいくつか質問を受けてから、すぐに帰されると思うよ。でも月野さんは……」
細木は説明途中であるにも関わらず、言葉を濁した。
「まだ前科はないようだからね。厳重注意で済まされるだろうけど……」
「月野財閥がこの事実を潰しにかかる。そうでしょ?」
細木は何とも言えない横顔で、音のないため息をついた。
これでは今までと同じだ。麻耶は誰にも叱ってもらえずに、ハリボテの家族愛の向こうに消えてしまう。あるいは、親戚中をたらい回しにされるかもしれない。
先ほどの手紙には、『父親が怒っている』と書かれていた。怒りの原因は、『財閥の跡取りの立場を自覚せよ』という一点であり、決して『親として心配して』怒るということはないだろう。
何とか、その流れを変えなければ。しかし、アジトのあったキラキラ通りにはもう戻れない。どうしたらいい? こんな時、アキがいてくれたら……。
そんな思索をしていると、急に身体が前方に揺れた。パトカーが停車したらしい。
「着いたぞ」
という肥田の声の元、俺たち四人は警察署に足を踏み入れた。
※
「つまり、葉山くんはその友達にお願いされて、キラキラ通りに行き、月野さん姉妹に会ったんだね?」
「ああ、はい……」
警察署エントランスにある、ソファが並べられた一角。そこに、俺は細木刑事を前にして腰を下ろしていた。麻耶は不安そうな顔で、肥田刑事に手を引かれていったが、まあ相手の刑事があの人柄なら麻耶も大丈夫だろう。俺がそう願っているだけかもしれないが。
すると細木は立ち上がり、財布を取り出した。
「缶コーヒーでいいかい?」
「えっ? ああ、はい」
何だか意識がぼんやりしているが、どうやら細木が缶コーヒーをおごってくれるらしい、ということは分かった。
「はいよ」
「ど、どうも」
最初は手をつける気になれなかったが、今になってようやく、喉がカラカラであることに気づいた。ゆっくり手を伸ばすと、キンキンに冷えたアルミの感触が掌から伝わってくる。
「まあ、時間はまだまだあるし、ゆっくり話をしてくれればいいよ」
「はい」
俺はプルタブを開け、甘ったるい液体を喉に流し込んだ。ううむ、ブラックにしてもらえばよかったかな。
俺と同じ缶コーヒーを手に、細木が向かいのソファへ腰を下ろす。するとすぐに、細木は口を開いた。
「まず、君は罪には問われない。二十歳過ぎだからね。飲酒していても問題はない」
いや、キラキラ通りではウーロン茶しか飲んでないんですが。しかし、そんなことよりも。
「麻耶は? 彼女はどうなるんです?」
俺は僅かに身を乗り出した。
すると細木は、うーんと唸りながら腕を組んだ。
「彼女の場合、薬物に手を出した様子はないから、問題は飲酒だけで厳重注意で済むだろう。でも、家出のことがね……」
片手を顎にやった細木は、眉間に皺を寄せた。
「月野さんのご両親は、今回ばかりはおかんむりだからね。しばらくこちらで留置、そういうことになるかもしれない。風当たりは強く――」
「会わせてください」
俺は細木の言葉を遮った。
「俺を、麻耶に会わせてください」
ぱっと目を上げる。
すると細木も顔を上げ、少し首を傾げてから腕時計に目を落とした。
「あと十五分もすれば、休憩が入るからその時には会えると思うけど……」
「案内してもらえますか。面会室に」
「しかし今彼女は……」
「会わせてください」
俺は繰り返した。すると、三度目の正直というやつだろうか。細木は渋々が半分、諦めが半分といった顔つきで立ち上がり、軽く手招きをした。
階段を登り、二階へ。そこではひっきりなしに電話が鳴り響き、飛び交う怒号も相まって凄まじい騒音を響かせていた。上のプレートには『刑事課』とある。
「僕らはこっちだ」
駆け足で細木に追いつくと、やがてひんやりとした、静かな廊下に出た。そこから先は、リノリウムの床にコンクリートむき出しの壁と天井が続いている。
細木はある小部屋の前で立ち止まり、俺を振り返った。
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