第32話
「神崎龍美……さん?」
『お前らも知ってるだろ』という態度で肥田が頷く。
「彼女がキラキラ通りに頻繁に出入りしていることは、我々も承知している。その彼女が先日、足を負傷して入院した。その傷口から、面白いことが分かった」
肥田が意地の悪い笑みを浮かべる。それを察したのか、細木がハンドルを握ったまま軽く小突いた。同時に説明役を強引に引き継ぐ。
「神崎龍美の足の怪我だが、普通だったら起こり得ない、奇妙な傷が見られたんだ」
そりゃあ、パイプの下敷きになって怪我をする、というのは奇妙だろう。少なくとも、そのへんですっ転ぶよりは。
そんな疑念が俺の顔に出たのだろう、細木は言葉を続けた。
「奇妙だというのは、パイプを固定していたネジが食い込んだ痕だ。この形状のネジは、三十年以上前から建築材として使われていない。そんなパイプの下敷きになる人物がキラキラ通りから現れた、ということは、その周辺の建物も老朽化して、ちょっとした衝撃で崩れる恐れがあるということ」
つまり、と言いかけた細木の言葉を引き継ぎ、肥田は
「今日を機会に、お前らを救出したんだよ。あんなところでたむろしていたら、災害発生時に死傷する確率が高まる。そこでようやく、対策本部も重い腰を上げて、お前らの一斉検挙に出たのさ」
「なっ、そんなことで!」
麻耶はがばっと立ち上がった。防弾ガラスに頬を押しつけ、手錠をかけられた手を不器用に動かしながら、どんどんと叩く。
「あたいらは家にいられなくなったから、あの通りに逃げ込んだんだ! 誰も助けてくれないから! なのに、何の予告もなしにあたいらを捕まえて、連れ去って……。それが大人のやることかよ!?」
『それは』と言いかけた細木を片手で止め、肥田は語った。
「だからといって、お前らを放っておけると思うのか? お前らの大半は、違法薬物の虜になってるんだぞ? いつ、どこで、他人を傷つけるような犯罪に走るか分からない! それに、『誰も助けてくれない』というのは誤認だ。スクールカウンセラーなり精神科のドクターなり、話せる相手は――」
「あたいはそもそも『大人』が信用ならねえって言ってんだ! そんな連中、糞くらえだ!」
「おい麻耶!」
流石に言い過ぎだろうと思い、俺は麻耶の肩を押さえた。
「離せよ俊介!」
「お前も落ち着け! 裁判で不利になったらどうする!?」
その言葉に、麻耶の動きに一時停止がかけられた。
「さい……ばん……?」
すると、肥田はふっと息を吸ってから、
「まあ、これを読んでみてくれ」
と言いながら、防弾ガラスとパトカーの天井の間から一枚の紙を滑り込ませてきた。俺はそれを受け取り、麻耶を見つめる。俺も読んでいいものかどうか、確認したかったのだ。
はっと正気に戻った麻耶は、カクカクと首肯する。それを見届けてから、俺は麻耶によく見えるようにしながら、自らも目を通した。
※
麻耶ちゃんへ。
お母さんです。元気ですか。
突然だけれど、あなたもいい加減大人になってもらわないと困ります。あなたは月野財閥の、重要な跡取りなのですよ。
家出をして、一人暮らしの真似をするのも、いい加減おやめなさい。それで一人前の人間になったつもりですか? そんな調子で生きていけるほど、世の中は甘くないのですよ。
早く帰っていらっしゃい。お父様もお怒りです。
では。
※
俺は愕然とした。プルプルと腕が震えてくる。言うまでもなく、怒りからだ。
一体なんなんだ、こいつらは? 自分の娘が、それも二人共が家出をしているというのに、『帰ったらお怒り』だと?
俺の視線が、何度も手紙の上を走り回る。そして、怒りの感情一色に染まった俺の頭を、もう一つの衝撃が襲った。
この手紙には、娘の心配をしている気配が全く感じられないのだ。ちゃんとご飯を食べているかとか、身体を崩してはいないかとか、何かしら言葉があって然るべきなのに。
麻耶の両親は、娘に何もしてやらない。麻耶の言葉を思い出してみれば、叱ることもなかったという。両親の注意を惹きたかっただけなのに。振り向いてほしかっただけなのに。せめて一度だけでもいいから、心配してほしかっただけなのに。
「ちょっ……俊介?」
「……」
「しゅん――」
「この、畜生共が!!」
俺は勢いに任せ、手紙をビリビリと破り、ぐしゃぐしゃに丸めて防弾ガラスに拳ごと叩きつけた。
「うおっ!?」
「わあっ!?」
さすがの刑事二人も仰天し、麻耶でさえも唖然としていた。しかし、そんなことなどお構いなしに、俺の怒りのボルテージは上がっていく。
こんな、こんなことって……。どうして子供がこんな目に遭わなきゃならない? 何故親からの寵愛を受け取ることができない? どうして、どうして、どうして――。
「ちょ、俊介、あんたまでキレちまって、どうするんだよ!?」
「お前の方こそどうかしてる!」
俺は、どこへ向けたらいいか分からない怒りの矛先を麻耶に向けた。麻耶の胸倉を掴み、揺さぶる。
「よく聞け馬鹿野郎、お前は親から見捨てられたも同然なんだぞ!? お前の両親は、親としての責務を果たしていなかったんだ! まるで俺の親父みたいに!」
その瞬間、はっとした。俺は自殺した親父を、そんな風に思っていたのか?
俺が自殺に追い込んだようなものなのに、そんな感情を抱くのはあまりに理不尽だ。家族の一員として。
気づけば、俺の目の前には、不審と怯えの色を表した麻耶がいた。横からは、こちらに注意を払う刑事二人の気配。聴覚がまともになった時には、パトカーの走行音と、住宅地を抜けていく静けさが感じられた。
「……悪い、麻耶。ちょっと親父とトラブってな」
「あ、う、うん」
これはいつか話さなければならないだろう。しかし、今は俺の親父についてどうこう言っている場合ではない。
「手紙、お前も読んだな?」
目を合わせずに、麻耶に尋ねる。
「ああ。そうしたら、突然俊介が……」
「刑事さんたちは? 読んだんですか?」
さらに沈黙を深める二人。しかし、やがて諦めたように、肥田が語り出した。
「そうだ。俺も細木も読まされたよ」
「読まされた?」
俺がオウム返しに尋ねると、肥田は薄くなった髪に手を遣りながら、
「上の連中に命令されたんだよ。『この手紙を読んで、月野麻耶に対しては、お前らも厳しく接するように』ってな。俺も一端の警部補だが、今の捜査本部の場合、上には上がいる、って感じでな」
「まさか、上層部の人たちも月野財閥から圧力をかけられてたんじゃないんですか」
ゴクリ、と唾を飲む音が、細木の後ろ姿から聞こえた。肥田もまた、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている。
「くっ……」
紙切れを握りしめた拳をガラスに押しつけたまま、俺はうなだれた。許せなかったのだ。
こんな思いをしている子供が――単に幼いという意味ではなく、交流を持つ相手として親を欲する子供が――いるということが。
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