第10話

「落ち着け、美耶!」


 麻耶が叫びながら、包丁の主を引っ張り出す。カラン、といって包丁が落ちる。そしてドアの陰から現れたのは、


「離して! 離してよ、お姉ちゃん!」


 もう一人の少女だった。髪を三つ編みにした、小学生高学年くらいの外見だ。しかしその形相は、とてもその年代のものには見えなかった。大きく目を見開き、腕をぐわんと振り回し、挙句麻耶の膝を蹴飛ばそうとする。


「いつまでふざけたことやってんだ、美耶!! こいつらは悪人じゃない!! パパもママも関係ない! だから暴れるな!」

「離せ、離せーーーッ!!」


 その直後、ズドン、と再び発砲音がして、少女は吹っ飛んだ。アキがぶっ放したのだ。

 圧縮空気は寸分たがわず少女の腹部を正面から直撃し、少女は背後のベッドに倒れ込んだ。


「何てことするんだ!」


 俺はアキを怒鳴りつけた。相手が不良ならまだしも、あんな女の子に銃を向けるとは。


「しかし、あの子が暴れ続けたら君も麻耶も危なかったぞ」

「包丁は手放してただろ!? だったらまだ対処の仕方が――」


 とその時、


「貴様ぁ、人の妹に何しやがる!」


という怒声と共に、麻耶が猛スピードで迫ってきた。直後、ドスッ、と鈍い音がして、同時にアキの動きが止まる。


「あ、アキ?」

「負傷した」


 そう言ってアキは、腹部から腰に突き立てられた包丁と、その今の持ち主、麻耶の腕を自分から引き離した。軽々と、しかし少し鈍い動作で、アキは麻耶をベッドの方へと投げ飛ばす。


「ぐわっ!」


 麻耶は先ほどの少女、美耶のそばに背中をしたたかに打ちつけた。

 しかし麻耶の方はすぐに体勢を立て直し、


「美耶! 美耶!」


 妹の肩を揺さぶった。それでも目を覚まさない美耶を見て、麻耶はキッと振り返った。いからせた肩、剥き出しの犬歯、そしてアキを貫かんとする鋭利な視線。


 先ほどまでの余裕はどこへやら、素手のままで、麻耶はアキに飛びかかった。

 麻耶に怪我をさせないようにする以上、アキも彼女を突き飛ばすわけにはいかない。だが、心配は不要だった。拳銃も包丁も手にしていない麻耶は、あっさりとアキに抱きとめられる形になったのだ。


「離せ! この筋肉野郎! 一発ぶん殴らせろ!」


 その暴れ様に言葉を失う俺だったが、アキはまるで麻耶を赤ん坊扱いしているように見えた。高い高いをするかのように、ゆっくりと麻耶を遠ざける。それでもアキは狂ったように喚き散らすが、やはりリーチの差で、その拳は空を切るばかり。アキは一体、どうすれば麻耶を離すのだろうか? 


「こ、の、ド、畜、生!!」


 掴まれたまま、麻耶は胎児のように身体を丸めた。そして思いっきり、両足を突き出した。アキの胸板に、自分の足の裏を蹴りつけたのだ。

 流石にその俊敏さに追いつけなかったのか、アキも不意をつかれたようだ。よろめきながら後退し、ぱっと両腕を離してしまった。


「っておい!」


 宙を舞う、麻耶の身体。俺はその軌道上、ベッドの上へと飛び乗るようにして腕を伸ばした。サッカーのゴールキーパーのような格好で、跳ぶ。


「くっ!」

「あいてぇ!」


 息が詰まったような麻耶の声と、俺の悲痛な叫び。

 ゆっくり目を開けると、俺を下敷きにするようにして麻耶が横たわっていた。俺も麻耶も仰向けだ。俺は壁にぶつけた頭をさすりながら、


「あいててて……」


 上半身を腕で起こす。その時、


「おっと!」


 俺の膝の上に、麻耶の頭が載っていた。その瞳は閉じられ、息を荒げている。間近で見た麻耶の整った顔立ちに、思わず俺は唾を飲んだ。

 ……って何を考えているんだ俺は。


「おい麻耶、大丈……」

「お姉ちゃん!」


 俺の片頬に、ぴしゃりと何かが押し当てられる。


「ねえ、お姉ちゃん! お姉ちゃんってば!!」


 それが誰かの掌であることに気づいたのは、その直後のことだ。


「ちょ、ちょっと止めてくれ!」


 俺がその手首を掴もうとすると、腕の主である美耶は、麻耶と同じように腕を振り回した。


「あなたたち、何なの? 私たちをパパとママのところに連れ戻しにきたの? だったらすぐ帰って!」


 すごい眼力だった。揃いも揃って、何て目をしてるんだ、この姉妹は。 


「なあアキ、この女の子は……?」

「月野美耶。救助目標、月野麻耶の妹だ」


 やっぱりそうか。俺は美耶から顔を背けながら、


「ああ、同居人ってそういうことか」

「何ぺちゃくちゃ喋ってるの!? 出てって!」


 すると麻耶が、俺の膝の上で


「うっく!」


 思いっきり頭を上げた。それは実に素早い所作だったが、俺にはスローモーションに見えた。そう、危機的状況に陥った時、人間には周囲の光景がゆっくり動いて見えるのだ。

 このままでは、麻耶の後頭部が俺の顎を真下から強打する。そう判断した俺は、それを回避すべく頭を仰け反るようにぐいっと引いた。麻耶の顔が上がってきて、俺の頭頂部を追い越す。


「ああ、いてえ……」


 頭を押さえながら麻耶は唐突にこちらに顔を向けた――零距離で。

 直後、俺の唇が、ふっくらとしたものに接触。同時に、柔らかいものが触れ合う感触が、俺の脳天から足元までを雷光のように貫いた。


 呆気にとられ、再び瞳を真ん丸に見開いた麻耶。あまりの衝撃に、一切の動きを止めてしまった俺。言葉を失う、他二名。


 次に口を開いたのは、アキだった。


「早まったな、俊介」

「お、お姉ちゃん……?」

「う、うわあぁあぁぁあ!?」


 叫び声を上げたのは俺の方だ。ばっと麻耶から距離を取り、今度は後頭部を壁に強打。


「いてっ! じゃなくて!!」


 麻耶は目を見開いたまま、ゆっくりと右手を上げて口元を覆った。


「これは不可抗力――」


 それ以上を言わせずに、麻耶の鉄拳が俺の頬にめり込んだ。

 俺は素直にぶっ倒れた。何らかのデジャヴを感じながら。


         ※


「あー、痛かった……」


 キラキラ通りからの帰り道。俺は虫歯にでもなったかのように片頬を押さえながら、アキの隣をとぼとぼ歩いていた。ちなみにアキは、もう女の子の姿に戻っている。これがデフォルトなのだろう。やはり包丁で刺されたくらいでは、大したダメージにならないらしい。今は何の支障もなく、俺の隣を歩いている。


「初対面の女の子の胸は触るわ、唇は奪うわ……。あなた、変態なんじゃないの?」

「だからさっきも言ったろ、不可抗力だって……」

「不可抗力で、変態になったのよ」

「ひでえ言い分だな!」


 どいつもこいつも、俺に貧乏くじ引かせやがって。


「でもまあ、よかったんじゃない? ちゃんと顔合わせはできたわけだし」

「唇を合わせるつもりはなかったがな」

「言い訳不要! 麻耶を救うにあたって、必要なことだったと思えば!」


 アキは俺の前に回り込み、腕を腰に当てそう言った。


「よく言うぜ、全く……」


 人様のファーストキスを、とは恥ずかしくて言えなかった。でも不思議と、酒臭さよりもどこか甘い香りの方が強かったような……。っていやいや、そんなことを考えるってことは、まるで何かを期待しているみたいじゃないか。再び歩き始めたアキの後ろで、俺はぶるぶるとかぶりを振った。

 その時、唐突に俺のポケットが振動し始めた。スマホだ。発信元はというと、


「月野麻耶……って、え?」


 アドレス交換なんてしてねえぞ。


「ああ、麻耶とあなたがすぐに連絡を取り合えるように、お互いのスマホにメアド入れといたから」

「はあ!?」


 しれっととんでもないことを言い出すアキ。そうか。俺たちが茶番をやってる間にスマホにタッチして、俺と麻耶のスマホに互いの情報を入れ込んでいたのか。


「さっさと出れば?」

「い、言われなくてもそうするわ!」


 とアキを怒鳴りつけた俺は、


「も、もしもし?」

《てめえ、さっきはよくもあんな真似を……》


 スマホから凶悪なオーラが漂い出てくるような、不気味な感覚に囚われる。

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