第2話【第一章】

 薄暗い六畳間がある。

 床にはチューハイの空き缶や、リキュールの空き瓶が転がっており、その隙間を縫うように、造りかけのガンプラやら教科書やらが散乱している。これが、とある学生向けアパートの一室であり、そして俺、葉山俊介の居城だ。


「えっと、なになに……?」


 俺はパソコンのディスプレイに顔を近づけ、時刻を確認した。午前二時三十五分。日付はとっくにまたいでいる。だが、まだ眠りにつくには早すぎる。昼夜逆転を果たした俺にとっては。

 

 この部屋が薄暗いのは、簡単な理由による。俺の部屋中央に配された背の低いデスクと、その上に置かれたノートパソコン。そのディスプレイ以外に、光源はない。明るいのは苦手、というか、好きではないのだ。

 音はといえば、同じくパソコンのみから発信されている。ボカロのメドレーだ。無機質でありながら、どこか安心感を与える彼らの歌声。どうしてこんなに無垢に聞こえるのだろう。


 俺がため息をつくと、ちょうどピロン、という音がした。パソコンにメールが届いたようだ。

 メールアプリを展開する。そして俺は、思わず


「うえ……」


 と潰れた蛙のような声を上げてしまった。『葉山俊介くんへ レポート提出の件』とある。


 はあーーー、と、俺はキレのないため息をつきながら肩を落とした。メールの件名だけでガックリと。さすがにやっておかないとな、レポート。担当教授の優しさを裏切るわけにはいかない。


 現在二十歳の俺は、とある国立大学に通っている。そうは言っても、二浪してしまったのでピカピカの一年生だ。ピカピカの要素は微塵もないが。

 まあそれはいいとして、問題は浪人したことではない。学生なる身分であるはずなのに、勉強にやる気がないことだ。


 ハッキリ言う。俺は、入学三ヶ月で勉強についていけなくなった。二浪してまでこの大学を選ぶなど、高望みしすぎたのだ。いきなりパソコンの前に座らされて、このコードを打ち込んでプログラムを組めと言われても……。

 ああ、俺は選択を誤ったなと思いつつ、時すでに遅し、後の祭り、覆水盆に返らずというやつで、この先どうやって大学生活を送っていけばいいのかと、頭を抱えてしまったわけだ。


 そんな俺に、教授が声をかけてくれたのが一週間前。担当教員である長谷川亘教授は『まあ、そういう学生さんも多いからね。代わりにこの例題の解説、レポート形式で提出してくれたら単位あげるよ。あ、メール添付でいいから』という、後光の差すようなことをおっしゃった。


 で、その期限が昨日のこと。レポートの提出期限をオーバーし、何故かお人よしに過ぎる教授は、こんな夜中であるにも関わらず心配して俺にメールをくれた、というわけだ。良心がじくじくと痛む。まあ、こんな廃れた生活を送っている俺に、『良心』なんてものがあればだが。


「いや、ありがたいんだけどなあ……」


 俺はテーブルに肘をつき、その上で指を組み顎を載せる。

 これまた単刀直入に言うが、やる気がないのだ。今を乗り切っても、この性格が治るとは思えない。これから先、自分の人生どうなることやら、全く考えたくもない。要は、レポートを出そうが出すまいが俺の人生などその程度だということだ。


 自覚はしている。俺が黙り込んでいる時というのは、茫漠たる不安に囚われている時か、とにかくイラついている時。今は後者だ。もしかしたら、他の同期の連中より、自分が不出来であることに、じれったい思いをしているのかもしれない。

 さらに言えば、他の学生諸君より、弱気な感情に流されやすい性分なのかもしれない。

 俺は再び大きなため息をついて、窓の外、カーテンの隙間に目を遣った。日の出にはまだ早いようだ。


「さて、どうしたもんかねえ……」


 誰にともなく呟いた俺は、改めてこの暗い部屋を見回した。玄関から細い廊下を抜けて中に入ると、右手にベッド、左手に勉強用のデスク、その間に、今俺が腰を下ろしている低いテーブルがある。

 俺の視線は、しばらく泳いでいた。パソコンの画面に照らされている、といっても、それに対して俺の目が反応を示すことはない。


 ちなみに部屋のドアの真正面は、窓になっている。丈の短いカーテンが吊り下げられていて、その隙間からはようやく朝日が――。


「って、え?」


 慌ててパソコンの画面に目を戻す。すると、


「ご、午前四時……」


 何てこった。本当に朝日が昇ってこようというのか。いつの間に時間が過ぎたのか、さっぱり分からない。時間の感覚が失われているのも、俺の弱点の一つだと言えるだろう。


 俺は慌てて、しかしすぐに憂鬱になってのっそりと立ち上がった。すると、


「おっと!」


 足元に転がっていた缶チューハイの空き缶を思いっきり踏みつけ、


「おう!?」


 四つん這いになって転倒を防ぐ。

 俺はまた大きなため息をつきながら、掃除の必要性を思い知った。まったく、これだから一人暮らしは――と言いかけて、すぐに言葉を飲み込んだ。『家族』と暮らしていたら、俺はどうなっていただろう。いや、考えても詮無いことだ。


 さて、明るくなる前にコンビニにでも行くかな。ああ、でもこの時間帯って、もう主力商品は売り切れ状態なんだよな。

 仕方ない、今の冷蔵庫にあるものだけで何とかしよう。俺は今度こそ、重い腰を上げた。


「よっこらせ」


 と言いつつ、細い廊下に出る。廊下の片側に設置された冷蔵庫。反対側にはバスルーム。


「んー」


 冷蔵庫を開け、顎に手を遣る。何かないもんだろうか。

 視界に入ったのは、ラッピングの外れたコンビニのサンドイッチだ。そうだ。さっき開けて、半分だけ食べたのだ。

 すっと手を伸ばし、早速かぶりつく。が、


「んぐ……」


 なんだこのパサパサ感は。食えたもんじゃないぞ。一抹の罪悪感と共にゴミ箱へと放り込む。

 他には……キャンディ? 腹の足しにはならないだろうが、まあ飲み物と連携を取れば、どうにかなるかもしれない。と、扉裏のドリンクホルダーを見ると、


「牛乳?」


 五百ミリの紙パックが一つ。一応未開封のようだが、安全性はいかがなものだろうか。

 ピリッと口を破り、開封口に鼻を近づける。

 匂いはない。安全だという証明だろう。よし、と一つ頷いて、俺は直接パックに口をつけ、ラッパ飲みを試みた。次の瞬間、


「ぐぉはッ!?」


 俺は口内と胃袋のバランスを取り損ね、そばの排水溝にもたれかかった。

 何だこれは!? 腐った雑巾のような味がしたぞ。いや、雑巾って腐らないものなんだろうが、カビが生えた雑巾とか、そのくらいのインパクトはあった。食ったことないけど。


「ぶふっ! はあ、はあ……」


 何度も口をゆすいでから、慎重に紙パックを傾げ、消費期限を確かめる。


「い、一週間前……」


 油断した。最近は炭酸ジュースと軽いアルコール飲料しか飲んでこなかったから、牛乳のことなどサッパリ忘れていたのだ。何のために買ったのか? それはもっと謎だ。自分の生活を、全く把握できていない。

 日付も分からず、時間も分からず、ネットなしでは生きられない。修行僧のように黙々と道を歩んでいる。もっとも、俺の場合は『堕落への道』なわけだが。


「あーあ」


 畜生、眠くなってきやがったぜ。俺はリビングに戻った。

 こうなってくると、カーテン越しに入り込む陽光が逆に心地よい。冷房をガンガンつけているので暑くはならないし、日光の大方をカーテンで遮っているから、適度な暗さの中に身を置くことができる。


 室内で明け方に眠りにつく。その時に感じる俺の気分には、もう一つある。背徳感だ。

 皆が起き出し、学校だ会社だと騒ぎ始める時刻。そんな時に、自分はベッドに横になることができるという、一種の優越感。これがまた爽快なのだ。随分と歪み狂った感情だとは自覚しているけれど。

 ふあー、とあくびを一つ。


「シャワーでも浴びて、さっさと寝るか」


『さっさと』というには語弊があるが、生活が昼夜逆転してしまっている俺からすれば、今日はまだ早いほうだ。

 下着とパジャマとバスタオルを引っ掴み、バスルームへ。ちゃっちゃと身体を洗い終え、全身を拭いてパジャマへと換装。歯も磨き終え、再び『あーあ』と何の意味もない音を喉から押し出しながら、俺はベッドへ倒れ込もうとして、足を止めた。


 ピンポーン、という馬鹿に明るい電子音が、俺の足を止めたのだ。

 一体何だ? こんな時間に。幸いシャワーを浴びた直後で、俺に眠気はない。しかし、人を訪ねるには非常識な時間帯だろうという、一抹の苛立ちは存在する。

 誰だろうか? 俺は玄関のチェーンをかけたまま、ドアを開けた。

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