第5話 見本
[オーナーの書いた注文書を見せて頂けませんか?見本にしたいんです]
桜色の注文書は名前も住所も電話番号も書く欄がない。
どう書いていいのか戸惑う大きさだ。
一枚見本があれば真似をしたらいい。
オーナーはカウンターの奥に入り鍵を開けて、ひとつのボックスを持ってきてくれた。
[これは昨日仕上げたばかりの浴衣です。これがその注文書です]
すみれ色の封筒から四つ折りにされた注文書を広げる。浴衣は綺麗にラッピングされてリボンをかけられている。こんな風にお客様のリメイク商品を渡すのか。オーナーの太くて短い指からは想像がつかない。
[僕には妻はいませんし、みどりさんの他に女の子の従業員もいません。お客様の大切な商品を最高の贈り物としてお返ししたい]
また、心を読まれたのか、オーナーはズバリと私の疑問に答えてくれた。そして
[優れもののペンだから読めるかな?]とオーナー自筆の注文書を渡してくれる。
みみずがはった字とはよくいったものだ。
全く読めない。ドイツ語でもアラビア語でもない。確かに目を凝らすと日本語だ。
A4用紙にびっしり書いてある。私は気をとり直す為に深呼吸して店全体を見回した。カウンターの右側にフランス調のショーケースがあり
左側には高級なクローゼットがある。鍵つきの引き出しが20くらいついていた。
私の視線の先をオーナーは認めて、
[あの中には指輪や時計がありますよ。見てみますか?親の形見の宝石を今流行のアクセサリーにリメイクする人が増えています]
私は宝石には興味がない。しかし、これから働く人間として見ておくべきだと頷いた。
[みどりさんの好きな宝石は何ですか?]
[あえていうならルビーです]
ダイヤモンド、サファイア、パール、そしてルビーくらいしか名前が出てこない。とっさにルビーと答えてみた。
[みどりさんの、親御さんはご健在かな? もし、形見の品に宝石を貰ったらリメイクするといいですよ。ガッチリしたゴールドのリングは今時流行らないから]
私にそんな金持ちの親はいない。そう言い返したいのを我慢した。
[これどうぞ。就職祝いです]
オーナーは本当にルビーの指輪を私の指にはめようとする。まさかこれから給料天引きしていくのではないか。新手の詐欺か。お金をため込んでいそうな50代を雇ったのはその為か。
[騙そうなんてしていませんよ]オーナーは大笑いをした。
[本当にプレゼントです]
今度は真顔で小さな箱に入れて、私の手のひらにのせてくれた。私は少し顔がほてるのを感じた。プレゼントなど貰ったことがないからだ。
G線上のアリアが静かに流れている事に今気がついた。私は気分がよくなり、またソファにドッカっと座る。宝石箱をエプロンのポケットにしまい、また注文書に目を落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます