第6話
もう私は一刻も早くコロンを試すために眠りたくて仕方なかった。そして、授業が終わる部活が休みだったので小走りで家路についた。
晩御飯まで三時間ほど時間がある。手早く部屋着に着替えると、コロンを軽く手首に振りかけて満を持してベッドに横になった。しかし、眠ろうとすればするほどに目がさえて眠れない。
ミーが一匹、ミーが二匹。塀を軽やかに飛び越えるミーを想像する。猫じゃらしの草を両手で掴みかかる姿、ビニール袋のカシャカシャという音に反応してじゃれる姿、思い出せる限りの色々なミーで頭を埋め尽くす。なんて可愛らしいんだろう。
そういえば手を引っ掛かれたこともあった。そうだ、あの時はお父さんが突然凄い剣幕で怒ったんだ、私に対して。野良を触るからこんなことになるんだ、と。
児童相談所は騒然となって、そうだ、警察も来た。私は大人達の影に隠れて息を殺して、早く時が過ぎてくれるのを待っていた。もしかしたら、私がお父さんと会わなくなったのはあれからではなかったか。
クッキーを食べた時みたいに甘くて幸せな気分が一気にしぼんでしまった。
折角忘れていたのに。
もし科学がこの先もっと進歩するなら、記憶の選別が出来る装置を作ってほしい。嫌な記憶は消し去り素敵な記憶だけを留めておけるならどんなに幸せな人生になるだろう。消えちゃえ。嫌な事なんて、ぜんぶ。
全く眠ることが出来ないまま晩御飯の時間になった。お母さんに「あら、なんか付けてる?」と聞かれたので友達から貰ったコロンだと答えた。
「もしかして男の子?」
声を潜めた、ちょっと期待のこもる問いには残念そうに首を振るしかなかった。お母さんは少女のように恋の話が大好きだ。恋の話以外にも、私はお母さんと毎日いっぱい喋りたくて仕方ない。
優しい笑顔で相槌を打って欲しくて、晩御飯が終わった後のお茶の時間には学校にいる時の何倍もお喋りした。女子トークに居心地の悪そうなお父さんも時々下らないお喋りに焼酎を片手に参加してくれた。
今日の晩御飯は私の好物のハンバーグで、湯気の立つ温かい食卓に胸がいっぱいになった。
寝る前にもう一度コロンをつけて深く香りを吸い込んだ。友達も両親もいて、美味しいご飯を毎日食べることが出来て、こんな清潔なシーツまで敷かれたベッドまで用意されて。幸福に満たされた気持ちで私は眠りに就いた。
その日の夢は辛いことが溢れていた。ミーも見当たらない。けれど、どんなに辛くても夢だってわかっていたし、この先に起こることも知っているから平気なのだ。
目覚めた時は窒息から解放された気分だった。寝汗をかいた重い体を起こすと、私はまた一日を始めるために立ち上がった。
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