三 ふたりは。

 その日の夜、いつになく部活で帰りの遅くなった僕が駅に着いたのは、もうすでに10時を回った頃のことだった。


 普段はそんなことないのだが、奇しくも〝あの時〟と同じように、今日は熱くなった先生の指導がやけに長く続いたのだ。あ、ちなみに僕の入っているのは美術部である。


 帰宅ラッシュもとうに終わっているので、今の時間だと駅構内には人の姿もまばらである。


 朝夕はあんなにぎっしり込みあっているというのに、このギャップがなんともまた、新興住宅地にある駅の特色というものだろう。


 それにしても朝の景色とは一変、ガランと遥か向こうまで広がった構内の様子を、僕は端から端までぐるっと見回してみる。


 風はなく、屋外の汚れ一つない漆黒の闇に包まれたプラットホームには、煌々と光る蛍光灯の明かりに満たされた、夏の夜のもわっとした空気が立ち込めている。


 その、まるでここだけ時が止まったかのように外界から切り離された空間の中で、左から右に、ゆっくりと首を回していた僕の瞳が、黒い川みたいに見える線路を挟んだ向こう側の岸――反対のホームの上で止まった。 


 いた!


 そこには、今朝と…そして、いつもと少しも変わらずに彼女の姿があった。


 今も彼女は使える方の手で長い黒髪を耳に掻き上げながら、ずっと下に目を向けてあれ・・を探している。


 かなりの確率で期待していたことではあったが、やはり、こうして実際に出会えると非常にうれしいものである。


 ……でも、彼女はこんなすぐ近くで、自分のためにこんなにも胸を弾ませている人間がいるということをもちろん知りもしないであろう。


 …………そのことが、なんとも悔しい。


 今日こそ、声をかけよう……今なら人もほとんどいないし、こんな機会は滅多にない。


 声をかけるのは怖いし、彼女の分身であるあれ・・を手放してしまうのは、なんだか彼女と僕とを繋いでいる唯一の関わりが絶たれてしまうような気がしてものすごく不安だ……だけど、彼女のためにも、いつかはちゃんと返さなければならないものなのだ。


 行こう……無視されたり、キモイとか思われてももうかまわない。今夜こそ、その返さなくてはならない〝いつか〟なのだ。


「……よし」


 僕は覚悟を確かめるように大きくひとつ頷き、その脆弱な決意が挫けてしまう前に行動を起こさねばと、向こう岸・・・・へと渡るための階段を勢いよく駆け上がった――。





 今夜も、わたしはわたしの大切な一部をこの場所で探している……。


 いったい、いつまで探せばあれ・・は見つかるんだろう?


 もう、諦めてしまおうかと、そう思うこともたまにはある。


 でも、今のわたしにはそれしかすることがないし、あれ・・を見つけないことにはここから先へ進むことができないのだ。


 ……やっぱり、あの人に訊いてみよう。変な顔されたり、ストーカーとか思われるかもしれないけど……ううん、その前に無視される可能性の方がはるかに高いけど、どうしてもあの人が気になって仕方ないのだ。


 誰も見向きもしない大勢の人達の中で、ただ一人、わたしのことを見つめてくれていたあの人のことが……。


「……ハァ……ハァ……」


 その時、わたしの背後で不意に息遣いが聞えた。


 あれ以来ずっと、風の音さえ聞こえないような無音の世界の中にいるわたしには久々の、実に鮮明で、実に生々しい、生気ある人の息遣いである。


「あなたは……」


 久しぶりに聞く生き生きとしたその音に、どこか胸弾ませながらわたしが振り向くと、そこには肩を激しく上下させながら、あの人がわたしを見つめて立っていた――。





「――ハァ……ハァ……」


 連絡通路の階段を一気に駆け上り、そして、反対側の階段を一気に駆け下りた僕は、今、彼女のすぐ目の前に立っている。


 驚いたように目を見開いて呆然と僕のことを見つめ返しているが、間近に見るその少々血色の悪い真っ白な顔は、やはりドキリとさせられるくらい超絶美しい……。


 無駄に走って息が上がってしまったが、おかげで破裂するかと思う程に早鐘を打つ心臓の音を、そのせいにして誤魔化すことができる。


「…ハァ……ハァ……あ、あの……これ……」


 息が上がって話しづらいが、時を置いては口籠ってしまいそうなので、僕は走って来た勢いのままに早々本題を切り出す。


「君が探してたのは、これなんじゃないのかな?」


「……! それは……わたしの……」


 意を決し、肩掛け鞄の中から取り出した包みを僕が開けてみせると、その綺麗なナプキンにくるまれていた物を目にして、彼女は唖然とその円らな瞳をさらに大きく見開く。


「それは……それは、わたしの、右手……」


 僕の手にした純白の衣の上には、すっかり乾燥して皺だらけになった、女性の右手首のミイラが載せられている。


「ごめん。腐るといけないから、無断で申し訳なかったけど、シリカゲルで覆って乾かさせてもらったよ」


 驚く彼女に、もう一つの、ずっと罪悪感を抱いていたそのことについてもついでに謝罪をする。


「どうして、あなたがこれを……」


「じつはあの夜、僕もあの場にいたんだよ。そうしたら、あんなことが起きて、偶然、君のこれを見つけて……」


 驚きの後、今度は怪訝そうな表情を浮かべて小首を傾げる彼女に、僕はこうなった経緯を掻い摘んで語って聞かせる。


 そう……あれは一月ほど前、やはり今日と同じように部活で帰りが遅くなり、これぐらいの時間になってこの駅へ降り立った時のことだった。


 その夜も、僕は彼女の姿を反対側のホームに見つけ、ひそかに胸をときめかしつつ、遠く離れた対岸より彼女のことを見つめていた。


 だが、その時見た彼女は貧血だったのか、それとも寝不足なのか、いずれにしろホームの上にふらついて立っており、なんだかやけに危なっかしいな…と嫌な不安を覚えたのも束の間、そのまま前方に倒れ込んで線路に落ちたのである。


 しかも、なんともタイミングの悪いことにはちょうどそこへ電車が入って来て、彼女は僕が見ている目の前で、その電車に跳ね飛ばされてしまったのだ!


 夜の駅を支配する静寂の中、突然鳴り響き、宵闇を震わす耳障りな警笛。


 それは、あまりにも現実味がなく、夢か幻燈でも見ているような感じだった……一瞬の出来事のようでもあり、また、スローモーションみたく緩やかに映像が流れていたような気もする。


 にわかに騒がしくなる駅構内、ふと気づけば、どさくさに紛れて僕も線路に降りていて、そして、僕の足下に転がる彼女の右手首を見つけたのである。


 手首からすっぱり綺麗に千切れていて、切り口以外には赤く生々しい血液も付いていない……僕のいる位置から電車まではかなり離れているが、あまりの衝撃にここまで飛ばされて来たのだろう。


 こんなことを言うと、猟奇趣味のある危ない人間のように思われてしまうかもしれないが、暗い夜の闇の中にあってそれだけ白く浮かび上がる、その女の子らしい小さく艶やかな手のひらを見つけた瞬間、僕はそれがとてもカワイらしいように思った。


 さらにわずかの後、それが彼女のものであることに思い至ると、とても愛おしいという感情も芽生えてきた。


 春以来、名前も歳も知らぬまま、ずっと毎日のように見つめていた彼女の体の一部……それが今、自分の手の届く場所にある……。


 駆けつける駅員達の目を盗み、それを密かに拾って鞄に入れるのはごく自然な行動だった。


 そして、彼女の一部を手に入れたことで、なんというか、例えるなら恋人達が二人だけの秘密を共有しているような、そんな、彼女との深い繋がりが初めてできたような気がした。


 早く返してあげなくてはいけないのに、ずっと自分の手元に置いておいた理由もまさにそこにある……彼女と僕とを繋ぐその唯一の存在を、どうしても手放すことができなかったのである。


「――あなたが、拾ってくれてたんだね……」


 僕から受け取ったそれを、体中、あちこち深い傷を負った彼女は大事そうに両手で……いや、右手は手首から先がないのだが、血塗れの制服越しに胸へ押し抱くと、いたくホっとしたように穏やか笑みを血の気の失せた顔に湛える。


「ごめん、返そう返そうとは思ってたんだけど、どうしても切り出せなくて……その、これを返しちゃったら、君との関わりが消えてなくなっちゃうようで怖かったんだ……その、ずっと前から君のことを向こうのホームで見てたんだよ! あの夜よりももっと前から! なんか、君のことがどうしても気になって……」


 隠し持っていたことの言い訳をする必要性から、極度の緊張に理性をなくした今の精神状態に任せて、僕はほぼ告白のような内容のことを口走ってしまう。


「ううん……そんな風に思って見ててくれたんだね。すごくうれしい……」


 だが、彼女は僕の予想に反し、身勝手な僕の行動を責めるでも、女の子の手首を持ち歩いていた僕を変態と罵るでもなく、ふるふると首を横に振ると、目に涙を浮かべながら、こちらこそうれしいことを言ってくれる。


「私もおんなじ。誰もわたしを見てくれないこの世界の中で、一人だけ、わたしのことを見つめてくれているあなたがずっと気になっていたの……それに、あなたがこうして大事に持ってくれていたおかげで、わたしはようやくここから先へ進むことができる……」


 だが、そのうれしさと同じくらい悲しいことにも、そうなってしまうのをずっと恐れていた……いや、きっとそうなるであろうと薄々わかってはいた不安が的中してしまう。


「やっぱり、もう行っちゃうんだね……」


 大事そうに戻ってきた〝右手〟を抱える彼女の体が、だんだんに透き通って周囲の夜気と同化してゆく。


「うん。そういう決まりみたいだからね。せっかくこうして知り合えたのに、ちょっとさびしいね……」


 背後に伸びるホームの端まで透けて見える彼女が、またうれしくも悲しい別れの言葉を切ない笑顔を浮かべながら告げる。


「ま、また、会えるかな?」


 そんなことないとはわかっているのに、その事実をどうしても認めたくなくて、僕は自分の心を騙すようにあえてその質問を口にする。


「うーん…そうできたら、いいんだけどね…………」


 その問いに、彼女は眉根を「ハ」の字にして困ったような苦笑いを浮かべ、そんな言葉を最後に残して僕の前から霧散して消えた――。

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