第5話 訪ねてきたのは

 ルイス・シャノーワーが訪ねてきたのは、白鳥を見に川へ行った翌週だった。

 神妙な様子で馬車を降りたルイスだが、玄関前で迎えたクレイグを見るなり表情が気楽なものに変わる。

「どうだい様子は……って、愚問だな。貰った手紙の通りのようだね」

「嘘でも書いていると思ったのか」

「君は文章がそっけなさ過ぎるんだよ」

 サラの紹介者でもあるルイスには、報告を兼ねて二通ほど書いていた。手紙はサラも出していて、そちらがなければもっと早くに様子を見に来ていた、と旧友は愚痴のようにこぼす。

 顔色がよくなった、と言われてクレイグは自分の傷のある頬を擦った。

「顔色?」

「自覚なかったのかい? この前来た時はそりゃあ酷かったよ。雪中行軍のほうがマシってくらい窶れていたし」

「……そうか。最近はアルヴィンの夜歩きが随分減ったからな」

 体力の面からだけ言うなら甥に付き合う程度、毎晩だろうがどうってことはない。手をこまねいて見ているしかできない精神的苦痛のほうが大きかった。

 領主としての仕事もようやく慣れてきて、多少の余裕が出てきた。

 相変わらず面倒な書類は多いし、過去の資料や帳簿には目を通しきっていない。執務机に入っていた鍵の中には、どこに使うのか分からないものもまだ残っている。

 それでも、戦地で感じる緊張感とは違う種類の、静かにまとわりつくような気づまりが減ったことの意味は大きい。

「彼女に感謝しないとな」

「賛成だ。しかしルイス、」

「ああ、黙って。君の言いたいことは分かっているから。でも、彼女の年齢はこの際関係ないよな?」

「いや、関係なくは……ないのか」

 若くても、予想通りの年齢だったとしても、サラが来たことによって事態が動いたのは事実だ。

 それも、いいほうに向かっているのだから確かに年齢など些末なことかもしれないと、クレイグは思い直す。

 自分がどうしてそこに引っかかるのかは分からないが。

「アルヴィンはレディ・アークライトに任せて大丈夫だろう」

「そうだな……昼食はまだだろう? トマス、こいつの分も用意を」

 恭しく礼をして下がる執事の前を通り屋敷の中に入ると、二人は話しながら応接室に向かって歩き始める。

 同行してきた従僕が持った荷物を振り返って、ルイスはクレイグに尋ねた。

「男爵家から預かってきた。彼女は?」

「今はアルヴィンと庭に……いや、ちょうど戻ってきたな」

 廊下に面した大きなガラスの両開きのドアから、屋敷へ向かって歩いてくる二人の姿が見えた。

 走りでもしたのだろうか、頬を赤くしたアルヴィンは帽子の下で息を弾ませているようで、白く染まった空気の塊が次々と浮かんでは消えていく。

 出入口のほうへと行きそうになる二人を、クレイグはガラス戸をノックしてこちらを向かせる。

 ルイスを認めて驚いた顔をしたサラが、アルヴィンと手を繋いで進路を変えてやって来た。

「元気そうだね、アルヴィン。レディ・アークライトも」

「シャノーワー卿、ご無沙汰しております。ええ、この通りです」

 戦地を転々とするクレイグとの間を取り持つという形で兄夫婦とも親交のあったルイスは、アルヴィンのことを、それこそ生まれた時から知っている。それもあって今回の事態に気を揉んでいたのだ。

 不意に現れた客人にアルヴィンは挨拶はしないが、背を向けて走り去ることもなくサラの隣に立っている。調子に乗って撫でようと伸ばした腕には、さっと体を引かれたが。

 クレイグに横目で睨まれて、苦笑いのルイスは取り繕うように従僕が持つ包みの一つをその場で開いて見せた。

 中を見せられたサラの顔がぱっと明るくなる。

「テイノアの林檎……!」

「男爵家からの差し入れだよ。好きなんだって?」

 中には、小ぶりな林檎が詰まっていた。一般に見かけるものより数段濃い赤色は黒に近いほど。

 林檎をじっと見つめるアルヴィンに、サラは一つを手に取って差し出す。

「こんなに濃い色の林檎、アルヴィン様も初めて見ましたでしょう? でも、食べたらもっと驚きますよ」

 受け取ったアルヴィンは、勧められるままにそっと顔を近づけて林檎の匂いを嗅ぐ。色からは想像のつかない爽やかな甘さを感じさせる、どちらかというと柑橘類にも近いような芳醇な香りが立っていた。

 膝を曲げて屈んだサラは、予想外の香りに表情を変えたアルヴィンと視線を合わせて微笑む。

「お昼前ですけれど、少しだけキッチンで皮を剥いてもらいましょうか」

「それがいいね。じゃあ、お二人さん、また後で。ほら行こう、クレイグ」

 林檎の包みを抱えた従僕を連れて楽し気に去る背中を見送ると、二人は当初の目的地へと足を進めた。


 応接室へと入ると、ルイスはどさりと腰掛ける。自身の領地からこのブレントモアへ来る道は、街道を通れば便利だし安全だが、それなりに時間がかかるのだ。

 ティーワゴンを運んできた使用人を下がらせ、軍時代の名残で自分達で茶を淹れる。

「アルヴィンは随分とよくなったじゃないか。僅かだが、表情もでてきたようだ」

「ルイスもそう思うか」

「ああ。レディ・アークライトならばと思ったんだ」

 単なる称賛に聞こえたはずのその言葉に含まれた何かに気付いたのは、クレイグの戦地で養われた勘、といったものだったろう。

「……どういうことだ?」

「なにが」

「とぼけるな」

 クレイグはルイスの真正面のソファーにやや前かがみに腰を下ろした。平和そのものの田舎の領地に不似合いこの上ない鋭い眼光に、ルイスはたじろぐ。

 重苦しいしばしの沈黙は、肩を落とし息を吐く音で途切れた。

「はぁ、失敗した……話すのはもっと後にしたかったんだけど」

「ルイス」

「分かったよ、そう睨まないでくれ。獅子に対面させられた子鹿の気分になるだろうが」

「子鹿ってガラか」

「ったく、こういうことに関しては勘が働くんだよな、クレイグは」

 軽く返すと諦めたように肩をすくめた。

 他言無用と言いおいて、もとより二人しかいない部屋でルイスは声を潜める。

「彼女が修道院にいたことは聞いたんだよな」

「ああ、本人の口から初日に。義母と折り合いが悪かったと言っていたが、もしかして違うのか?」

 嘘をついているようには見えなかった。騙されたのだとしたら――それはクレイグの不明によるものだろう。

「いや、勘違いしないでくれ。間違ってもいないし、実際、彼女はそうだと信じている。ただ、事実はもう少し複雑というか」

 サラが修道院へと送られたのは五歳。幼い子どもの記憶など、いくらでも思い込ませることができるとルイスは苦く笑う。

 クレイグの眉間の皴は深まる一方だ。

「彼女の祖父は……ウォーベック侯爵だ。サラは閣下の隠された孫娘だよ」

「……は?」

 大分言いにくそうにしながら吐き出されたルイスの言葉に、さすがのクレイグも目を見開いた。

 ウォーベック侯爵家はこの国の古くからの重鎮貴族で、ともすると公爵家や王族よりも財力・政治力ともに影響力があると目されている。

 失態を演じるようなことをすれば、侯爵閣下の指図一つで消されることも珍しくないと聞く。近づくにも細心の注意が必要な家だ。

「あの家の次男な、ほら、俺らがプレスクールの時に上にいたろう」

「ああ、いけ好かない奴だった」

 クレイグやルイスが初等教育を受けていた時、同じ敷地内の上の学園で見かけることがあった。

 まるで自分こそが王のように取り巻きを引き連れて歩くウォーベック侯爵家令息は、学業も素行も褒められたものではなく、よくない方面で有名人だったった。

 子ども心にも不愉快な存在だったが、多額の寄付金と何と言っても侯爵家の名前の前に、教授達も逆らえなかったのが現実だ。

 クレイグは嫌な予感がした。

「……もしかして」

「そう、多分予想通り」


 目を付けられたのは、どこかの茶会で居合わせた準男爵家の美しい一人娘。

 彼女には既に婚約者もいたが、貴族籍の末端でしかない者には逆らう術もない。

「強引に愛人にしたはいいが、一年もせずに飽きて遠い領地にポイ。母親は心と体を壊して、サラを産んで二年足らずで亡くなったよ」

 その後、本家に引き取られたのだという。

 当の父親は滅多に家に帰らず、いてもサラに関心はない。しかもサラの母が亡くなってすぐに政略で結婚しており、本妻は夫の愛人の子をいないものとして扱った。

 サラは、侯爵家の広大な屋敷の片隅で、そっけない使用人から最低限の世話だけを義務的に受けた。

 そんな環境で、言葉も感情も育つはずがない。

 侯爵家にとっては口封じを兼ねて引き取っただけの「余計な子ども」だ。どれだけでも大人しく手間がかからないほうが、世話をする側にとっては面倒がなかったのだろう。


「母親だった女性の写真を見たことがあるけれど、綺麗な人だったよ。髪の色も顔立ちも、母娘でよく似ている」

「そういえば、アークライト男爵はそれで気が付いたと」

「……そうだな。修道院で知識や言葉は増えたけれど、感情を表に出すことはまずなかったそうだ。彼女が今のように笑ったり話したりするようになったのは、男爵家に来てからだ」

 金色の指輪に目を落とすたびに、懐かしむような表情を浮かべるサラ。

 時間は短かったが二人の生活は満ち足りたものだったと、その姿を見るだけで十分に分かる。

 それ以上に、故男爵はやはり彼女にとってかけがえのない夫なのだと、ルイスの話を聞いてクレイグの心には深く刻まれた。

 男爵がサラにそうしたように、今度はサラがアルヴィンを導いてくれるのではと思ったのだと、そのルイスに言われればクレイグは頷くしかない。

「俺の家が、アークライト家とずっと親しくしている関係で知っている話だ。頼むから、」

「誰にも言わない。当然だ」

 言い切るクレイグにルイスはようやくほっと息を吐く。本当は、アルヴィンがもとに戻ったら告げるつもりだったとこぼされた。

「君の口が堅いのは知っているし、僕としてもずっと隠し通すつもりはなかった。ただ、今は侯爵家との縁は切れているとはいえ、彼女にとって面白い話じゃないだろう。君はそんな顔なのにすぐ表情に出るから」

「なんだって?」

「仏頂面のくせに分かりやすいって褒めてるんだよ」

「褒められているように聞こえないが」

「わ、ちょ、」

 クレイグがゆらりと立ち上がったところに、ノックの音が響く。入室を許可すれば、さきほどの林檎を手にしたサラとアルヴィンが執事を伴って現れた。

「お話はもうお済みですか? 林檎をお召しあがりになるかと思いまして」

「レディ・アークライト、それにアルヴィン。なんていいところに! ちょうど終わったところさ」

 助かった、と言わんばかりの歓迎に若干引きつつも、サラは笑ってどうぞ、と皿をテーブルに置く。

 切ったばかりの瑞々しい断面が、窓からの光を受けてつやつやと輝いていた。

「とっても美味しいですよ。アルヴィン様もすっかりお気に入りです」

「そうそう、ほら、クレイグも食べてみな。希少種なんだ」

 土の具合か気候の影響か、アークライト男爵領の一地域でのみ育つ樹なのだという。ほとんど領内で消費され、外に出回ることは滅多にない。

「香りもいいですよ。歯応えもあってジュースのように果汁がたっぷりですから、気を付けてくださいね」 

 勧められて口にすると、まさしくその通りで林檎というよりオレンジを食べているようだ。初めての食感にクレイグは素直に驚く。

「ほら、やっぱり叔父様もびっくりなさったでしょう、アルヴィン様?」

 サラに耳打ちをされたアルヴィンは、目を丸くしたまま林檎を頬張る叔父を見て――初めて、小さく笑ったのだった。




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