第6話 つなぐ手は
昼食の後、アルヴィンが昼寝をしている間にサラも呼んで三人で居間のテーブルを囲むと、ルイスが早々に切り出した。
「それで、池のことだが」
アルヴィンは庭の花壇と池、特に池によく行く。そこに気がかりがあるようだとはクレイグも考えていた。
サラが言うには、不安そうにしながらも恋しくてたまらないといった熱心さで、池の中島を見つめているそうだ。
花壇は亡母が手入れをしていた場所だから、と分かるが、池のほうは理由が分からない。いわれや由緒がある場所なのかとサラに問われたが、クレイグはその答えを持ち合わせていなかった。
池もその中島も、ブレントモア家がここに邸を構え造園した際にできたもの。思い出と言えば、子ども時代の夏には兄弟で中の島を目指して泳ぎ、冬には凍った上を滑って遊んだ、そのくらいのものだ。
王都にいるトビアス叔父にも尋ねてみたが、特には思い当たらないとのこと。長く勤めている使用人達も同様だった。
「前の手紙を貰ってから交流のあった人達にそれとなく聞いてみたが、これといったことは見つからなかった。悪いね、役に立てなくて」
「いや。手間をかけたな」
「引き続き調べてみるよ。その前にアルヴィンが元気になって、自分の口から話してくれるといいけどな。今の様子を見るに、その期待も持てそうだ」
そう言ってルイスは肩の力を抜いた。
「アルヴィンの顔も見られたし、レディ・アークライトも元気そうだ。用は済んだし、帰る」
「なんだ、泊まらないのか? もうすぐ暗くなるぞ」
「叔母のところにも用事があってね、今夜はそっちに泊まる予定だ」
ルイスの叔母の一人は街道沿いに居を構える豪商に嫁いでいる。クレイグも何度か会ったことがあるが、貴族との縁故だけでなく、気さくでしっかり者の奥方として商売人としても上手くやっている印象を受けた。
その叔母の近況などを軽く話した後でふと言葉を切ったルイスは、確かめるようにサラと視線を合わせた。
「……アークライト男爵達から、もし無理をしているようだったら、連れて帰るようにと言われていた」
「そ、」
「それは駄目だ」
サラの返事よりも早く答えたのはクレイグだった。
言葉を取られ驚いて口を開けたまま固まったサラと、面白そうに眉を上げたルイスに、クレイグは居心地が悪くなる――被せるように引き留める言葉が出たのは、無意識だった。
「いや、アルヴィンも懐いているしだな、」
「それはそうだね。レディ、なにか不都合やご苦労は? この際だから正直に話してくださいよ」
「なにひとつございません。アルヴィン様は可愛らしいお子様ですし、待遇もとてもよくして頂いています。もちろん、クレイグ様にも」
なんの不満もないと言い切るサラに、クレイグは内心でほっと息を吐いた。
「だってさ。よかったな、クレイグ」
「お前は全く……」
「クレイグに言いにくかったら俺や、執事のトマスが代わりに聞くから遠慮せずに。なんといってもこいつは女性のことに疎いから」
「大丈夫だと思いますけれど。はい、そうさせていただきます」
朗らかに答えるサラの瞳がクレイグと重なる。
楽しそうに細められたライトブラウンの瞳にクレイグの鼓動は強まったが、あご下に添えられた指に光る金色の指輪が目に入るとスッと頭が冷えた。忙しない感情の上下に弄ばれているようで困惑する。
――彼女は、今も亡くなった夫を愛しているのに。
その事実を確認せずにいられない。
自分の気持ちがどこに向かっているのかは、既にクレイグは自覚があった。彼女の不遇な過去を聞いた今も、その心は変わらない。変わらないのは、サラの男爵への想いも同じ。
自分を興味深そうに眺めるルイスの視線と、不思議そうに二人をそっと見比べるサラを見ないまま、クレイグは何度もそう自分に言い聞かせた。
見送りの場にはアルヴィンも同席した。こうして自室からも頻繁に出てくるようになった姿を見て、ルイスは改めて安堵の表情を浮かべた。
正面の玄関脇に寄せられた馬車へと目をやりながら、冷たい風に首をすくめて軽く立ち話をする。
「そうだクレイグ、新年には来るんだろうな」
年が明けた最初の月の末に、王家主催で大規模な祝賀会が催される。国内に住む貴族は特別な事由がなければ、その三日の期間内に登城して王に拝謁する義務があった。
昨年は喪中ということで免除されたサラも、今年は出席する必要がある。
せっかく改善が見えてきているアルヴィンの状態を鑑みれば、短期間とはいえ二人を離すのは得策とは言えない。王都には三人で行くつもりだった。
「行かなくていいなら出ないが」
「分かっていて言っているな。向こうにはトビアス卿がいるけれど、必要なら、彼女とアルヴィンはアークライト男爵家か我が家で預かる準備をしておくよ」
生来病弱な叔父のトビアス卿は、僻地にある領地よりも過ごしやすく医者にかかりやすい王都のタウンハウスで暮らしている。
アルヴィンのことは以前より可愛いがってくれていた。しかし、臥せってばかりの自分では、クレイグの不在時にもしアルヴィンに何かあっても対処ができないだろう、と不安を聞かされてもいる。事故前のアルヴィンは幼い頃のクレイグのように活発で、よく木に登ったり、池にはまったりもしていたのだ。
祝賀会の時までにどう変わるかは未知だが、戻ってほしいと思う反面、たしかに叔父では活発な子どもの面倒は見切れないだろうとの予想は立つ。
アークライト家の家長夫妻には小さい子どももいて、面倒を見る手も多い。サラも馴染みのあるそちらに、二人で世話になったほうが安心かもしれない。
「……考えておく」
「そうしてくれ。あ、そうだ」
馬車の上り台に掛けていた片方の足をふいに降ろすと、ルイスはクレイグへ近寄り耳打ちをした。
「祝賀会のことだが、レディ・アークライトのドレスはお前から贈れよ。さんざん世話になっているんだ、給料の他にそれくらいして恩を返せ」
「は?」
「アークライト家には『クレイグが用意する』と伝えてあるから。いいな」
予想外にもほどがあるルイスの指示への返事を探している間に、馬車は軽快に走り去っていった。
――ドレス?
防具の見立てなら自信はあるが、女性の正装など一つも分からない。
社交をする必要がある以上、そうとばかりも言っていられないのは百も承知だが、これまでに機会もなかったのだ。
「クレイグ様?」
馬車はとっくに消え執事に促されても、クレイグは寒風の中立ちすくんで屋敷に戻ろうとしない。
サラが覗き込むと、初めて会ったときよりもっと難しい顔をしていた。しかし怯むようなことはなく、サラは普通に話しかける。
「クレイグ様、戻りませんか」
「そうだな……」
上の空で返事をして、改めて目の前のサラの姿がクレイグの目に映った。
……ゆったりとまとめた柔らかそうな黒髪で、肌の色は自分よりずっと白い。ここに来た当初よりも、明るいブラウンの瞳は笑みの形を作ることが多くなった。
濃い色の服ばかりを着ているのは、まだ心が喪に服しているのだろう。似合うとしても、華やかな色は受け取らないかもしれない。
それに、彼女の雰囲気からすると赤や黄などよりは――
「……青か」
「なにがです?」
「っ!?」
きょとりと瞬きを止めたサラに覗き込まれるようにして、至近距離で目が合う。
自分でも思わなかったほどに近くにおり、慌てて一歩下がった。
「っと失礼、少し考え事を」
「ふふ、そのようですね。ですがそろそろ」
見送りに出ただけだったので、外套を羽織っている者もいない。もともと頑強なクレイグはともかく、サラやアルヴィン、使用人達も皆寒そうにしていた。
「悪かった。戻ろう」
「はい。アルヴィン様、さっきの林檎で作ったパイがもうじき焼きあがりますから、お茶を淹れましょうね。クレイグ様もよろしければご一緒に」
甘いものは得手ではない。しかし、いかにも自信たっぷりに美味しいのです、と言われれば断るのも気が引ける。
その上、クレイグの好みを知っているコックの計らいで、生地も中身も甘過ぎないからと先手を打たれた。
苦笑いで承諾すると、サラはクレイグの右の手を取る。細く、温度を感じない指に、クレイグはびくりと震えた。
「よかったですね、アルヴィン様。今日のお茶の時間は叔父様と一緒ですよ」
触れた時の動揺には気付かなかったサラは、そう言ってクレイグの手を上に向けさせて、今まで自分が繋いでいたアルヴィンの左の手を上に乗せる。
叔父と甥の手を繋がせたサラは、満足そうに微笑んだ。
どうしたらいいか分からずにクレイグがアルヴィンを見下ろすと、同じように驚きを浮かべる幼い瞳と目が合う。その見上げる輪郭、繋いだ手……思い出すのはよちよち歩きの甥。
兄夫婦が楽しそうに見守る中、小さな手と歩いた初夏の庭。
支えているはずなのに支えられているような不思議な心地、ふっくりとした温かさ、短い指。
ほんの数年前なのに遠く霞むのは、もう戻らない時間だからだろうか。
「……アルヴィン、大きくなったな」
最後に甥と手を繋いだのはそれが最後。
自分の力で握りつぶしはしないかと気が気でなかった記憶がある。
今もまだ、クレイグの厚く大きな手のひらに余裕ですっぽりと収まるが、あの頃よりもずっと、大きくなった。見下ろす頭の位置もずっと高い。
クレイグの言葉にアルヴィンの瞳は微かにきらめき、コクリと頷く。きゅ、と入った力はあくまで子どもの握力だが、それでも十分に強さを感じさせた。
クレイグが覚えているのは、はしゃいで駆け回ったり、笑ったり泣いたりする「子どもらしい」アルヴィンだ。
ルイスから事故の連絡を受けてここに戻ってからというもの、その頃の片鱗も見つけられず、まるで別の子に変わったかのようだった。
――それが、ようやく少しずつ。
クレイグはその手を、やはり潰さないように加減しながら、でもしっかりと握り返す。
手を繋いだまま戻った屋敷の中には、サラの言葉通りキッチンからの甘い香りが漂い始めていたのだった。
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