第4話 外出は
朝、クレイグのもとへ新聞とコーヒーを運ぶのは執事の役目だ。
長年伯爵家に仕える初老の執事は、予定外に家長を引き継ぐことになったクレイグの補佐役も務めている。
「おはようございます、クレイグ様」
「……早くないか、トマス」
時計の針はいつもの起床時間より一時間も前を指している。今日の午前中は特に来客も外出予定もなかったはず。
表情一つ変えずに平然とカーテンを開け着替えを用意するトマスの動作を、まだ覚醒しきらない頭でクレイグはぼんやりと見つめた。
窓からは明るい光と青空が見え、その眩しさに一瞬目がくらむ。
「久しぶりによく晴れました。アルヴィン坊ちゃまとサラ様は庭にいらっしゃいます。急ぎですべき帳簿などは目途が付きましたし、本日はクレイグ様も外で過ごされては?」
領主の事務仕事は煩雑で多岐にわたり、軍で培った経験も役に立つとは言えない。連日書類と格闘するクレイグは身体的にというより、精神的な疲労のほうが重かった。
「たまには、体を動かすのもよろしいかと。ジェフもそのつもりで用意しておりますれば」
アルヴィンのこともあって屋敷を空けるのは必要最低限にしていたクレイグに、執事は馬まで勧めてくる。
馬番のジェフは事故の時も御者をしていてやはり酷い怪我をしたが、命に別状はなく今は軽く足を引きずる程度まで回復している。
本人は事故の責任を感じて辞職を申し出たが、クレイグは却下した。
事故の原因は馬車の横転による崖下への転落だが、車輪が嵌った深い轍は落ち葉で隠れていて予測は不可能だった上、続いた雨でそもそも地盤が緩んでいたのだと警察の検分でも確かめられている。
山道で、下に岩場があったことが災いした。御者をしていたジェフは、投げ出されて逆に助かったのだった。
「トマスにはお見通しだな」
「クレイグ坊ちゃまのことなら分かりますとも」
いまだに「坊ちゃま」扱いをされるのは三十路の男にとってなかなか厳しいが、子ども時代のクレイグがこの執事にさんざん世話を掛けたのも事実で、強くは言えない。
それに、気分を変えたいのは確かだった。
「そうだな、アルヴィンも誘ってみるか」
事故に遭ってから、馬車も嫌がっていたアルヴィンだが、もともと馬は好きだった。兄に乗せてもらってどれほど楽しそうにしていたか、よく手紙でも触れられていた。
「それがよろしいかと。サラ様がいらしてから随分とよくなられましたから、今なら行くと仰るかもしれません」
「だといいが」
サラがこのブレントモア伯爵家の子守になってから一ヶ月あまりが過ぎた。アルヴィンは彼女を受け入れ、ほぼ一日中一緒に過ごしている。
彼女はアルヴィンに対し、声を出して話したり感情を表すようには言わず、身の回りを整えることから始めた。
食事や睡眠、学習や外遊びの時間を改めて決めるなど、事件前の生活に近づけるようにしたのだ。
『いつもと同じ、ということが大事なのです』
事故以来、使用人との接触も拒否していたアルヴィンは、眠る時間も食事の内容もまちまちだった。
幼いとはいえ次期当主でもある彼に反対したり強制したりできる立場の者は、使用人にいない。それが唯一可能なクレイグは、残念ながらサラに言われるまでそこに気が回らなかった。
自分の子ども時代を引き合いに、食べて寝ているなら身体は大丈夫だろうと、問題視していなかったのだ。
『修道院でもそうでした。毎日の決まった日課をなぞることが、安心に繋がる面があるのです』
軍にも規律や軍務がある。戦地という明らかな非日常の中で、その影響力は小さくない。
クレイグはサラの言いたいことをようやく理解し、彼女が思うようにやることを許可した。
十日も経たないうちに効果は見られ始め、眠りながら歩き回る回数が減った。
完全に治まったわけではないが、一ヶ月が過ぎた今は夜中に外に出ることはまず無く、だいたいは自室の中か、部屋の外に出たとしても二階のフロアで留まっている。
幼い子が顔色を失くして闇の中を歩き回る様子は痛ましい。
まだ言葉は戻らないが、夜歩きが減っただけでも使用人達のサラに対する態度が日増しに好意を増していくのは当然のことだった。
今朝も、サラに庭に行こうと誘われて自分から外套を手にしたのだ、とトマスは声に嬉しさを滲ませて報告する。
「よかったです、本当に」
伯爵家に長く仕える執事は、事故以来すっかり白くなった頭を柔らかく揺らして窓の外に目をやる。
クレイグも窓辺に寄ると、サラと手を繋いだアルヴィンが池のほうに向かう姿が窓下に見えた。
「このまま、アルヴィン坊ちゃまが元に戻られれば……」
「そうなることを願おう」
いつかの日とは違い、明るい日差しの中を並んで歩く姿はいかにも「散歩」を楽しんでいるふうで、不安を感じさせない。
話しているのはサラばかりだろうが、二人の周りに浮く白い息も、心なしか楽し気に散っていく。
――年配の夫人だと思ったら、若い女性が現れて。
わずかな期間でここまでの変化をもたらした。
クレイグは人を見る目にそれなりに自信があったが、こと女性に関してはそうとは言えない。これまでに試した何人かの子守のせいで、ますます苦手意識が募っていた。
修道院育ちのせいか世間慣れしていない感はあるものの、穏やかなサラは今のアルヴィンを預ける子守として相応しく思えた。
とはいえ、手放しで歓迎するのは早く、まだしばらくの様子見は必要だろうと気を引き締める。
だが、彼女をアルヴィンに引き合わせてくれたことに関しては、ルイスに礼を言わなくてはならないだろう……年齢のことを話さなかった文句を付け足す必要はあるが。
身支度を整え急ぎ朝食を済ませて、クレイグは庭へと降りる。探すまでもなく、二人は例の池のそばにいて、白鳥へパンくずを投げているところだった。
「白鳥か。俺の子どもの頃も渡って来ていたな」
「おはようございます、クレイグ様。そうなのですか、毎年?」
アルヴィンからの挨拶はなかったが、目は合った。クレイグはそれに軽く頷くと、サラから差し出されたパンの切れ端を受け取って、近くにいた白鳥にぽい、と投げる。
平たい嘴で器用に摘まみ上げて食べる大きな白い鳥に、アルヴィンの注意は移った。
昨夜の冷え込みで、池の奥側には氷が張っている。全面が凍るのも間もなくで、白鳥はそれまでの期間限定だ。
「この池の水を引き込んでいるもとの川のほうに、飛来地がある。そこから何羽かここに飛んできているようだ」
「それで納得しました。白鳥は、昼を過ぎるといなくなってしまうのです。きっとそちらに戻っているのですね」
だから早起きして見にきたのだ、とサラは同意を得るようにアルヴィンに微笑みかける。
やはり返事はしないが、代わりに何度かぱちぱちと瞬きをした。つられるようにクレイグも目をしばたかせ、手を膝に置き、アルヴィンと目線が合う高さまで姿勢を低くする。
「川にはもっとたくさんの白鳥が来ているはずだ。……アルヴィン、見に行くか?」
ここに来るまで実際、どうしようかと迷っていた言葉が気負わずでてきたのは、今までと違い、瞬きとはいえアルヴィンの反応が見られたから。
クレイグの誘いは思いもよらなかったようで、アルヴィンは先ほど瞬いたブルーグレーの瞳を今度は大きく見開いた。
その瞳に映るクレイグは、自分でも分かるほど不器用な笑みを浮かべていた。
「大きいのも小さいのもいるし、それに黒鳥もいたはずだ」
「素敵。他の水鳥も?」
「ああ、鴨なんかもいる」
「だそうですよ、アルヴィン様」
サラが声を掛けても、アルヴィンの視線はクレイグから離れない。
何かを探るようにじっと見つめてくる甥の瞳を、クレイグはまっすぐに受け止めた。
「馬車は使わないで、馬で行く。一緒に乗らないか」
アルヴィンの手が、サラの手を取ってぎゅっと力を入れたのがクレイグの目の端に映った。
にこりと見下ろすサラと視線を合わせたアルヴィンは少しして――ほんの小さく頷いた。
「っ、よし」
「キッチンへ行って、もっとパンくずをもらってきましょうね。あと、手袋と帽子も厚いのにしましょう」
屋敷へと足を向けながら、サラがアルヴィンに向かって嬉し気に外出の支度を話し始めるのを、クレイグは後ろを歩きながら眺めたのだった。
意外なことに、サラは乗馬が得意だった。
もちろん修道院で身につけたのではなく、アークライト男爵家に嫁いでからだという。男爵が体調を崩す前は、遠乗りにも出かけたそうだ。
そんなわけで、三人で川へと向かう。
抱き上げて馬に乗せる時こそアルヴィンは体を固くしたが、後ろに乗ったクレイグが手綱を握って歩き出してしまえば緊張を解いて背中を叔父に預け、道中はごくスムーズだった。
川には話したとおりたくさんの白鳥がいて、さすがにアルヴィンにも変化が見られた。
声は出ないまでもその瞳が何度も見開いたり、あちこちを眺めたりしている。白い息を吐いて鼻と頬を赤くしながらパンを放る手も、心なしか楽しそうに見えた。
最近のアルヴィンの体力を鑑みてそこまで長い時間は滞在しなかったのだが、体は正直でやはり疲れたようだ。
帰りの馬上でうつらうつらと揺れ始めるアルヴィンは、がっしりしたクレイグの腕に支えられて少し早めの昼寝と相成った。
その晩。クレイグがアルヴィンの部屋を訪れると、サラが本を読み聞かせていた。
使用人達によると義姉が家にいる時は毎晩そうしていたとのことで、サラはそれをなぞっているのだ。クレイグがアルヴィンの就寝前に顔を見に来るのは同様に、兄の習慣に倣ったものである。
お休みを言って、自分や兄と同じアッシュブロンドの髪を撫でる。これもサラの勧めだ。
父親とは違う武骨な手を、これまでアルヴィンは拒絶することもなく受け入れていたのだが、この日は違った。
「……?」
撫でた手を引こうとしたら、袖口を掴まれた。
驚いたクレイグがアルヴィンの顔を見ると、少しだけ動揺を浮かべた頬を紅潮させていて、逆に戸惑う。
「叔父様に、ここにいてほしいのですね」
いち早く事態を理解したサラの問いに、アルヴィンは黙って頷く。ここに、と小さな手が叩くシーツの上に、クレイグは気付いたら乗っていた。
「あら、私もですか?」
今度はサラの袖を掴んだアルヴィンは、自分を挟んで寝台の両脇に叔父と子守を配す。
「……これは、どうしたらいいんだ」
「ふふ、なんだか照れますね」
二人の袖口を握ったまま、アルヴィンはこてんと寝入ってしまった。目を瞑ったその顔は年齢相応にあどけなく、満足そうだ。
一つの寝台の上で、五歳の子どもを挟んで横になる男女。その構図は、夫婦とその息子にしか見えない。
――まるで家族のようだ。
クレイグはそう思い至って、慌てて頭を振る。
すやすやと寝息を立てるアルヴィン越しにサラと目が合って、誤魔化すように視線を逸らしてしまう。
あくまで叔父と子守。
サラは亡くなった夫を今も愛しているし、クレイグは心を痛めた甥を助けることもできない男だ。そんなことを考えていいはずがない。
自分の考えに驚いたクレイグは、距離をとらねばと思うものの……心地よさげに寝息を立てる甥の手を無理に引きはがすこともできず、そのまましばらくを過ごしたのだった。
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