泡雪に眠る

黒野マシロ

第1話 日溜まりの出会い

 橙色がかった光を放つ照明の下。すすり泣きの響く部屋の片隅で、凜太郎りんたろうはどこか所在なげに立っていた。

 彼は足元に落としていた目を持ち上げ、行き場のない手を身に纏った白衣のポケットに突っ込むことで落ち着かせた。

 一つ、瞬きをする。

「あなた……」

 呻くような小さな声が聞こえた。

 凜太郎の瞳に映るのは、床に膝を付きベッドに顔を埋める女の背中。今の声は彼女の嗚咽だった。彼女の顔のそばに横たわる男に息はなく、事前に聞いていた年齢に似合わずその髪は全て白く染まっている。

 凜太郎はたった今、男に薬を打ち込み、長いとは言えないその人生を終わらせたところだった。

 体液を介して生き物に感染する感染症、『泡雪病あわゆきびょう』。男の体を蝕み、凜太郎が彼を殺す理由を作ったこの病はそう呼ばれていた。

 泡雪病の患者は、その体毛を白く変えながら徐々に正気を失っていき、最後は必ず死ぬ。しかも、正気を失った患者は次の感染者を求めて別の人間を襲うのだ。

 治療法がないこの病に感染した患者の多くは、正気を失う前に死を、と、そう望む者が多い。その望みの通りに安らかな眠りを与えるのが『眠り屋』の仕事だった。

 静かに若い夫婦の別れを見つめていた凜太郎は、やがて小さく溜め息をつくと、ふいと顔を逸らした。

 仕事は終わった。もうこれ以上できることはない。

 白衣を翻し、僅かに開いたドアの隙間から部屋を出る。真っ白な仕事着を脱ぎ捨て代わりに紺のトレンチコートを羽織れば、そこにいるのは無力な一人の人間だった。

 ぐ、と噛み締めた奥歯が軋む。

 仕事道具の入った鞄に畳んだ白衣を無造作に突っ込んだ。玄関に向かうと、依頼人の父母がいた。

「すぐに事後処理の者が参りますので、それまではどうか、ご遺体はあのままでお願いします」

「わかりました」

「では、失礼します」

 必要なやり取りを済ませ立ち去ろうとしたとき、「あの」と小さな声が聞こえた。踏み出しかけた足を戻して振り返ると依頼人の妻が立っていた。真っ赤に腫らした目元を隠すように、彼女は深々と頭を下げた。

「ありがとうございました、望月先生もちづきせんせい

 震える声で紡がれた言葉に、凜太郎はそっと微笑んで小さな会釈を返した。


 東都一の眠り屋、望月凜太郎もちづきりんたろう


 それが人々に知られる彼の呼び名だった。

 彼の与える眠りは実に穏やかで、薬を打ち込む瞬間も打ち込まれた後も、痛みや苦しさがほとんどない。依頼人やその家族への態度も真摯なもので、それが東都一と呼ばれるようになった所以である。

 凜太郎自身は「こんな仕事に一も百もあるか」と心底嫌そうに吐き捨てるが、泡雪病の患者たちにとってその名前は希望の光も同じだった。

「よっ、りん

 依頼人の家を出て数歩。不意に聞こえた陽気な声につられてそちらに顔を向ければ、ひらひらと片手を降るミルクティー色の頭が見えた。

「……何しにきた」

「ご挨拶だな。顔合わせるの一週間ぶりだってのに」

 不機嫌そうに顔を背ける凜太郎とは反対に、薄い茶髪の青年はカラリとした笑顔を浮かべ凜太郎へと歩み寄った。

 黒のチョッキと同色のスーツパンツが彼によく似合っている。これでネクタイでも締めればもう少し軽い雰囲気も薄れるのに、と凜太郎は青年に会うたびに思っていた。彼にそれを言ったことはないが。

 青年の名前は日笠真火ひかさまほ。眠り屋と依頼人の仲介を仕事とする南雲事務所なぐもじむしょの職員で、あまり人と関わりを持ちたがらない凜太郎にとって親友とも呼べる数少ない人間だった。

「一週間がなんだ。年の数だけ見てきたお前の顔なんざとっくに見飽きてる」

「見飽き……って酷いなおい」

「お前専用の塩対応だ。ありがたく受け取れ」

「いつもより塩三割増しかな?」

 仕事終わりで気が立ってんの、とまとわりついてくる真火に舌打ちで返事をする。怖い怖い、とたいして怖くもなさそうに肩をすくめた真火はこちらに向き直った。そしてすぐに、その整った顔を歪めた。

 凜太郎の唇の端に貼り付いた、小さな絆創膏。

「まーた殴られたのかお前は」

「あ?あー……ほっとけ」

「いやいやそりゃ無理でしょ。俺ら親友じゃん?親友が傷作ってんのよ?ほっとくとかできるわけなくない?お前できる?」

「場合によっちゃできるかもな」

「だから酷いって。一応聞いとくけど、例えば?」

「女絡み」

「あ、それはほっといていいわ。つーかほっとけ」

 べ、と舌を出した真火は、絆創膏の上から切れてしまっているそこを指先で強く押した。

「いってぇな……!」

「いいかげん仕事中は顔隠しなさいよ、お前」

 さっきまでとは打って変わり真火の表情は真剣だった。

 眠り屋は患者とその家族の合意のもと患者を眠らせる。が、合意に関わることのできない家族以外の患者の関係者だっている。眠り屋はそういった人間から恨みを買うことがあるのだ。だからこそ、ほとんどの眠り屋が、仕事中は専用のマスクで顔を隠すのだが……。

 凜太郎はそれをしない。

 理由は単純なもので、依頼人に不信感を与えないため。ただそれだけだった。

「それこそ無理な話だ。殴られようが罵られようが、患者が安心して眠れるならそれでいい」

 真っ直ぐに真火を見返す、夜空を塗り込んだような黒い瞳。真火は癖のある短髪を掻きながらため息を吐いた。

「親友のアドバイスくらい素直に聞けよな。ったく……」

「悪いな。こればっかりは譲れねぇよ」

 小さく笑って見せると、真火は二度目のため息を吐いた。さっきよりも軽いそれは、呆れと、それから微かに尊敬の色を含んでいた。

「ところで、そんな頑固な望月先生にお仕事のご依頼ですよーっと」

「お前その呼び方すんなって……あ?」

 先生という言葉に呼応して眉間へ寄せられた凜太郎の眉は、差し出された白い封筒を見てさらに中心へ寄ることになった。

「いつもの依頼書じゃねぇな」

「政府からだとさ」

 政府。嫌な響きだった。

 政府は、自分たちが作り出した眠り屋という職業を国の汚点のように扱う。時に合法的な殺し屋と呼ばれることもある、彼らが蔑み、忌み嫌う眠り屋へ、彼らから依頼?……まったくもってろくなことではないだろう。

 胸を撫でる仄暗い予感と苛立ちを無視して、真火の手から封筒を乱暴に奪い取ると、凜太郎は確かに受け取ったことを一つ頷くことで示した。

 凜太郎と同じような不安を真火も感じていたのだろう。心配そうな視線を寄越す親友に凜太郎は軽い蹴りをくれてやる。

「いった!なにすんのお前!」

「……なにかあったら連絡する。その時は協力してくれ」

 一瞬の沈黙の後、真火の顔がパッと輝いた。

「もちろん!いつでも連絡してこいよ相棒」

 犬のようにじゃれついてくる成人男性一人を適当にあしらいながら、それよりも、と口を開いた。

「真火、お前な、冗談でも俺を先生なんて呼ぶな」

「んー?」

「何度も言ってんだろうが。俺たちは医者じゃない。眠り屋は、そんな呼び方されるようなもんじゃねぇんだよ」

「あーはいはい。相変わらず潔癖だなぁ、お前は」

 命というものに対してどこまでも誠実で在ろうとする親友に苦笑しながら、真火は自分のよりほんの少し高い位置にあるその肩を叩いた。

「いいじゃん、望月先生」

「蹴り飛ばすぞ脛を」

「おっとわかった、悪かった。だから足構えないで頼むから」

 久しぶりの真火との気安いやり取りのおかげで、すっかり心が緩んだのを感じる。肩に置かれたままだった真火の手を払い落とすと、真火は降参のポーズを取って笑った。

 赤に変わった信号を見て立ち止まる。横断歩道の先に、真火が所属している南雲事務所の建物が見えた。

 レンガ作りのお洒落な外装は前所長の趣味だといつか聞いたことがあった。

「とりあえず渡すもんは渡したし、俺は事務所に戻るけど、お前どうする?」

「俺は……」

 帰る、と言いかけて手の中にある封筒の存在を思い出した。すぐ目の前にある真火の事務所を見る。

 厄介事はさっさと始末してしまおう。

「こいつの確認がしたい。事務所、寄らせてくれ」

「了解」

 カランカラン、と来客を告げる鈴を響かせながらドアを開ける。ただいま帰りましたぁ、と間延びした挨拶に、室内から柔らかな返事が聞こえてきた。

「お帰りなさい……って凜太郎くん?」

 真火の後ろから顔を出した凜太郎に、返事の主が驚いたように声をあげた。

「お邪魔します」

「早急に書類の確認がしたいそうで、場所貸してやってください」

「ああ、政府からのやつね。他の職員はみんな出払ってるから、好きに使ってくれて大丈夫よ。……もしかして始めからこっちに呼んだ方が良かった?」

 緩くウェーブのかかったショートヘアを揺らし、事務所の所長である南雲小花なぐもこはなは申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめんね二人とも。手間かけさせちゃって」

「いや俺は別に」

「俺も。どうせ他の依頼書届けるついでだったんで」

「ふふ、お茶を用意してくるわ。どうぞお掛けになって?」

「お構いなく」

「所長、俺がやりますよ」

「いいから。やらせて頂戴。仕事一段落してて暇なの」

 軽い足取りで給湯室へと姿を消す小花を見送り、凜太郎は勧められた来客用のソファーに腰かけた。真火が自分の仕事机の引き出しから取り出したペーパーナイフを受け取り、封を切って中身を引っ張り出す。すると出てきたのは二枚の書類だった。

 重ねられた書類の、一枚目を目にしたその瞬間、凜太郎は言葉を無くした。

 薄っぺらいその紙に記されていたのは、今日の日付と今から約二時間後の時刻、東都中央病院とうとちゅうおうびょういんという文字、患者と責任者の名前。

「ふざけてやがる……」

 今日中の仕事をなぜ当日に渡すのか。

 南雲事務所はその辺りの調整を怠ったりはしない。恐らく、いや確実に政府側の、ミスか故意かは知らないがとにかくあちらの責任だろう。いや、そこはいい。眠り屋の依頼は急なものがよくある。だからそこは百歩譲って許してやろう。

 そう誰にでもなく呟いた凜太郎は、再度その下の一文を読み直し握り締めた拳をわななかせた。


『極秘事項により詳細は記載できず』


 ふざけてやがる。

 それ以外の感想が出てこなかった。

 二枚目の書類は南雲事務所が必ず用意する、患者の詳しいプロフィールと責任者の印鑑が押されているもの。これも一枚目同様に、本当に必要最低限の情報のみ書き込まれ、無機質な朱色の印が押されているだけだった。

「ごめんなさい。きちんと全部の項目を患者さんご本人に書いて貰うよう言ったんだけど……時間がない、機密事項だ、の一点張りで」

 いつの間にか戻ってきた小花は、髪をくしゃくしゃにしながら項垂れる凜太郎の前に、ティーカップを置いた。

「しかもお前じゃないとダメだって言うもんだから、俺らも対応に困ったんだわ」

「悪い……」

「いやいや凜のせいじゃないから。向こうが悪いから全面的に」

 凜太郎の謝罪の言葉に首を横に振り、真火は続けた。

「ただ、あちらさんもお仕事だからさ。俺らもプロとして依頼人の要望にはできるだけ応えようと思ったわけですよ?もちろん、受けるか受けないかはお前が自分で決めていいからな」

「こっちのことは気にしないでね」

 親指を立てる真火と小花に苦笑した。

 二枚の書類を封筒に入れ直す。手に取ったティーカップを口元に運びながら、さっきまでの動揺を思わせない、いつも通りの淡々とした口調で凜太郎は言った。

「受けるよ。事情は知らないが、患者がいるなら俺に迷う理由なんてない」

「お前はそう言うと思ったよ」

 柑橘系の爽やかな香りが鼻を擽り、茶褐色の透き通った液体が喉を滑り落ちていく。種類や味の違いはよくわからないが、凜太郎はここで飲む紅茶が好きだった。

「そういえば」

 同じように紅茶を啜っていた真火が言う。

「凜が前に言ってた噂、どうも真相が判明したみてぇよ?」

「噂?」

「泡雪病を治す薬のウワサ」

「ああ……」

 あれか、と凜太郎はうんざりした様子で呟いた。

 一ヶ月ほど前に、ネット上で出回った『泡雪病を治す薬がある』という噂。数人の依頼人から溢されたその噂を下らないと突っぱねることができず、いろいろと調べたおかげで噂そのものはよく知っている。具体的な情報は何も手に入らなかったため、凜太郎にとっては骨折り損のくたびれ儲けな記憶として残っているものだった。

「なんとかって宗教団体が関わってたらしくてさ」

「あからさまに胡散臭ぇ」

「うん。で、その宗教団体、その噂をいいように使って金儲けしてたみたいで。質悪いのなんの」

「……は、とんだインチキ宗教だな」

 ふつふつと腹の底から沸き上がる怒り。

 病気を治したい。患者や周囲の人間の、切実な思いを、金儲けに利用するなんて許されることではない。

 憤怒の念を一度の溜め息に込めて吐き出す。

 空になったティーカップを机に置いて、凜太郎は立ち上がった。政府の呼び出しに応じるためには、そろそろ行かなければならない。

「もう行くか?」

「ああ。すみせん小花さん、お邪魔しました」

「いいえ、こちらこそ。いつも依頼受けてくれてありがとね」

 真火と小花に挨拶をして、玄関まで向かう。

 履き心地の良いスリッパから、ごつごつとしたミリタリーブーツに履き替えてドアを開けた。

「また仕事入ったら頼むぜ、凜」

 真火の言葉に手を振って応え、足を踏み出した。




***




 こつ、こつ、と黒いブーツの足音が小さく反響する。

 東都中央病院。政府から指定されたこの病院は、この街で一番大きく、セキュリティもしっかりしている。有名人や政府の要人が利用する病院でもある。

「密会には丁度いいってか」

 は、と嘲るような吐息を洩らした凜太郎は、ゆっくりと辺りを見回した。

 あの形ばかりの書類に記されていたのは、病院名と時刻だけ。詳しい集合場所は指定されていない。今は約束の時間の十分ほど前だ。

 ここからどこに行くべきか、と一瞬の逡巡の後、凜太郎は一番端の窓口へ向かった。

「お見舞いですか?」

「依頼を受けたんですが」

 書類の政府の印鑑が押されている部分と、自分の名刺を見せる。柔和な笑みを浮かべていた受付の女は、僅かに目を見開いた。

「……失礼しました。少々お待ち下さい」

 すぐに対応できたあたりを見ると、どうやらこのやり方で合っていたらしい。

「すぐに責任者が参ります」

「どうも」

 短いやり取りの後、窓口の近くに設置された長椅子へと腰を下ろして待つこと約十五分。

 つまり指定された時間の五分後、姿を見せたのはスーツ姿の若い男だった。凜太郎と同じか、下手をすればそれより若いのではないかと思うほどだ。端的に言ってしまえば童顔だった。

「望月凜太郎さんですね」

 張りのある少し高めの声が、若いという印象に拍車をかける。

「お待たせしてしまって申し訳ありません。責任者のわたりと申します」

「望月です」

 渡は綺麗なお辞儀を一つしてから、こちらへどうぞ、と凜太郎を先導して歩きだした。

 その後ろをついて歩きながら凜太郎は蓄積された苛立ちのやり場に困っていた。

 ここに来る前に真火から聞いた胸糞悪い話、政府と関わらなければならない現状、十五分間の待ち時間、それから……数えだしたらキリがない。こんな時は何を考えてもストレスにしかならないのだから、もう止めよう。

 ふう、と吐いたのは今日何度目かわからない溜め息。

 それをどう受け止めたのか、今一番のストレスそのものである渡が口を開いた。

「いろいろと不躾なやり方をしてしまって、本当に申し訳ありません。少々強引だったので、もしかしたら来て頂けないのではないかと……」

「御託はいりません」

 思わず飛び出したのは取り繕えなかった本音。そしてもう、繕い直すつもりもなかった。

「さっさとこの書類に書かれていない、機密事項とかいうやつを話してもらえませんか」

 渡の丁寧な言葉を切って捨て、顔の高さまで持ち上げた封筒を反対の手で弾いて見せる。

 ぴくり、と一瞬引き吊った頬が、渡の感じた屈辱を伝えてくる。大方、大嫌いな眠り屋に気遣いを無下にされたことを腹立たしく思っているのだろう。エリート様が殊勝ぶってんじゃねぇ、と心のなかで舌を出し簡単に煽られてくれた渡のその様子に、凜太郎のどん底だった気分はほんの少しだけ浮上した。

「外部に洩らせば厳重処罰が課せられること。それから、詳細を知った後では依頼を拒否することはできないということを、ご理解頂けますか」

 神経質そうに眼鏡のブリッジを押し上げる渡の言葉には、明らかに仕返しの色が滲んでいた。

 凜太郎は静かに顎を引き、目の前に立つ男のレンズ越しに見えるその瞳を見つめた。

「今回の依頼、南雲事務所の仲介がなければ、例え政府の指示であったとしてもここへは来なかったでしょう。そのことを、ご理解頂けますか」

 語尾をわざとらしく強調する。

 半分は八つ当たりだ。自覚はあったがここまで来て引き下がれるほどできた人間でもないし、もともと自分も煽り耐性はゼロに近いのだから仕方がない。

 頭の中で言い訳を組み立てながら、凜太郎は相手を睨みつけた。

「……肝に命じておきます」

「そうしてください」

 すぐ横にあった部屋のドアノブへ手をかけた渡のその台詞に凜太郎は頷くだけでとどまった。

 目を逸らした相手にこれ以上噛みつくつもりはない。ここに真火が居たならば「お前は獣か」とチョップの一つでも寄越してきたことだろう。

 渡が入っていった部屋の中央には、シンプルな丸テーブルと、同じデザインの椅子が二つあり、凜太郎がそこへ腰かけると同時に渡は口を開いた。

「患者の名前は神代かみしろみこ。望月さんには、明日から不定期間、彼女の監視をお願いしたいのです」

「は?」

 凜太郎はそのとき何の裏もない間抜け面を渡に晒した。

 かんし。かんしって監視か。監視と言ったか、このエリート様は。

 混乱する思考を置いて、凜太郎の口はほとんど反射で言葉を紡いだ。

「俺は眠り屋です。眠りを求める患者にそれを与えるのが仕事だ。監視だなんて……意味がわからない」

 動揺する凜太郎に、渡は目を伏せた。そして次に凜太郎が求めていた答えとは違うことを口にした。

「望月さんは泡雪病の薬の噂をご存知ですか」

 それはつい先ほど真火と話していたものだ。

 相手の真意が見えないまま、凜太郎は首を縦に振った。

「そりゃあ、まあ、この仕事をしていれば嫌でも耳に入る噂ですけど……まさか本当にそんなものがあるんですか」

「ありません。少なくとも今はまだ」

「今は、まだ」

「ええ。火のない所に煙は立たないと言います。噂が立った原因が、彼女にあったんです」

「宗教団体ではなく?」

「……驚いた。よくご存知ですね」

 大きな瞳が一層開かれた様子から、彼が本当に驚いているのだとわかった。

「あの噂の発生源は宗教団体『春の陽』《はるのひ》です。『春の陽』は巧妙に自分達の存在を噂の影に隠していましたから、政府からの情報公開の制限がかかっている今現在、知っている人間はかなり少ないはずなんですが」

「友人が情報通なもので」

 怪しむような視線を向ける渡に適当な返事をしながら、凜太郎は顎を撫でた。

 『春の陽』。聞いたことがある宗教だった。

 最近になってよく耳にするようになったと思ったら、まさかあの噂の源だったとは。自分が調べたときに全くそんな情報は出てこなかったが、どうやら相当上手く隠していたらしい。

「話を続けます。神代みこは、母子感染により感染した先天的な泡雪病患者です。普通なら産まれてくることもなく死んでしまうはずなのに、彼女は無事に産まれ、そして十八年もの間息長らえている。『春の陽』は、そんな彼女を生き神として祭り上げていました。そして、それと同時に彼女の血液を薬と呼び、信者たちにばらまいていた」

「血液が、薬……?」

「教団関係者の話によると、どうやら彼女の体内には泡雪病への抗体が、僅かですが、あるそうです。それを利用しようとした……けれど専門知識も技術もなかったものだから、血液をそのまま配ることにしたと言っていました」

「待ってください」

 自分の声が情けないほどに震えていることに、凜太郎は気づいていた。

「そいつらは、あの病気が体液から感染することを知らなかったんですか?」

「いいえ」

「ウイルスも多分に含まれているのに血液を配っていたと?そんな血液をそのまま投与したところで、抗体としての働きなんて作用するわけがないのに!」

「仰る通りです。血液を投与された患者のほとんどが病状を悪化させ、近くにいる他の人間へと感染を広げました」

「バカな真似を……!」

 脳が痺れるほどの恐怖と、そして怒り。

 興奮のあまり浮きかけていた腰を荒々しく椅子に沈め直し、凜太郎は限界まで絞った声で叫んだ。

 今日は怒ってばかりだな、とそんなどうでもいいことを考えて逃避してしまうくらい、この話を現実のものとして受け入れたくないと強く思った。

 いったいその"薬"とやらで何人が犠牲になったのだろうか。騙された人々を自業自得だと切り捨てるには、凜太郎は泡雪病患者やその家族たちの心を知りすぎていた。

「教団は、あの手この手を使って誤魔化しながら、噂と彼女の血液を資金集めに利用しました。それを十年以上も続けていたわけです。……彼女の出生届が出されていなかったために、我々がその存在に気付くのが遅れてしまった。それが今の状況を生んでしまった」

 脱力するしかなかった。背凭れに体を預け、視線をさまよわせる。この数十分間で詰め込まれた情報の多さに目眩がしそうだった。

「患者の事情はわかりました」

 だが、まだ聞かなければならないことがある。機密事項はよく理解したが、依頼内容の意味が理解できていない。

「あんたがたは、その、みこという患者の体内にある抗体を研究したいんですよね。本当の薬を作るために」

「はい。我々はワクチンを作り、泡雪病に怯え、苦しむ人々を救わなければなりません」

「ならどうしてわざわざ俺に監視を任せる必要があるんです。ここは研究設備も、セキュリティもしっかりしてる。監視なんてあんたら政府の人間がすればいい。俺を必要とする理由がないだろ」

 興奮したり少し長く喋ったりするとすぐに抜けてしまう敬語。渡はそれを気にした風もなく「最もな意見です」と頷いた。けれど続きの言葉は聞こえてこない。

 言い澱んでいるのだと気付くのに数秒かかった。

 どこか機械のような調子で話をしていた渡がこのとき初めて崩れた。

「彼女は死ぬことを望んでいます」

 心臓を冷たい何かに掴まれた気がした。

「拘束しておかなければ酷く暴れる。そんな彼女があなたの名前を口にしました。あなたを呼べと、そうすれば大人しくすると」

「俺を?……どうして」

「あなたが"東都一の眠り屋"だから、だと思います」

 ぐう、と凜太郎の唇がへの字に曲がった。歯を食い縛って目を細めた彼は、浅い呼吸を繰り返している。

 東都一という肩書きが、どんな希望を少女に懐かせたのだろう。凜太郎にできることは、政府が彼女にしようとしたことと何も変わらないというのに。

 黙りこんでしまった凜太郎に、渡は必死で訴えた。

「ワクチンが出来るまで彼女を生かして欲しい。そして出来上がったときに、彼女が望む通りに眠らせて欲しい。身勝手だということは重々承知しています。それでもどうか……」

 振りかざしているのは理不尽な大人の理屈だ。それでも立ち上がって深々と腰を折る渡の姿は、凜太郎の嫌う政府の人間とは少し違って見えた。

 渡が正面から少女と少女を取り巻く問題に向き合っているならば、今まで多くの泡雪病患者を眠らせてきた自分が逃げるわけにはいかないだろう。そもそも、退路は初めから断たれているのだからどのみち逃げ場はない訳だが。

 凜太郎は椅子を引いて立ち上がった。コートを脱ぎ、鞄から取り出した白衣を羽織る。

「患者に会わせてください」

 勢いよく顔を上げて固まった渡を急かしながら、さっさと部屋を出る。病室を尋ねれば、彼はずり落ちた眼鏡を直して歩きだした。

 油の切れたブリキ男のようにぎこちなく、確認するように何度もこちらをふりかえる渡。その様子に、凜太郎は彼への認識を改めることにした。

「あんた、いかにもエリート様って感じなのに、どっかポンコツ臭もするな」

「……失礼ですね」

「俺が断ると思ってたんですか」

「と言うよりか、部屋には入る前の会話で無理だろうなと思ったんですよ……あなた、こちらに敵意しかないから」

「気が立ってたもんでな。悪かった」

「そうですか。まあ、私もすぐ頭に血が昇ってしまうので、お互い様ということで……っと、ここです」

 地下へ降り、長い廊下を歩いたその突き当たり。ロックのかかった自動ドアにパスワードを打ち込む渡。ドアの両側には警備員も立っている。厳重な警備は少女を守っているのか、少女から守っているのか。はたまたその両方か。

「彼女は末期の泡雪病患者の、人を襲うあの症状を発作的に引き起こします。大丈夫だとは思いますが、気をつけてください」

 重々しく開かれたドアをくぐりさらに奥にあるドアへ向かう。今度のそれはカードキーをかざすと簡単に開いた。

 ゆっくりと開いたドアの隙間から青白い病室が見えた、瞬間。凜太郎の顔の横を白い物体が勢いよく通り抜けた。突然耳元に吹き抜けた不自然な風に、凜太郎はぱちくりと目を瞬かせた。

 ぼすん、と鈍い音をたてて壁にぶち当たりそのまま落下したのは、枕だった。

「あれっ」

 高く、低く、鈴がなるような、不思議な声が凜太郎の耳を打った。

 病室に備え付けられたベッドのそば。入院服を着た腰まである黒髪を乱れさせた少女が、今まさに物を投げましたと言わんばかりのポーズで静止していた。

 長い前髪に隠れた石榴のようにきらきらと光る赤い瞳がきょとん、と丸まる。

「あんたが眠り屋さん?」

 凜太郎に向かって投げられた彼女の第一声は、色の薄い小さな唇から飛び出てきたとは思えないほど生意気な響きを持っていた。ぺたぺたと裸足でこちらに近づきながら、少女はごめんね、と全く反省していない様子で言った。

「またよくわかんないスーツのやつらが、よくわかんない話でもしに来たのかと思って、つい」

 枕は彼女が投げたものらしい。

 聞いていた話と一ミリも被らない患者の様子に、騙されたのか思ったが渡の動揺にまみれた目を見ると、どうやらそういうわけでもないようだった。

 呆気に取られている大人二人を気にすることなく少女は続けた。

「あたし、みこ。大好きな人から貰った大事な名前だから丁寧に呼んで」

「わ、かった」

「あんたは望月凜太郎で合ってる?なんて呼べばいい?」

「……好きに呼べ」

「ふーん。あっそう」

 みこは、凜太郎の返事を聞いて面白くなさそうにそう呟いた。

 凜太郎は素早くとみこの全身へ目を走らせた。

 首や肩周り、腕、足が不健康に細く肌が白い。蛍光灯の光の加減も手伝っていっそ青く見える。乱れた黒髪はぱさついていて、傷んでいるようだ。一房、二房、三房……と、所々ある白く染まった部分が彼女を蝕む病の存在を示している。紛れもない泡雪病患者だ。

 だが目に見えてわかるのはそれくらいだろうか。あとは食欲と、睡眠時間と、それから。

「あたしがただの患者じゃないって、聞いた?」

 再び聞こえたみこの声が思考に沈んでいた意識を引き戻した。

「一応な。お前のことは機密情報なんだとよ。おかげで俺はこの仕事から降りられなくなった」

「かわいそう!」

 肩をすくめて見せると、みこはからころと笑い声をたてた。

 ふと、彼女の髪に意識が取られる。正確には髪に付いた何かに。よく見るとそれはピンだった。ニコちゃんマークの付いた安っぽいピンク色のピン。入院服に裸足の足に乱れた髪と、自分の見た目を一切気にしていないような彼女の容姿の中で、そこは特別不自然に映った。

 凜太郎の視線に気付いているのかいないのか、みこは無邪気に歯を見せて笑った。

「あたしが泡雪病のウイルスを振り撒いてるの」

 どくん、と心臓の鼓動が聞こえた気がした。

「お前が振り撒いてるわけじゃない」

「"薬"のあれはね。確かにあたしのせいじゃない。でもさ、あたしの中にいるウイルスは他のウイルスより感染力が強いんだよ。あたしの発作の話聞いたんでしょ」

「……ああ」

「危ないんだよぉ、あたし」

 両手のひらをこちらに向けてひらひらと振って見せる。まるで挑発するように、みこはそのままゆっくりと首を傾げた。

「ねえ、眠らせてくれる?」

 こちらを見つめる珍しい色の瞳を見返しながら凜太郎は思った。

 わざとらしい。

 生意気な喋り方も、不遜な態度も、完璧なまでの笑顔も、全てわざとらしく見える。だが嘘ではない。難しい患者だ。

 ふう、と小さく息をついて、凜太郎はみこを真似て首を傾げて見せた。

「責任者さまの許可が下りたら、いつでもな」

「……まだだめ?」

「申し訳ないけど、許可できませんね」

「だろうね!」

 渡の返答に、ぶーっと頬を膨らませたみこは勢いよくベッドに飛び込んだ。

「早くワクチン完成させて、とっとと眠らせてよ!」

 ベッドの上で枕を叩くみこに、凜太郎は思わず眉を潜めた。

「お前、"眠る"って言葉の意味本当にわかってんのか」

「死ぬってことでしょ?」

 みこはあっさりとそう言ってのけた。

 そのことが、ナイフで肉を抉るような痛みを凜太郎に与える。

「……軽く言ってんじゃねぇよ」

「なんで」

「それがわからねぇうちは軽く言うな。死にたいなんて、そんなこと」

 低く唸った凜太郎を見て、みこはベッドの上で体を起こした。

「……"眠る"って、ぼかして言わないんだね」

 ぽつりと落ちたその声は、とても静かだった。

 それから細く長い息を吐き出してみこは言った。

「十八年」

「あ?」

「あたしが産まれて、生きてきた年数。十八年。あと一ヶ月したら十九年になる」

「それがなんだ」

「十分だと思うわけ」

「……は?」

「普通だったら感染して数年で死んじゃうような病気に、産まれたときからかかってて、それでもこの歳まで生きれたんだから」

「ふざけんな。それは……それは、違うだろ」

「違わないよ」

 力のない笑顔だった。子供とは言えない年齢。けれど大人と呼ぶにはあまりに幼く無邪気な言動の彼女には似合わない笑顔。

「生きてちゃ、って言うか産まれてきちゃいけなかったんだと思う。あたしはたぶん、本当は」

「やめろ」

 そんな風に、存在そのものを否定されなければならない人間なんて居ない。居ていいはずがない。

「だからさ」

 高く、低く、鈴が鳴るように声が響く。

 みこは、赤い瞳を三日月の形に曲げ、唇の端を美しく持ち上げて微笑んだ。


「東都一の眠り屋さん。お願い、あたしを眠らせて」

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