9 狙った獲物、少し先の未来

 ――アカネはどこへ消えたのか


 表紙にでかでかと踊るその文字に、遼は普段は読まない週刊誌を手に取った。大学の売店に週刊誌があることをその時初めて知った。ページを捲ると、アカネがこれまでに盗んだとされる数々の宝物の写真とともに、その手口や履歴が記されていた。


 アカネによる最初の窃盗事件が発生したのは、七年前の六月だった。彼らは、民家の茶の間に飾られていた九谷焼の皿を白昼堂々盗み出した。「アカネ」の名は、この時皿が飾ってあった場所に残された紙切れにそう書かれていたことから知られることとなった。それ以降、断続的に犯行が行われ、三年前までは、長くとも三カ月と開けずに盗難が発生した。中には二日続けて別々の美術館から、ゴッホとゴーギャンが盗まれたこともあった。翌年になるとめっきりと回数が減り、最後の事件とされているのが去年の暮れ。湯ヶ島温泉にある老舗の旅館から、川端康成が寄贈した「伊豆の踊子」の原稿が盗まれたのを最後に、アカネの名を報道で聞くことはなくなった。


 遼は、記事の中のある一文に目を留めた。


 ――アカネが狙った獲物を逃したことは、ただの一度もない


 そこで本棚の向こうのガラスが二度ノックされた。視線を上げた先にTシャツにジーンズ姿の絵里奈がいた。何やら口を動かしているが、もちろん声は届かないので何を言っているかはわからない。遼はしばらく解読しようと努めたが、遼が読唇術を習得するよりも先に絵里奈が痺れを切らして売店の中に入ってきた。


「何て言ったんだ?」

「何も言ってないわ。口を動かしただけ」

「紛らわしいな」

「冗談よ。『おなかが空いたから、ご飯を食べに行きましょう』って言った」

「いったい何ご飯だよ?」

 遼は、十六時半を指している腕時計の文字盤を見ながら言った。


 二人は、そもそも数えるほどしか飲食店がない寂れた駅前で、一軒だけ開いていたハワイアンのお店に入った。

「腕時計はお父さんにあげたのか?」

 ブルームーンで乾杯をすると、遼が言った。窓の向こうを駅へと向かう学生の集団が通り過ぎる。

「昨日あげたわ。盗んだとも知らないで喜んでた」

「父親想いだな」

 遼はふと思い立って尋ねた。「そう言えば、君のお父さんは何をしてるんだ?」

「職業っていう意味?」

「そう」

「家具の仕事」

「お母さんは?」

 絵里奈は少し考えてから、「家具に関係する仕事」と言った。絵里奈の家は家具屋なのだろうと遼は想像した。

「私のお父さんは日本人で、お母さんは南アメリカの小さな村の出身なの」

 そこにロコモコとハンバーガーが運ばれてきた。


「私たちって、結構いいパートナーだと思うわ」

 自分が注文したハンバーガーよりも先にロコモコを断りなく口に運びながら、絵里奈が言った。どうやら先ほどの会話に続きはないようだった。

「と言うと?」

「もっと高くて大きい物でも盗めると思うの」

「例えば?」

「車とか。外国のうんと高いのがいいわ」

「アウディとか?」

「いいわね。聞くからに高そう」

 あまり聞きなれない日本語を、絵里奈はさも当然のように言った。


 それから二人ともが食事を終える前での間、何は盗めて何は盗めないかという話に終始した。最終的に、車のジャガーは盗めても本物のジャガーは盗めないし、フェラーリは盗めても馬は盗めないので、動物よりは車の方が現実的だという結論に落ち着いた。

 会計をしていると、店員が「僕はランボルギーニに乗ってみたいんです」と言ってきた。どうやら二人のことを車好きの大学生と考えたようだった。

「ランボルギーニは何の動物?」

「確か、牛だ。猛牛」

「無理ね」と絵里奈が言った。


「私たちが卒業して、何年か経って会うとするじゃない?」

 ホームで電車を待っていると絵里奈は言った。

「俺が卒業して、ね。君は学校に通ってないから、卒業はしない」

「あなたが卒業して、何年か経って会うとするじゃない?」と絵里奈は律義に言い直す。「しばらくぶりに会うことがあれば、その時は今までに盗んだことがないようなとびっきりのお宝を盗んでみたいわね」

「まるで、俺たちの関係は卒業したら途切れるみたいだ。いいパートナーなのに」

「もしもの話よ。もちろん、死ぬまで二人で伊勢丹から時計を盗んでるかもしれない」

「盗み続ける俺たちもどうかと思うけど、盗まれ続ける伊勢丹もどうかと思う」


 そこに、夕日を浴びて橙色に染まった四両編成の短い電車が到着した。ドアが開き、遼が足を踏み入れる。乗降客の少ない駅には、すぐに出発を告げるアナウンスが流れる。振り向いた遼は、絵里奈がまだホームにいることに気づいた。

「え、乗らないの?」

「私の家は反対なのよ」と言いながら、絵里奈は電車越しに反対のホームを顎でしゃくった。

「そうなんだ」

「またね」


 絵里奈の言葉を掻き消すように、音をたててドアが閉まる。短く手を振った絵里奈は、電車が発車するよりも先にその場を後にした。徐々に遠ざかる背中を見ながら、遼は少し先の自分の未来に思いを馳せた。果たしてそこに絵里奈はいるのだろうか。

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