10 絵里奈の過去、父親の日記
「君に話しておきたいことがある」
そう言っておきながら、三國は何も語ろうとはしなかった。腕を組み、口元を固く結びとまぶたを閉じた。そのまま一眠りしようとしているみたいだった。おそらく彼は何かを待っているのだ。遼はそう思い、その何かを待った。
しばらくすると三國は目を開け、前かがみになってテーブルに肘をついた。
「私は絵里奈の父親ではない」
まるでそれが不吉な呪文であるかのように、一際ゆっくりと低い声で言った。
「ゲームはまだ続いてるんですか?」
「そうじゃない。私は絵里奈の父親だが、血は繋がっていない」
「育ての親っていうことですか?」
「そうなる」
「じゃあ本当のお父さんは?」
「絵里奈が小さい頃に事故で死んでる。母親もだ」
「交通事故ですか?」
「交通事故。まあ、そう言えるのかもしれん」
はっきりしない物言いだった。
「順を追って話そう」
「絵里奈は南アメリカのとある小さな村で生まれた。本当の名はエレノアだ」
「エレノア?」
「あぁ。君は絵里奈の生い立ちをどういうふうに聞いていた?」
「父親が日本人で、つまりあなたで、母親が南アメリカのどこかの国の出身だと。二人とも家具に関する仕事をしている。むこうで生まれて僕らが出会う数年前に日本に越してきた。今は川崎のバーで働いている。僕が知っているのはそれだけです」
最後のバーのくだりは生い立ちではないな、言ってから遼は思った。
こうして言葉にしてみると、自分が絵里奈のことをあまり知らないことに遼は気づかされた。大学時代は、図書館で何度も見かけた彼女とちょっとしたことがきっかけで話すようになったが、お互いの過去については話題にしなかった。今思えば、無意識のうちに避けていたのだと思う。卒業してからは、つい先日絵里奈が連絡を寄越すまで、お互いの近況を知ることはなかった。
三國は小さく唸ると、ビールを勢いよく呷った。
「前半は嘘だ。エレノアの父親は確かに日本人だが、私ではない。彼は優秀な家具職人だった。一般的にはあまり知られていなかったが、日本にいた二十代半ばにして、職人やバイヤーの間ではすでに世界的にも著名な人物だった。だが、彼はそれに甘んじることなく、新たな挑戦の地を求めて南米へと渡った。日本とは全く気候の異なる南米の地に生息する木々は、彼にとって非常に魅力的に映ったのだろう。新たな素材を使った新たな家具作りに、彼は没頭した。いつかは日本に戻るつもりで海を渡ったはずが、気がつけばベネズエラを離れられなくなっていた。やがて、彼はある女性と結婚し、二人の娘を授かった」
「二人?」
「あぁ。エレノアには五つ歳が離れたマルティナという姉がいる」
「マルティナ……彼女は今どこに?」
「ニューヨークだ」
三國はきっぱりと答え、ビールを口に運んだ。一つ大きく息を吐いて、再び続ける。
「彼が住処と定めたエレノアの故郷は、荒涼とした赤土の大地と豊かな熱帯雨林とが共存する、ギアナ高地に程近い小さな村だった。そんな場所でも、少なくない数のバイヤーが彼の作品を求めて彼のもとを訪れた。私もその一人だ」
「バイヤーなんですか?」
三國はゆっくりと頷いた。
「今はもう引退したがな。十年ほど前に私はその村を訪れた。見つけるのに丸一日かかったよ。そして私が辿り着いた時、残念なことに彼はすでにこの世にいなかった」
遼は少し迷ってから、気になっていたことを尋ねた。
「なぜ亡くなったんですか?」
「飛行機事故だ。私がその村に行く三年前に、村の近くの林にブラジルの旅客機が墜落する事故があった。乗客乗員全員が命を落とした悲惨な事故だったが、あの時二人の現地人が巻き込まれて亡くなった」
「巻き込まれて?」
「あぁ。エレノアの両親はその飛行機に乗っていたわけじゃない。残念ながら、彼らは他の多くのベネズエラ人と同じように、飛行機に乗って旅行ができるほど裕福ではなかった。彼らは飛行機が墜落したその林にいたんだ。おそらくは家具に使う木材を伐採にでも行っていたのだろう。あまりに不運な死だった」
遼はこの広い地球上で自らの上に飛行機が墜落する不幸に考えを巡らせた。三國が言うように、あまりに不運な確率だっただろう。
「両親が亡くなった後、しばらくの間エレノアは姉と二人で暮らしていた。だがある日、一つの転機が訪れた。一人の白人男性がエレノアと姉の働くバーに現れたのだ。それが、ジョン・ジュエルという男だった」
「ちょっと待ってください」
その名前に遼は虚を突かれた。「ジョン・ジュエルですって?」
三國は黙って頷いた。
「あぁ。君たちが狙っている、あの宝石の持ち主だ」
「じゃあ、絵里奈はジュエルと面識があるんですか?」
「彼女が覚えているかどうかはわからない。だが、彼女があの男と会ったことがあるか、という意味なら、答えはイエスだ」
「どうして……」
「君はあの宝石の出処を知っているかい?」
「いいえ。色々当たってはみたんですが、結局何も」
「そうだろう。あの宝石に関する資料はほとんどない。だが、全くないわけではない。私が知る限り、少なくとも一冊の本がある」
そこで三國は遼の目をじっと見据えた。「エレノアの父親の日記だ」
「日記?」
少し赤く充血した眼に、遼はわからないと訴えた。
「あの宝石は、もともとエレノアたちのものだった」
三國は飲み物をビールから紹興酒に変えた。遼にも勧めたが、強い酒は口に合わないのでと断った。代わりにビールを追加する。一体何杯目だったが思いだそうと思ったが、大して意味のあることとも思えなかったので止めた。
「エレノアたちのものだったというのは、どういう意味ですか?」
わざとそうしているのか、それとも何かがそうさせているのか、なかなか先を話そうとしない三國に堪りかねて、遼は先を促した。
「言葉のとおりだよ」
ここでも少しの間が空く。「君は『ホープ』という宝石を知っているか?」
「『呪いの宝石』ですよね? マリー・アントワネットも所有したという」
「ほう。よく知っているな」
「今回の仕事のために調べたんですよ」
不意に三國の視線が鋭さを増した気がした。遼の言葉の中にあるべき嘘を見極めるような視線だった。もちろん嘘などない。
「今回の件と『ホープ』に何か関係があると?」
「いえ、『ジュエル』に関する情報がなったんで、参考までに調べてみただけです」
「随分と念入りだな」
「慎重で退屈な性格なんです」
「その慎重さも、あながち無駄ではなかったわけだ」
「というと?」
「アントワネットよりも前の時代、『ホープ』をフランス王室に招き入れたのはルイ十四世その人だった。彼はもともと百カラット以上あったその石にカッティングを施し、七十カラット足らずにした」
ルイ十四世がカッティングを施したことはすでに知っていた。そのことに関する、ある噂も。
「そのことがある噂を生む」とはたして三國は口にする。「つまり……」
「『ホープ』はもう一つある」と遼が後を譲り受けた。「まさか、それが?」
三國が大きく頷く。
「あぁ。『ジュエル』は、『
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