6 父親の気持ち、命の灯火

 涙が枯れると、エレノアはゆっくりと立ち上がった。ズボンに付いた土を札束を握りしめた手で静かに払う。大地を覆っていた朝霧は、すでに跡形もなく消え去っていた。

 姉と二人で来た道を、エレノアは一人で戻った。その頼りない足取りはやがて確かなものになり、気づけば走り出していた。走らずにはいられなかった。走っているうちに、枯れたはずの涙が再びこぼれた。



 両親が亡くなった夜、エレノアは父親の工房にいた。それまで、父親の仕事場に足を踏み入れたことはほとんどなかった。作りかけの家具を眺めながら、エレノアは父親がいったいどんな気持ちでそれを作っていたのだろうと想像した。父親は幸せだったのだろうか。自分が手に入れた生活に満足していたのだろうか。

 母親は時折幸せそうな笑みを浮かべていた。だが、父親が笑ったところを、エレノアはあまり見たことがなかった。同じ屋根の下に暮らしながら、エレノアにとって父親は遠い存在だった。工房の中に散らばった木片や何に使うかもわからない道具を一つ一つ手に取りながら、エレノアはそこに込められた父親の感情を読み取ろうとした。不思議と悲しみはなかった。


 天井から吊るされたランタンのオイルが切れかけた頃、エレノアは部屋の隅に置かれた縦長の木箱に気がついた。どうやらウィスキーのボトルを入れる物らしかったが、父親は下戸だったし、何より木箱に入れられたウィスキーを買うような金銭的余裕があるはずはなかった。不審に思いながら箱を開けると、そこには木製の台座とその上に置かれた青い石のようなものがあった。エレノアは指でそれを摘まむと、ランタンの揺れる光に透かした。人工的な直線で切り出されたその石は、光をわずかに反射し、あるいは透過し、複雑に青の濃淡を浮かび上がらせていた。


 どのくらいの間、その不思議な輝きに心を奪われていただろうか。部屋の中が徐々に暗くなり始めた。エレノアは少し迷った後、輝きを失い始めた青い石を台座の上に戻し、そっと木箱の蓋を閉じた。やがて命の灯火が消えるようにランタンが闇に沈んだのを合図に、エレノアは父親の工房を後にした。



 エレノアは、上がった息のまま家の中に駆け込んだ。もともと多くはなかった姉の荷物は、何一つ残されていなかった。エレノアはくしゃくしゃになった札束をすべてテーブルの上に置くと、少しだけ物寂しくなった部屋を通り抜け、父親の工房へと向かった。あの夜よりも幾分荒れた部屋の片隅に、やはりあの木箱はなかった。


 それから丸二日掛けて、エレノアは父親の工房を片付けた。何かしていなければ、答えのない思考に飲み込まれてしまいそうだった。床に散乱した木片を集め、父親の作品を棚に並べ、使い方のわからない道具を道具箱にしまった。部屋が片付いていくにつれ、エレノアの心はいくつもの分類できない感情に掻き乱された。


 一人になったエレノアの生活も、やはり姉と二人だった時と大きくは変わらなかった。日が暮れるといつもの酒場に行き、夜な夜な酔っ払った客に酒を注いだ。変わったことと言えば、作る酒の種類が増えたことと、隣に姉がいなくなったことと、姉を目当てに来る客がいなくなったことくらいだった。


 姉から渡された金には一切手を付けることなく、三年近い月日が流れた。エレノアは、自分の入れた酒の代金と忘れたころに訪れるバイヤーに父親の遺作を売って得た金で、不自由なく生活を送れるようになっていた。強くなったものだと、十八歳になったエレノアは自嘲した。


 ある日、やはり忘れたころに一人のバイヤーがエレノアのもとを訪れた。その男はエレノアの父親がすでにこの世にはいないことを知り、ひどくショックを受けたようだった。工房に残された父親の作品を一通り見ると、男は「自分は君のお父さんと同じ日本人だ」と言った。そのことに蚊の涙ほどの感慨も抱かなかったエレノアは、男が自分に有利な条件を引き出そうとしてるのだと思い相手にしなかった。だが、不思議なことに、それ以降男が仕事の話をすることは一度もなかった。

 その代わり、男はエレノアの目を優しく見つめると言った。

「私と一緒に来ないか?」


 その言葉に、人を信じることを諦めかけていたエレノアの心は、風に吹かれる最後の一葉のように揺れた。

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