7 名前の重要性、二つの疑問

 遼が思っていた以上に早く、その日は訪れた。

 午後を有休にしてランドマークタワーの下見をしていると、携帯電話が鳴った。絵里奈だった。「今、どこ?」と訊いてくる絵里奈に居場所を伝える。

「あなたも横浜なんかで買い物するのね?」

 平然と言う絵里奈に遼は閉口した。

「冗談よ。あなたが勤勉な日本人で私は感謝してる」

「前から訊こうと思ってたんだけど、俺と君との役割分担ってどうなってるんだろう?」

「私が『運』担当で、あなたがその他諸々でしょう?」

 絵里奈は、何をいまさらといった趣で答える。遼は返す言葉を考えたが、どうしても浮かばなかった。その間に絵里奈は要件に入る。

「ちょうどよかったわ。今日の夜、空いてる?」

「どうして?」

「うちの父親が、夜ご飯でもどうかって」

 遼は一瞬どきっとしたが、努めて平然と聞こえるように「喜んで」と答えた。

「じゃあ、七時に中華街に来て」

「中華街?」

「中華が食べたいんだって、私が」

「伝聞形で言う意味がわからない」

「じゃあ、横浜で会いましょう」と絵里奈は構わず言い、それから、ふふっと笑った。

「何が面白い?」

「大丈夫よ、そんなに緊張しなくても。『式はいつだ?』なんて訊かないから」

 遼が反論しようと口を開いた時には、すでに回線が切れている。


 十八時四十五分に元町中華街駅に着き、地上に出たところで絵里奈に電話する。

「今どこ?」と遼が言葉を発する前に尋ねてくる。

「交差点の向こう側に中華街の立派な門が見える」

「他には?」

「他には……」と目を転じる。「あぁ、カフェでコーヒーを飲んでる美しい女性が見える」

「正解」

 お互いに電話を切ると、絵里奈が席を立ったので遼はその場で待つことにする。


「中華街って横浜じゃないのね」

 店から出てくるなり、絵里奈は言った。

「横浜駅を出ればそこは中国だと思ってた。もし、この駅が『元町中華街』っていう名前じゃなかったら、今頃横浜で迷子だったわ」

「名前は時として重要な意味を持つ」

 二人は大きな交差点を渡り、東門をくぐった。

「お父さんは?」

「店で待ち合わせることになってる」


 到着したのは、中華街の一角にある一際大きな建物だった。絵里奈は入口にできている長い列を尻目に前に進み出ると、店員に向かって名前を告げる。店員は遼に一瞥をくれた後に「五階へどうぞ」と言い、それから襟元に付けた無線のマイクに向かって中国語で話しかけた。遼たちは他の客と一緒にエレベーターに乗り込む。皆それぞれ行き先階のボタンを押し、二階から四階までが綺麗に点灯したが五階を押す者は誰もいなかった。


 五階で降りて遼は納得した。四階までは、エレベーターの扉が開くと皿のぶつかり合う音や怒鳴るような中国語が溢れていたが、五階は打って変わって水を打ったように静まり返っていた。照明が一段と抑えられ、調度品もそれに合わせて落ち着いた色合いのものばかりが揃えられている。そして何より、そのフロアには個室しかなかった。通路の左右に二つずつ、正面に一つ扉があるが、声が漏れ聞こえるようなこともなく、その向こうに果たして人がいるのかどうかもわからない。

 白いひげを生やした年配のウェイターが、遼たちを一番奥の扉へと案内した。扉を二つ叩いてから、「お連れ様がいらっしゃいました」と室内にいる人間に呼び掛ける。「どうぞ」と答える声が聞こえた。


 室内で立ち上がった男を見て、遼の足が止まった。百九十センチを優に超えるであろう身長に厚い胸板の堂々たる体躯、黒髪を後ろに撫でつけたその容姿は他人を圧倒させるに十分だった。小さく細い目は普通の人であれば気弱な印象を与えるだろうが、彼の場合は底知れない恐ろしさを感じさせすらした。誰かに似ていると遼は思い、すぐにそれがスティーブン・セガールであることに思い当たる。「沈黙の中華」という無意味なフレーズが頭をよぎる。


「ハイ」と言いながら、絵里奈が自分の両頬をセガールと合わせる。「こちらは私のパートナー」と遼のことを紹介し、様子を伺うようにちらりと遼の方を見やってから、すかさず「仕事のパートナー」と付け加えた。

「こんにちは」とセガールは見目通りの太く低い声で言った。「スティーブンだ。スティーブン・セガール」

 差し出された右手を反射的に握り返しながら、遼は唖然とした。絵里奈はと言えば、二人のやり取りを気に掛ける様子もなく、「この部屋、寒すぎる」と文句を言いながらも、すぐそばにあるエアコンのスイッチを押そうとはしない。元来寒がりなくせに、大のエアコン嫌いなのだ。

 やがてセガールは豪快な笑い声を上げ、遼もつられて笑う。当然、本名を名乗り直すものと思っていたが、セガールにその気はないらしく、そそくさと着席した。


 すぐに賑やかで楽しい食卓となった。豪勢な中華料理が次々と運ばれ、正三角形の頂点を描くように円卓を囲んだ三人の間を右へ左へと目まぐるしく行きかった。

「二人はどこで会ったんだ?」

 紹興酒に顔がわずかに赤らんだセガールが尋ねた。円卓を回し、北京ダックを引き寄せる。海老チリが遼の前を左から右へ素通りする。

「大学の図書館です」

「図書館? 本なんか読まないのに?」と絵里奈を見る。

「読まないんじゃなくて、読めないの」

「スペイン語や英語だとしても読まないだろう?」

「雰囲気が好きなの。白い日差し。きらきら舞う埃。黙する数多の本」

「『黙する数多の本』とは、文学的な表現を覚えたものだ」

 絵里奈が円卓を左へ回す。遼の伸ばした箸が餃子を掴み損ねる。


「二人の初仕事は?」

「仕事?」

 遼は純粋に何のことだかわからずに訊き返す。

「吉祥寺の伊勢丹からオメガの腕時計を頂いた」

「なるほど、全部知ってるわけだ」

 自らの悪行を報告する絵里奈にも驚かされるが、それを知っていながら止めさせないどころか、夕食の席でまるで趣味でも尋ねるみたいに訊くセガールにも驚きだ。

「初回を飾るにふさわしい良品だな」

 その感想もどうかと思う。小籠包が食べたかったが円卓の反対側にあったので、戻ってきた海老チリで我慢した。

「どうやって?」

「時計フロアのフロア・マネージャーとしこたま飲んで、防犯設備に関する情報を聞き出した。それから、彼が酔っぱらった隙に店の鍵を盗んだ」

「ということは、腕時計じゃなくて伊勢丹の鍵が初仕事だな」とセガールが冷静に指摘する。

「確かに」と絵里奈が同意する。

「伊勢丹の内部情報、とも言える」

「何かを盗むために、別の何かを盗む。盗みの上塗りだな」

 セガールは呆れるどころか、感心したように言う。

 遼は意を決して円卓を勢いよく回した。セガールが高速で通り過ぎる餃子を器用に摘みあげる。念願の小籠包が遼の目前に到着する。


「で、目下の獲物は何だい?」

 餃子を頬張りながら、セガールが尋ねる。

「よくぞ、聞いてくれました」と絵里奈が無遠慮に箸先でセガールの顔を指す。「『ジュエル』だ」

「ジュエル? 宝石か?」

「そう。『ジュエル』という名の宝石」

 あ、言っちゃうんだと遼は呆気にとられる。いくら身内とは言え、常識的に考えて泥棒がこれから盗むものを易々と公言するものではない。

「それで、どうやって盗むんだ?」

「それはこれから考えるの。遼が」

「やっぱり」と遼は満足する。さも自分が考えるかのように言われるよりは、よっぽど潔い。

「待て」と突然セガールが緊迫した声を上げる。

「何を待つのよ?」

「腕時計っていうのは、これか?」

 セガールが、握った左手の甲をこちらに向ける。

「腕時計? あぁ、盗んだ腕時計? 確かそんなデザインだった気がする。てか、どうしてあなたが着けてるのよ?」

「お前が誕生日プレゼントにくれた」

「ああ」と絵里奈が納得した表情を浮かべる。「そうだっけ?」

「まったく、盗んだものをプレゼントに寄越すとは……」

 普通ならここで首を横に振るだろうが、セガールはもちろん縦に大きく頷いた。「さすがは、凄腕の泥棒。感服するよ」


 そこでセガールは膝の上のナプキンをテーブルの上に置くと、「ちょっと失礼するよ」と席を立つ。扉が閉まり、絵里奈と二人になったところで遼が口を開く。

「二つほど質問があるんだけど」

「何かしら」と絵里奈が答える。

「あの男は誰なんだ?」

 煙草に火を点けようとしていた手が止まる。

「もう一つは?」

「君のお父さんはいつまで店員の真似をする気だ?」

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