5 二人の時間、姉の決意

 姉の暮らしは、家族四人の時も、エレノアと二人になってからも、そう大きくは変わらなかった。昼間は父親の作った椅子に座って本を読んだり、あるいはエレノアが起きた時にはもういなかったりしたが、夜は必ず店で働いていた、はずだ。その時十五だったエレノアは、彼女自身働いた経験はなかったし、姉が働いているところを見たことも一度もなかった。


 しかし、そうも言ってはいられなかった。両親と親交があった村の人たちは二人のことを気にかけてくれたが、金銭的に言えば、誰もが自分たちの生活で精一杯だった。それに、いつまでも人の好意に甘えて生きていくことを、姉は良しとしなかった。姉は自由な分、プライドが高かった。

「あんたも働かなきゃならない」と姉は言った。

 

 次の日から、エレノアは姉と並んで客に酒を注いだ。エレノアにとって「働く」というのは、家具を作るか、酒を注ぐかのどちらかでしかなかった。家具を作ることはできなかったので、酒を注いだ。二人は朝方まで働き、店の残りもので一食を賄い、あとはわずかな稼ぎで爪に火を点すようにして暮らしていた。これはこれで幸せな日々なのだとエレノアは思った。

 

 ある晩、一人の白人が店を訪れた。白いジャケットに革のパンツを履いた白髪の男性は、無表情に店内を眺めると、カウンターの一席に着いた。姉が灰皿を出すと、男は「ビール」と英語で言った。これが精一杯の愛想だと言わんばかりに、にっと笑った左の奥歯が金色に輝いていた。すれ違いざまにエレノアと目が合った姉が顔をしかめた。エレノアも同感だった。南アメリカの名もない村に、白のジャケットとレザーパンツと金歯で乗り込んでくる白人は趣味がいいとは思えなかったし、幸運を運んでくるとも思えなかった。

 

 ビールを運んでいった姉に男は何かを英語で話しかけ、それに姉が答えると、まるで見知らぬ街で同郷の人を見つけたみたいに顔を輝かせた。たぶん本当にそうだったんだろう。この村で英語を話せるのは、姉くらいなものだった。

 しばらく話しているうちに、男は一枚の写真を姉に差し出した。少しの間写真を見つめていた姉は、わからないというように首を横に振った。厳しい眼差しで姉の表情を見つめていた男は残念そうにうなだれると、写真を懐にしまった。

 それからしばらく経って、男は名刺のようなものを姉に渡すと店を後にした。男が帰ってからしばらく姉は口を利かなかった。エレノアは特に気にはかけなかったが、後になって思えば、そのやり取りが全ての始まりであったことは明らかだった。

 

 次の日から、姉は朝起きると父親の工房に籠った。エレノアはさすがに不思議に思い、姉にいったい何をしているのだと尋ねた。姉は、「工房の整理をしている」と答えたが、その割には全く片付く気配はなかったし、どちらかと言えば荒らしているようにさえ見えた。

 

 それから三日が経った日の夜、店の片付けをしていると姉が不意に言った。

「眠いか?」

 時計を見るとすでに三時に近かったが、エレノアはすでにこの生活に慣れていた。

「腹が減った」と答えると、姉は小さく笑った。

「まだ材料は残ってただろう? サンドウィッチでも作ってくれないか? 赤土の丘で朝食を、とでも洒落込もう」

 エレノアは言われたとおりにサンドウィッチを作り、二人は肩を並べて赤土の丘を登った。


 その日の姉はいつになく饒舌だった。頂上へと続く決して緩くはない坂道を登る間中、姉は休むことなく話し続けた。「雄弁は銀、沈黙は金」ではなかったのかと、姉が男に言い寄られたときに決まって口にする台詞を引き合いに出すと、銀が金より高価な時代もあったのだと姉は悪びれる様子もなく言った。

 

 頂上に着くと二人は赤土の丘の先端に腰をおろし、朝焼けと霧に包まれた大地を眺めながらサンドウィッチを頬張った。思えば、姉と二人でここに来るのは初めてだった。


「二人が死んで悲しいか?」

 サンドウィッチがなくなり、霧の漂う音が聞こえてきそうな静寂を見つめていると、姉がおもむろに言った。エレノアは動揺した。それはそれまで両親のことを口にすることさえなかった姉が、二人が死んだということを初めて言葉にした瞬間であり、それによって二人の死が確実なものになったように感じられたからだ。だが、エレノアに悲しみはなかった。あまりに偉大で不可欠で当然な存在を突如として失ったエレノアの心の中にあるのは、悲しみではなく、喪失感であり虚無感だった。だからエレノアは姉にそう告げた。

「悲しくはない。ただ、受け入れられない」と。

「だよな」と姉は呟いただけだった。念のため正解を確認しただけ、という感じだった。


 少しの沈黙の後、姉は何かを決心したように立ち上がると、ポケットの中に手を突っ込んだ。エレノアは朝日の中に立つ姉の姿を、手で日除けを作りながら茫然と見つめていた。姉がひねり出すように取りだしたのは、札束だった。それを半ば無理矢理エレノアに押しつけると、すぐに反対のポケットからも同じくらいの札束を取りだした。

「な、何これ?」

「金だ」と姉は平然と言う。「アメリカのドルだ。その禿で長髪のおっさん一人で、一カ月は暮らせる」

「どうしたの?」

「オヤジの置き土産だ。あたしとお前の為に残した金だ。だから遠慮なく使え。ただし、よく考えて使うんだ」

 そう言うと、姉は足早に丘を下り始めた。エレノアは慌てて金をポケットに詰め込むと姉を追いかけた。入りきらなかった札束を握りしめながら。

「お姉ちゃんの分は?」

「もうもらってる。きっかし、お前と同じだけだ」

「お姉ちゃんは、お姉ちゃんはそのお金でどうするの?」

 姉は足を止めると、ゆっくりとエレノアを振り返った。その時の姉の何かを堪えたような表情は、その後エレノアが姉を思う時に決まって浮かぶ姉の顔だった。

「あたしはアメリカに行く」

「ア、アメリカ?」

「そうだ。あたしはこの金でアメリカに行く。お前はその金で好きなところに行って、好きなように暮らせばいい。あたしと一緒にいる必要はない。これはお前の人生だ」


 姉は言うことは全部言ったというように、再び来た坂道を下り始めた。エレノアはその場に立ち尽くしたまま、言葉を返すことができなかった。姉の言った言葉を反芻しながら、その意味を理解しようとした。しかし答えを見つけられる前に、エレノアの頬を涙が伝った。

 エレノアは唇を噛みしめながら、姉の後を追い、その背中に力任せに両の拳を振りおろした。振り返った姉の目にあったのは、怒りと憐れみだった。それはエレノアに向けられたものではなく、理不尽を当然のように二人に強いる世界に対する怒りと、それに打ち勝つことのできない自分に向けられた憐れみだった。エレノアは怯えた。姉にではない。姉が屈した世界に怯えたのだ。


 エレノアは声を上げてその場に泣き崩れ、マルティナは声を押し殺しながら赤土の丘を去った。

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