2 遠い昔、アカネとの出会い

 少年は終電を終着駅で降りると、知らない夜の街を歩いた。幹線道路には明かりの灯る飲食店がちらほら見えたが、一本奥に入るとそこは寝静まった住宅地だった。月が驚くほど明るく、そして静かに辺りを照らしていた。


 やがて少年は、生い茂る樹木に囲まれた瀟洒な洋館に辿り着いた。一際広い敷地に建つその屋敷は、政府の要職を務めた人物の旧邸宅であり、三カ月ほど前に改装を終えて今は一般公開もされているのだが、少年がそのことを知るのはもう少し先の話だった。もっともそれは昼間の顔であり、深夜の洋館は朝日が昇るのを待つように闇の中にひっそりと佇んでいた。


 一陣の風が吹き、木々のぼんやりとした影が洋館の壁に揺れた。まるで、魔女か吸血鬼か、でなければ戦いを終えた勇者でも出てきそうだった。ゲームの世界に迷い込んだような奇妙な感覚を覚えながら、少年はあることに気がついた。中に誰かいる。目で何かを見たり、耳で聞いたりしたわけではなかった。第六感に近かったから、「気づいた」というよりは「感じた」と言った方がいいかもしれない。少年は自分でも意識する前に塀によじ登り、敷地の中に侵入していた。


 長いアプローチを抜けた先の正面扉は音もなく開いた。靴を履いたまま板張りの廊下を壁伝いに進んでいくと、やがてわずかに開いたドアがあり、ほんのりと明かりが漏れていた。少年は慎重にドアの隙間を広げると、覗き込むようにして中の様子を伺った。


 月明かりに照らされ、三つの影が見えた。そのうちの一人は、壁に立てかけた脚立に上り、窓枠に何か鋭利なものを打ち付けている。

 もう少しよく見えるようにと、一歩踏み出した少年の肩がドアに当たる。蝶番がきぃっと軋み、六つの目が一斉に少年を捉えた。時が止まったように全員が静止した一瞬が、永遠のように感じられた。


「そこで何をしてる? 坊主」

 脚立の側に立っていた人影が少年の方に歩み寄り、ドアを押し開けた。おそらくは何気なく発せられたであろう最後の言葉に、少年は勇み立った。激しく波打つ心臓が体を震わせていた。

「あ……あなたたちは、何をしてるんですか?」

「何をしてるように見える?」

 目の前の体格のいい人影が、質問に質問で返す。表情はわからないが、笑っているような声色だった。

「ここで問題です。私たちは誰でしょう?」と脚立の上の男が言う。

「……工事の人?」

「残念、ハズレだ」

 男は、そこで少年の背丈に合わせるようにしゃがみこんだ。月光に照らされて、白い髪が映えた。

「正解は、盗賊だ。ステンドグラスを盗んでいる」

 トウゾク? ステンドグラス?

「こっちに来て見てみろ」

 そう言うと、白髪の男は窓際に歩み寄った。少年は訳のわからないまま、ただ何となく悪い人ではない気がして、男の後に従った。


「どう思う?」

 白髪の男は窓の上にある色付きのガラスを見上げていた。少年もその視線の先を見つめ、少し考えた後に「きれい」と言った。

「そうだろう? これは小川三知という日本人が作ったものだ。派手さはないが、実に素朴で味わい深い。わかるか?」

「なんとなく」

 少年は男の言っていることは何となくわかった気がしたので、そう答えた。

「そうなんだよな。何となくなんだよな、芸術っていうのは」

 脚立の上の人影が言う。少年の隣にいる白髪の男に負けず劣らずの恰幅の良さであることが、シルエットでもわかる。

「お前が芸術を語るとはな」と窓際の細身の男が初めて口を開く。

「語ってないけどな。何となくとしか言ってない」

 そう言って、男は脚立の上で場違いな笑い声をあげた。


「それを盗むの?」

「そうだ」

「何のために?」

 少年の質問に、三人が顔を見合わせるような間が空く。

「君は、何が好きだ? 食べ物でもゲームでも、物じゃなくて事でもいい」

「……音楽」

「ほぅ」

 意外な回答に、白髪の男が驚きと感嘆を含んだ声をあげた。脚立の上の男は作業を再開する。

「それなら、好きな音楽はいつでも好きな時に聞きたいと思うだろう? あたかも自分の物のように肌身離さず持ち歩きたい。それと同じことだ」

「……好きだからってこと?」

「まぁ、そういうことだな」と男が頷く。「大切なのは、何を好きになるかだ。一番有名な歌手、一番人気のある歌手が、一番多くの人を感動させるとは限らない。有名無名に関わらず、本当に価値があるものを見極められるかどうかだ」


「お前たち、何をしている!」

 唐突な怒号と同時に懐中電灯の光が少年の顔を照らした。全員が声の主を振り返った。懐中電灯を持った人物のほかに、もう一人その横で射撃の構えを見せていた。二人とも制帽を被っている。あきらかに、警備員ではなさそうだった。

「警察か」

「くそっ」

 脚立の男が呟くと、次の瞬間、地上に飛び降りた。着地の鈍い音と振動に床が揺れる。反動で脚立がゆっくりと倒れ、アンティーク調の本棚のガラス戸を突き破った。派手な音をたて、ガラスが床に散らばる。

「手を上げて、床に伏せろ!」

 警官は威勢よく言ったが、男たちに従う様子はなかった。


 場が膠着した。自分たちのことを盗賊だと言った男たちに、焦りは微塵も感じられない。どちらかと言えば、二人の警察官の方が狼狽えているように見えた。窓際の男はわずかに他の二人に視線を投げると、腰のあたりから何か取り出した。

「動くな!」

 懐中電灯を持った警察官が気づき、そちらに光を向ける。細身の男はゆっくりとした動作でゴーグルのようなものを掛けた。それから再び腰に手をやり、今度はヘッドフォンのようなものを耳に当てる。少年には男が何をしているのかわからなかった。ふと気づくと、そばにいた二人も同じようにゴーグルとヘッドフォンをしている。


「心配するな」

 白髪の男がそう呟いた気がした。次の瞬間、少年の視界が塞がれた。男が少年を正面から抱きしめたのだ。それと同時に、耳を力いっぱい抑えられる。

突然、爆発音が轟き、ひどい耳鳴りに襲われた。脳みそが揺れ、かすかに吐き気を催す。体が浮く感覚があった。朦朧とする意識の中で目を開けると、埃の舞う床が見えた。次に窓。自分の体が波間に漂っているような錯覚を覚える。いや、誰かに担がれているのだ。相変わらず、甲高い金属音が鳴り続いている。


 男たちは、路上に停められた車へと走り寄る。少年を後部座席の中央に押し込み、その周りを取り囲むように男たちが乗り込む。最後のドアが閉まるや否や、運転席の女が車を発進させた。

「私の気のせいでなければ、一人増えてるよね?」と女がバックミラーに視線を投げる。「ステンドグラスを盗みに行ったのに、なんで男の子を抱えて帰ってくるわけ?」

「ステンドグラスを盗んでたら、こいつが現れたんだ。ついでに警察も」

 脚立の上の男は、今は運転席の後ろに座っている。左隣の少年を見ると、穏やかな寝息を立てていた。

「警察はこの子を追って入っていった」と女が言う。

「やはり、この子が屋敷に近づいてきた時点で身を隠すべきでしたかね?」と、先ほど窓際で見張りをしていた助手席の男が、真後ろの男に尋ねる。

「まぁ、いいさ。こういうこともある」


 白髪の男は少年の服のポケットを探ると、財布を取り出した。中に入っていた学生証を助手席の男に渡す。助手席の男は、学生証に書かれていた住所をカーナビに打ち込んだ。

「結構遠いですね。なぜ、あんなところにいたのか」

「さぁな」

 白髪の男は財布を戻すついでに、使い道のなくなった一枚の紙片をポケットに忍ばせた。月はビルの陰に隠れ、代わりに規則正しく並んだ街路灯が車窓を照らしていた。


 翌朝目を覚ますと、少年は自分の家のベッドの上にいた。頭の奥に鈍い痛みがあることと洋服の所々が埃で汚れているほかは、特に変わったところはなかった。あれは夢だったのだろうか。そう思い、何気なくポケットに入れた手が紙片に触れた。


 ――本当に価値があるものは、金では買えない アカネ



 カーテンを開けると、白い日差しが部屋を満たした。二羽のカラスがじゃれ合うように飛んでいく。それ以外に、目に見える景色に動くものは何もなかった。車のボンネットに反射した日の光が目を焼いた。

 

 これが最後になるかもしれない。男の言葉と自分の思考の一致に、ボスは遠い昔の光景を思い出していた。

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