第三章 プロローグ

1 同じ穴の狢、事実ならば

 人がまばらな搭乗口を目前にしたところで、内ポケットの携帯が鳴った。脇にある椅子に腰かけ、それに答える。


「久しぶりだな、サイモン。言っとくが、当面売りに出す予定はない」

「私だって偶にはビジネス以外の話もするさ」

「したことはないけどな」

「今どこだ?」

「JFKだ。十分後にローマに向けて出発する」

「相変わらずだな」

 感心しているのか、呆れているのかわからない調子でサイモンが言う。周りを取り囲むスーツの集団が、皆一様に落ち着かない様子で時計を気にしている。

「あまり時間がない。要件は何だ?」

「あんた、最近日本で宝石を盗まれただろ?」

 ジュエルが露骨に忌々しげな表情を浮かべる。

「それがどうした?」

「カラスを知っているか?」

「……カラスだと?」

 短いため息の後に、サイモンが言う。

「その様子だと、やはり知っているようだな。実は、私も最近やられた」

「なに? あいつらに盗まれたのか?」

「あぁ」

「いったい何を?」

「ジョン・レノン直筆の歌詞だ。十八万ドルの損害と報酬をもらい損ねた」

「私の損害の三分の一で済んでよかったじゃないか」とジュエルが自虐の笑いを漏らした。「それで?」

 一拍置いて、サイモンが意を決したように言う。

「あんた、その手の捜査に長けていて、自由に動ける人間を知らないか?」


 ジュエルは沈黙した。サイモンの言う「自由に動ける」とは、警察のような公的機関ではなく、ということだろう。当然だ。自分の現在の地位は、決して公明正大に誇れる実績だけの上にあるわけではない。それはサイモンとて同じはずだった。他人の悪事を暴くことは、同時に自らの過去をテーブルに載せることに等しい。ジュエルは、他人を追い詰めようとして自身が逃げ場を失った前例を多く見てきた。


「サイモン、わかっているとは思うが、深入りは禁物だ。去る者は追わず。いちいち追いかけ回していたら切りがない」

「あぁ、わかってはいるが、今回ばかりはどうにも腹の虫が収まらなくてな」

 ジュエルはわずかな間、思考を巡らせた。リスクはある。が、サイモンを前面に立たせて自分はあくまでサポートに徹する。それで首尾よくいけば、あのブルーダイヤが自分のもとに戻ってくるだけでなく、カラスやヤニスに一泡吹かせてやることもできるのではないか。マルティナは一時でも好いた女だ。陥れるつもりはない。


 航空会社のスタッフが、これ以上は待てないと騒ぎ立てている。部下の一人が時計を示してくるのを、ジュエルは煩わしい蠅を嫌うように手で払った。

「考えておく」

 それだけ告げるとジュエルは電話を切り、足早に搭乗口へと向かった。



 サイモンは、回線の切れた電話をしばらくの間見つめていた。ジュエルの言いたいことは承知の上だった。それでもなお、諦めることはできなかった。


 部屋を埋め尽くした古今東西の美術品を見回しながら、サイモンは思った。自分にも後ろめたい過去がある以上、警察の手を借りるのは憚られる。それは非合法な手段を使ったとしても同じだった。己の弱みを握られるようなことがあれば、逆に自らが不利な立場に追い込まれる危険性もある。だからこそ、信頼の置ける人物に頼る必要があった。

 そういう意味においては、サイモンはジュエルのことを信用していなかった。自分と同じ穴の狢だからだ。いや、目的を達成するためなら如何なる手段も厭わない卑劣さにかけては、あの男は自分の比ではない。だからサイモンは、自分の本当の目的がある盗品の入手にあるということを、ジュエルには打ち明けなかった。


 一カ月余り前、東京を走るタクシーの中で、自分が大切に抱きかかえていた物がジョン・レノン直筆の歌詞ではなく、空のジュラルミンケースだと知った時、サイモンは失った十八万ドルに対する未練よりも、してやられたことに対する口惜しさよりも、エルスチールの絵画が手に入らないことに対する失望に茫然自失とした。一度この目で見たのがいけなかった。寝ても覚めても、サイモンがあの絵に囚われない時はなかった。


 少しして、サイモンはある新聞記事を見つけた。「哀れなサイモン・ブロード」と題されたその記事は、報道と言うよりはゴシップに近かったが、その中の一文がサイモンの目に留まった。


――日本のカラスは、我々の知るどのカラスよりも貪欲で狡猾である


 その記事は、日本には美術品ばかりを狙う「カラス」という名の窃盗団がおり、サイモンが落札したジョン・レノン直筆の歌詞を盗んだのもカラスであろうと、根拠の乏しい結論を導き出していた。記事の最後には、これまでにカラスが盗んだと目される美術品の一覧が挙げられていた。そのリストの一つを見た時、サイモンは思わず目を疑った。


――エルスチール(仏・画家)「カルクチュイ港」


 もしこの記事が事実なら……サイモンは手近にあった水を飲み、平静を取り戻そうと努めながら、頭を整理した。自分に仕事を依頼したワタリこそがカラスであり、あの歌詞を盗んだ張本人だということになる。すべては初めから仕組まれていた――。


 サイモンは、エルスチールに対する執着と、犯人の手がかりを掴みながら如何ともし難い状況に悶々とした日々を送っていたが、やがてカラスの盗品リストに新たに二つのブルーダイヤが加わったことを知った。偶然にも、その持ち主はサイモンが知る人物だった。

 ジョン・ジュエル。とてもサイモンの手に負える人物ではなかったが、自分は持ちえない人脈、手段をその男は持っているに違いなかった。扱い方によっては、大きな戦力になる。それに、仲間は多い方がいい。サイモンは迷った挙句に、電話を手に取った。

 

 おそらくは嘘八百の名刺を手にしたサイモンは、歪んだ笑みを浮かべた。


「ゲームはまだ終わっていない」

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