2 四月の空、カラスの失敗
目を開けると、そこには四月の空が待っていた。遼は何か夢を見ていた気がしたが、何の夢かは思い出せなかった。暖かい日差しが心地よかった。
体を起こすとそこに塩田がいた。
「あれ、塩田さん、何してるんですか?」
「そりゃこっちのセリフだよ。新年度早々さぼりか?」
「新年度って言ったって、うちの部は何も変わらないじゃないですか」
「ま、確かに」
四月を迎え、世間にはどこか「心機一転」という雰囲気が漂っていた。しかし、塩田と遼が所属する部署は特に人員の変動もなく、月が替わっただけで「昨年度」と遠い過去のように呼ばれる三月から特に目新しい変化はなかった。
「そう言えば、昨日の報告書、あれは何だ?」
「報告書?」
遼は聞き直しはしたが、何のことかはわかっていた。絵里奈と一緒にジュエルの部屋に忍び込んだ時の、従業員用エレベーターの「臨時メンテナンス」報告書だ。
「あれ、偽造だろ」
「偽造?」
「あぁ。だって、あんな不具合報告は今まで上がってないし、そもそも、あのタイプのエレベーターの構造上あり得ねぇよ」
技術屋上がりの塩田だからこその指摘だった。遼は何と答えるべきか逡巡したが、遼が答えるよりも先に、塩田が「ま、お前のことだから、誰にも迷惑掛けないなら細かいことは言わないけどよ」と言った。遼は心の中で感謝の言葉を述べた。
「先降りてるぜ」
「あ、塩田さん」
遼が呼び止める。「そろそろ一週間前じゃないですか?」
「うん?」
「塩田さんの誕生日」
ちょうど一週間後のはずだった。
「お前、よく知ってるな?」
「花丸上げたいくらい見事な花丸が卓上カレンダーに付いてましたから、わかりますよ」
塩田は苦笑した。
「三千円でいいよ」
そう言うと、出口に向かいながら塩田は後ろ向きに手を振った。
昼休みのほかにずる休みをたっぷり二時間半取ってデスクに戻ると、パソコンのキーボードの上にメモ用紙が置かれていた。
「急ぎの用?」
それだけの内容の下に、十四時十分と記されている。まだ十四時前だから、電話を受けた時間ではないはずだった。
「ねぇ、昼休みとずる休みの合計時間、新年度に入って伸びてない?」
斜向かいの席の先輩が皮肉っぽく言った。「昼休みの時間は変わってないはずだから、ずる休みが伸びてるのよね?」
「先輩の時計が狂ってるんじゃないですか?」
「何言ってるのよ。オメガよ、オメガ」
「吉祥寺の伊勢丹から盗んだんじゃないですよね?」
「はい?」
「何でもないです。先輩にふさわしい良品ですね」
そう言って、メモを指し示す。「で、これは?」
「さっき電話があったのよ。名前も名乗らずに、『緊急の用だ。十四時十分にもう一回電話するから、ボスに席にいるように言ってくれ』って」
遼はさすがに焦った。
「ボ、ボス?」
「そう聞こえたのよね、ボスって。聞き返したら、あなたの名前を言ってたけど。なに、あなた、実は見かけによらずマフィヤの親分とかなの?」
「先輩、やっぱり想像力が豊かですね」
「とりあえず、その時間にもう一回電話がくるはずだから、もうずる休みは取らないでね」
メモの通り、十四時十分ちょうどにオフィスの電話が鳴った。
「ボス、俺だ。ミヤマだ。やられた」
「やられた、とは? だいたい、なぜ仕事用の携帯に掛けないんです?」
遼は電話口を手で覆い、できる限り声を殺す。
「あっちの電話は情報が漏れている可能性がある。かと言って、不用意に集まるのも危険だ。その点、この電話は安全だろ?」
「いったい何の話です?」
「よく聞いてくれ。ビートルズが盗まれた」
「……新作映画のタイトルか何かですか?」
「違う。こないだの直筆の歌詞だ。二番の貸金庫に入れてあったが、今日確認したら無くなってた」
「……まさか」
「そのまさかなんだよ。代わりに封筒が入ってた」
「封筒?」
「あぁ。クリスマスカードとかを入れるような封筒だ。中の便箋に書かれていた文章を読みあげる」
「お願いします」
「『カラスの目に狂いはない。ねぐらの宝はどれも一級品。手並みも見事。だが、独り占めばかりだと疎まれる』」
そこでミヤマは二行分くらいの間を置いた。おそらく、文面自体に二行分のスペースがあるのだろう。
「『追伸。空はまだアカネ色。カラスが闇夜に紛れるには早すぎる』 以上だ」
「……アカネ?」
「やっぱりそこが引っかかるよな? そこだけ片仮名で書かれている。これってやっぱり、あのアカネだと思うか?」
遼は考えた。十年近くその名を聞いていなかった。悪戯や模倣犯の可能性もある。だが、警察さえ掴めていない盗品の所在を把握し、さらには防犯設備の整った金庫から盗み出している。そんなことをできる人間はそう多くはない。
「おそらく間違いないでしょう。宣戦布告。アカネからカラスへの挑戦状としか思えません」
「宣戦布告に挑戦状、か」
「いいですか、これから言う三つのことを厳に守り、できる限り安全な方法でホシさんに伝えてください」
「俺自身が守り、ホシのやつにも守らせるということだな。わかった」
「一、仕事用の電話は解約してください。二、カラスはしばらくの間、冬眠に入ります。私から連絡をするまで、三人の間での連絡はその一切を慎んでください。三、個人での窃盗行為、その他、カラスの情報に繋がる恐れのある行為も同じです」
「わかった」
「よろしくお願いします」
遼が受話器を置こうとしたところに、幾分間延びしたミヤマの声が聞こえる。
「嫌な予感が当たっちまったな。でもよ、俺にとってはカラスでいることが割と重要なんだ。だから、冬眠からすぐに目覚めるよな? もう四月だ。春はそこまで来てる」
ミヤマの思いがけない詩的なぼやきに、遼は思わず笑みをこぼした。
「それは私にとっても同じです。ですが、次に目覚めた時、カラスは以前ほど自由ではない。日の沈んでいない空を飛ぶには、敵から身を守るために相応の準備が必要です」
「……わかってる」
受話器を置いた後も、遼の思考は中空を浮遊したままだった。
これまで、カラスに失敗らしい失敗など一つたりともなかった。それが、あろうことか自分たちが盗難の被害にあった。「ジュエル」の件に掛かりっきりになっている間に、カードキーと暗証番号で何重にもロックされた貸金庫から、だ。ミヤマが言う通り、情報が漏れているとしか思えなかった。
しかも、相手はあのアカネ。十年近く鳴りを潜めていた「怪盗」が、なぜ今になって突如カラスに牙を剥いたのか。宣戦布告とも取れる手紙の文面。ビートルズ直筆の歌詞が欲しかったわけではなく、ターゲットはカラスだと考えたほうが自然だろう。カラスを挑発するために、あえてそのねぐらから盗んだ。
とてもではないが、他の事を考えられる状況ではなかった。遼はもう一度ずる休みを取るために屋上に向かうことにした。
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