5 冷たい雨、ジョン・レノンの頭の中
羽田空港の国際線ターミナルを出ると、雨が降っていた。サイモンは乗り場に停まっていた先頭のタクシーに、逃げるように乗り込む。行き先を告げ、ふぅっと一息吐いた。日本時間に合わせておいた腕時計は、二十二時少し前を示していた。サイモンは一刻も早く、できるだけプライベートな空間に落ち着きたかった。ニューヨークを出る時から、いや、オークションが成功裏に終わったその時から、公共の場にいる時は常に周囲を警戒し、細心の注意を払ってきた。そろそろ眠気が襲ってくる時間でもある。鍵の掛かったホテルの部屋に入れば、少しの間眠っても問題ないだろう。シャワーも浴びたいところだ。
それにしてもあの男……膝の上のジュラルミンケースを撫でながらサイモンは思った。ワタリという青年は、いったい何者なのだろうか。あいつはなぜエルスチールを持っている? 二カ月前にワタリに会ってから覚書が届くまでの間に、サイモンは色々と調べを尽くした。だが、ワタリという名の日本人コレクターに関する情報は何一つ得られなかった。インターネットでの検索はもとより、知人のコレクターや業界関係者にも確認したが、ワタリという名のコレクターを知るものは誰一人いなかった。コレクターでないとすれば、彼は何のためにエルスチールの絵画やジョン・レノンの歌詞を集めているのか。
幾度となく頭を掠めた考えをサイモンは一笑に付した。誰から譲り受けるかなど、関係のないことだ。サイモンは今回の件に対して多分にきな臭さを感じていたが、それでもあの絵画を手に入れるチャンスが目の前にあるというのに、みすみす逃すことはどうしてもできなかった。
その時、サイモンはあることに気がついた。ジュラルミンケースのダイアルロックが「000」を示している。サイモンは最後に中身を確認した後、ダイアルを無作為に回して鍵を掛けた。百歩譲って回し忘れた可能性はあっても、ゼロで揃えた覚えはなかった。
サイモンは得体のしれない不安と焦燥感に駆られながら、ジュラルミンケースの留め具に力を加えた。かちり、と軽快な音を立てて、ロックはすんなりと外れた。サイモンは、ハズレしか残っていないことを知っているくじを引くように、ゆっくりとジュラルミンケースを開ける。
そこには何も入っていなかった。サイモンは瞳を閉じ一度深呼吸をすると、再び目を開けた。窓の外を見やる。首都高羽田線を北上するタクシーの車窓からは、冷たい雨に濡れたレインボーブリッジが見えた。
ドアが四度ノックされた。男が覗き窓を確認した後にドアを開ける。得意げにジュラルミンケースを顔の前に差し出した女が言った。
「ルーシーはダイヤモンドとともに、カラスのねぐらに」
「ダイヤモンドを拝むのはこれからだがな」
女はジュラルミンケースをベッドの上に放り出すと、その横に腰かけた。
「今回はどんな手を?」とボスが尋ねる。
「手品と同じよ。どんなに警戒してたって、あなたの腕時計は気づいたらなくなっていて、マジシャンがジャケットのポケットからそれを取り出す。意識が逸れる瞬間は必ずある。退屈な長距離線の機内ならなおさらね。それに、鍵のない場所にターゲットが長時間留まっていて、おまけに辺りは真っ暗。これほど盗みやすい環境はないわ」
「海外遠征の時は、お前とは違う便で行くことにするよ」」
男がジュラルミンケースを手に取りながら言う。「番号は何番だ?」
「知らないわよ。超能力者じゃないのよ?」
「じゃあ、どうやって開けるんだ?」
「『000』から『999』まで試すしかないでしょうね」とボスが言う。「一つの番号に三秒だとして、三千秒。我々に絶望的にツキがないとしても、一時間あれば開けられます」
「じゃあ、一丁運試しといくか」
「とは言え、こういう場合、人はまったくランダムな数よりは、何かしら身近な数にする可能性が高いです。まずはこれらの数字から」
さっそく取り掛かろうとした男に、ボスはメモ用紙を手渡した。
「これは?」
「わかる範囲でサイモンが設定しそうな三桁の数字を洗い出してみました。誕生日や電話番号、ストリート番号なんかです」
「なるほどな」
そう言って、男が一番上の数字から試し始める。その様子を見守っていたボスがコーヒーのカップを手にしようとしたその時、留め具が音を立てた。作業を開始してから物の一、二分。八個目の番号だった。
「まじか」と男が思わず漏らす。
「どうやらツキはあるようですね。何番ですか?」
「『329』。何の数字だ?」
「『Lucy in the Sky with Diamonds』の曲の長さです。三分二十九秒」
男は呆れたようにため息を吐いた。
「そんな数字、選ぶ方も選ぶ方だが、当てる方も当てる方だ」
ジュラルミンケースを開けると、そこには額縁に入ったノートのページが入っていた。すぐには読み解けない癖のある字で文章が書かれている。所々にメモや修正の跡が残る。
「ビートルズは好きだが、これがそんな価値があるとはな。ただの走り書きをした紙切れにしか見えない」
「ただの走り書きをした紙切れですよ。もしこれが、私が夕飯に必要な食材をメモしたのであれば何の価値もない。ジョン・レノンが彼の頭の中の世界を書き出したものだから価値があるんです」
「それにしても、十八万ドルもの値が付くとはな」
サイモンは、彼が予め見積もった通りの金額でこれを落札していた。優秀な男だった。
「どうする?」
「いつものように、金庫に保管しておいていただけますか? どの金庫かは任せます」
「わかった。サイモンの方は?」
「いずれ連絡があるでしょう。依頼は完遂できない、と。そうしたら、心底残念そうにこう言います。『それは残念です。いったい何があったんですか?』」
「毎度のことながら、あんたには感服するよ」と男は言った。
その時、長い間言葉を発していなかった女が唸り声を上げた。見ると、ベッドの上で寝返りを打っている。
「今回は彼女のおかげですよ。しばらくの間、ゆっくりと寝かせてあげましょう」
ボスと男は、ジュラルミンケースを持つと部屋を後にした。
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