4 皮肉な顛末、割に合わない報酬
ワタリは五階のボタンを押した。二人を乗せたエレベーターがゆっくりと上昇を始める。
「今回は一人で来られたのですか?」
「いつも一人だよ。アシスタントがいるわけでもないからな」
「奥様は?」
「ニューヨークで平穏な生活を送ってるよ。私の仕事に理解はしているが、関与はしない」
五階に着くと、ワタリはサイモンを並んだ客室の一つに招き入れた。やや広めのスペースにシングルベッドが二つとデスクが置かれ、全体的に白と濃い茶の木目調で設えられた何の変哲もない部屋だった。一枚の絵画が飾られていること以外は……。
サイモンは部屋に入ると、真っ先に壁に飾られたその絵に目を留めた。それから、感心するような表情を浮かべ、何かに気づいて怪訝な顔をし、絵の間近まで歩み寄って細部を凝視してから、唖然とした。
「お、おい。まさかと思うが、これ……」
「さすがですね」とワタリは嬉しそうな顔を浮かべた。「そうです。レプリカではありません」
「真作だと言うのか? 本物の……」
「本物のエルスチールです」
「エルスチールの『カルクチュイ港』だと……。これがなぜ……なぜ、ここに?」
「もちろん、もともとここにあったわけではありません。私が飾りました」
「どういうことだ?」
「詳しいことは言えませんが、一つだけ言えるのはこれが正真正銘の真作だということです。然るべき鑑定を行っていただいて構いません。あなたは非常に広く様々な時代、文化に精通していますが、特にエルスチールを愛好していると伺いました」
「その通りだ」
「依頼を完遂していただいた暁には、これを差し上げます」
「……なに?」
「レノン=マッカートニーの歌詞の落札費用については、そちらで負担していただきたい。その代わり、その費用と報酬として私からはこの絵画を差し上げる。いかがですか?」
サイモンはしばらくの間呆然としていたが、やがて我に返って考えた。
目の前にあるのは、ほぼ間違いなくエルスチールの真作だった。先のワタリの言葉通り、サイモンは二十世紀初頭に活躍したこのフランス人画家の作品に深く傾倒しており、その知識と鑑定眼にかけては誰にも劣らない自信があった。
問題は、なぜこの作品がここにあるかということだった。フランスのオルセー美術館に所蔵されていた「カルクチュイ港」は、半年ほど前、日仏国交樹立百五十周年の記念行事の一環として、ルノワールやモネといった名立たる印象派の絵画数点とともに上野の国立西洋美術館に貸し出された。そして、その展示中に盗難の被害に遭っていた。
当然、両美術館やこの作品を誘致した主催者の間で大きなトラブルとなったが、この窃盗事件の影響は美術界だけに止まらなかった。ほどなくして、フランス政府が在日大使館を通じて遺憾の意を示したことで、両国の外交にちょっとした影を落とすこととなったのだ。国交樹立記念行事の顛末としては、皮肉としか言いようがなかった。その後「カルクチュイ港」は、今日まで持ち主のもとに戻ってはいないはずだった。
その曰く付きの絵画が目の前にあることが、サイモンはにわかには信じられなかった。
もちろん、盗品と知っている以上躊躇いはあった。だが、盗品でもなければ自分の物になることなどまずないのも事実だった。これまでも決して清廉潔白なビジネスだけをしてきたわけではない。後ろめたさやリスクを冷静に分析する理性を遥かに凌ぐ、コレクターとしての欲望が彼の心を支配していた。
サイモンは口元に笑みを浮かべて言った。
「割に合わんぞ」
「……そうですか」
「さっきも言ったが、あの歌詞はどんなに値が吊り上がっても百万ドルそこそこだ。私にしてみれば、真作のエルスチールにはその何十倍の価値がある。割に合わんぞ」
今度は、ワタリが笑みを浮かべた。
「あなたの言う通り、絶対的な価値なんてものは存在しませんから。それで構いません。その代わり、万が一落札できなかったり、何らかの不測の事態で所定の時間にここに持ってくることができなかったりした場合、この絵画はお渡ししませんし、それまでに発生した費用についても一切の補填をしません。それでいいですか?」
「もちろんだ。私が持ってきたジョンの歌詞とそのエルスチールを交換する。わかりやすくていい。どちらかが欠ければ、このビジネスは破談だ」
ワタリはそこで、勝ちを急ぐ選手を戒める監督のように神妙な面持ちをした。
「私としては、いいビジネスができて嬉しい限りです。だが、これを手に入れることであなたは多大な損害を負う可能性があります。決断に時間が必要であれば構いません」
サイモンは笑った。すでに迷いはなかった。
「決断に時間を掛ける人間は二流だ。帰りの飛行機の中で考えたとして、結論は変わらん」
ワタリは静かに頷いた。
「後で覚書を送りますので、署名をして返送してください」
ワタリが差し出した手を、サイモンはしっかりと握りしめた。
「最後に一つ質問させてくれ」
「答えるかは私の選択ですが」
「あんたは何者だ?」
ワタリは申し訳なさそうな顔を浮かべた。
「残念ながら、答えられないほうの質問です」
その回答に、サイモンの微笑みは一層深くなった。
「まぁ、いいさ」
そう言うとサイモンは部屋を出ていこうとしたが、すぐに何かを思い出したように振り向いた。「そうだ。あんたの名刺をくれ」
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