3 依頼の内容、報酬の価値観

 まもなく着陸態勢に入ることを知らせるアナウンスが流れる。サイモンは窓の外に目をやった。ニューヨークを夕方に出発して半日余り。夜の帳を追いかけるように太平洋を西進するフライトはそのほとんどが闇の中だったが、サイモンはまんじりともしなかった。今もビジネスクラスのシートの足元に、大ぶりなジュラルミンケースがあることを確認している。

 やがて飛行機がその高度を下げ始めたのを感じる。この長い夜が明ければ、あの傑作が自分のものになる。サイモンは口元が綻ぶのを禁じえなかった。


 遡ることおよそ二カ月半。年の瀬の足音が聞こえ始めた十二月初旬、サイモンはクリスマスムードが漂う宵の東京にいた。彼は、羽田空港に着いたその足で都内のホテルに向かうと、本当に現れるのかという疑心とどんな人物なのかという好奇心を抱きながら、一階のロビーである人物を待った。


 待ち合わせの時間の少し前に現れたのは、気の良さそうな青年だった。サイモンが想像していたよりも、ずっと若かった。

「ミスター・ブロードですね?」

「サイモンと呼んでくれ、ミスター・ワタリ」

 そう言って立ち上がると、ワタリと呼ばれた青年が差し出した手を握り返した。ワタリが懐から名刺入れを取り出したところを手で制する。

「まずは話を。名刺をもらう必要があるかどうかは、それからだ」

 ともすれば不遜とも映りかねないその態度は、サイモンの自信の表れであると同時に、交渉における駆け引きの初手だった。

「わかりました」

 ワタリはソファに腰を下ろすと、ウェイターにコーヒーを頼んだ。


「日本へはいつ?」

「一時間前だ」

「それはまたお忙しい。お疲れでしょう?」

「飛行機の中でたっぷり休んだからね。まったく問題ない」

「東京には以前にも?」

「あぁ、買い付けで何度か。日本の錦絵や磁器なんかも好きでね。だが、日本人がこんなに盛大にクリスマスを祝うということは初めて知った」

 サイモンの言葉にワタリは笑った。

「クリスマスが大きなビジネスチャンスなのは、世界共通です」


 そこでコーヒーが運ばれてくる。ウェイターが去ったのをきっかけに、サイモンが口火を切った。

「さっそくだが、依頼の内容を確認させてほしい。二月二十日のサザビーズのオークションで依頼の品を落札すること。そして、それをあんたの元に届けること。この二つで間違いないな?」

「えぇ、そのとおりです」

「物は、ジョン・レノン直筆の『Lucy in the Sky with Diamonds』の歌詞」

「そうです。それを、オークション三日後、つまり二月二十三日の朝十時にここに持ってきていただきたい」

「日本時間の朝十時だな。わかった」

 そこでサイモンはコーヒーを啜った。「わかったが、いくつか訊きたい」

「もちろんです」


「まず、どうやって私のことを知った?」

「イーライ・ブロードは世界有数の美術品収集家です。その息子であり、お父様と同様に優秀なコレクターであるあなたのことを知るのは、さほど難しくはありません。あなたの実績を見れば、サザビーズとかなり強いコネクションがあることも想像がつきます。それで依頼を」

「『良好で公正なビジネス上の関係』だ」とサイモンは訂正した。「私のことを知っている人間は少なくない。だが、私のメールアドレスとなると別の話だ」

「メールアドレスはもはや個人情報とは言えません」

 サイモンは少しの間考えた。


「まぁ、いいだろう。次の質問だ。報酬は?」

「その前に一つ質問させてください。いくらなら落札できると思いますか?」

 サイモンはソファの背にもたれ掛かると、斜め上を見上げて、ふぅっと大きく頬を膨らませた。

「私の見立てでは、十五万ドルから二十万ドルの間だろう。だが、過去にビートルズの別の曲の歌詞がオークションに出された時は、百二十万ドルを超える高値で落札された。その時のサザビーズによる落札予想価格は七十万ドルだった」

 サイモンは上体を起こすと、今度は前かがみにワタリを見据えた。「オークションは文字通り言い値だ。個人の価値観に基づいている。ある人が不要だと思って手放したものが、ある人にとっては宝の山になる。絶対的な価値というものは存在しない」


「よくわかります。質問を変えましょう。いくらならやりますか?」

「報酬として、落札額の十パーセント。落札額はそちらの予算内に収める。予算を超えた時点で手を引く。これでどうだ?」

「それで問題ありません。ただし、私の用意した報酬が適切かはあなたの価値観に拠ります」

「予算はいくらだ?」

「予算もあなたの価値観に拠ります。報酬と同様に」

 そう言ってワタリはコーヒーを口に運ぶ。サイモンは眉を顰めた。

「ミスター・ワタリ、これはビジネスだ。言葉遊びではなく、具体的な数字の話をする必要がある」

「もちろんです。見てもらったほうが早い。一緒に来てください」


 ワタリはコーヒーカップを置くと、席を立つ。サイモンも不承不承その後に従った。

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