2 五年ぶりの会話、長くて教訓にならない話

 絵里奈が五年ぶりの再会の場所に指定したのは、六本木の小さなバルだった。日比谷線の六本木駅を出て首都高をくぐり、しばらく行くと、ミッドタウンの足元の古い住宅街の中にその店はあった。およそ六本木とは思えない静かな場所だった。店の扉を開けると、すぐ目の前に懐かしい背中があった。「旧知キューチ」の背中だ。


 遼は黙って隣の席に腰を下ろした。カウンターの中の店員が感じの良い挨拶とともに、ウェットタオルを差し出した。ビールを注文する。絵里奈は白ワインベースのサングリアを飲んでいた。


「痩せたわね」

遼が五年ぶりの会話の始まりにふさわしい言葉を見つけるよりも前に、絵里奈が言った。

「そうかな? 最近は体重も気にしなくなったから、よくわからない」

「今のほうが素敵よ」

「そういうセリフを言えるようになったんだ?」

「久しぶりに会う女性には、そのくらい気の利いたセリフを言いなさいってことよ」

「なるほど」

 遼の前にビールが置かれた。絵里奈がグラスを持ち上げる。遼がそれに自分のグラスを合わせた。

「今度誰かと五年ぶりに会うときは、そう言うことにするよ」


 絵里奈と初めて会ったのは大学の図書館だった。彼女は学生でもなければ、職に就いているわけでもなかった。そういう曖昧な社会性が許された年代だったし、彼女には彼女特有の複雑な問題があるのだろうと思ったから、遼は彼女の身の上に関することについては詳しく聞かなかった。その当時、遼が彼女と共有していたものは非常に限られていて、そのうちの一つが「盗み」だった。


 ある日、時計が欲しいという絵里奈に連れられて、都内のあるデパートに行った。時計売り場をぐるりと一周した後、彼女はオメガのショーケースの前で足を止めた。

「やっぱり、これがいいわ」

 彼女がガラス越しに指さしたのは、並んだ時計の中では比較的シンプルなものだったが、それでもその当時遼が身に着けていた時計が三つ買える値段だった。

「これ、男物だよ?」

「父親の誕生日プレゼントだから」

「あ、そうなんだ」

「言わなかったかしら?」

「言われてないね」

 遼は当然その時計を買うものだと思った。しかし、一週間後、二人はその時計を盗むことになる。


「で、用って何?」

「言った側からその言い草?」

 絵里奈は自分のバッグに手を伸ばすと、紙の束を取り出し、無造作にテーブルに放る。ホッチキスで留められた一番上は新聞記事をコピーしたものだった。

「アライグマが三つ子を出産……」

 遼が見出しをそのまま音読する。

「今、タヌキの記事読んだでしょ?」

「アライグマだよ。違うのか?」

「五年ぶりに会って、アライグマの記事を見せると思う? 違うわよ。その下」

「『世界最大級のブルーダイヤ 横浜で一般公開』」

 遼は新聞記事に目を走らせ、二枚目以降のインターネットサイトのコピーやブルーダイヤの写真に素早く目を通してから、ため息を吐いた。


「これが?」

「盗みたいのよ。約束した通り」

「約束はしてない」と遼は指摘する。それからもう一度、今度は絵里奈に聞こえるように大きくため息を吐いた。

「正気なのか? 世界最大級のダイヤだ。というか、まだやってるのか?」

「人間、そう簡単には変わらないわよ。恋人を変えるみたいにはね」 

「俺は恋人もそう簡単には変えない」

「『できない』の間違いじゃなくて?」

 そう言って、いたずらっぽく笑った。

「どうしてこの宝石なんだ? お父さんの誕生日?」

「何、それ?」

「いや、別に。何にせよ、俺はやらないよ」

「なぜ?」

「なぜって、俺たちがこういうことをやっていたのは五年も昔の話だ。お互い歳も取って大人になった。社会的な常識も知った。俺たちはもうあの時ほど自由じゃない」

そういう遼の顔を絵里奈はまじまじと見つめていた。

「人って、五年も経つとつまらないことを言うようになっちゃうのね」

「それを常識って言うんだよ。もっとも五年前だとしても、俺はやらなかったけどね」

「どうして?」

「物がでかすぎる」

「三十カラットって言ったって、ポケットに入る程度だと思うけど」

 絵里奈は真顔で言った。

「そういう意味じゃない。危険すぎるって言ってるんだ」

「盗みも人生も、リスクがなくてどこが面白いのよ」

 どこかで聞いたようなセリフを言う絵里奈は、やはり真顔のままだった。


「俺たちは過去に何を盗んだ?」

「アウディのA4にオメガの腕時計、ミニチュア・ダックス、冷蔵庫……。優に三十は超えるけど未だに自由の身とは、立派な大泥棒じゃない? チャンピオンへの挑戦権が与えられても、誰も文句を言わない実績だと思うけど」

 遼はもう一度ため息を吐く。

「俺たちの実績から言えることがあるとすればただ一つ。俺たちはコソ泥に他ならないってことだけだ。ブルーダイヤの警備は、ペットショップの比じゃない。俺たちには無理だ」

「怖いんだ? 失敗するのが」

「餅は餅屋ってこと」

 そう言って、遼は絵里奈の手の中にある紙の束を顎でしゃくった。絵里奈が新聞のコピーに目を落とし、ふんと鼻先で笑う。三つ子のアライグマの隣に、「ビートルズ直筆の歌詞が盗難」の文字が躍る。

「カラス、ねぇ」


 カラス。自らそう名乗ったのか、誰かが名付けたのかはわからないが、その窃盗団はそう呼ばれていた。彼らは、もみあげが特徴的な細身の怪盗や変装が得意な黒マントの怪盗のように、事前に予告状を出したり、犯行現場に自らのサインを残したりといったいかにも怪盗めいたことはしないが、現金ではなく美術品のみをターゲットとすることやその手口の鮮やかさゆえに、マスコミは半ば面白がるように彼らのことを「怪盗」と称した。


「気に入らないわね」

「嫌いなんだ?」

「泥棒に人気はいらない」

「それはメディアが植え付けた単なるイメージだ。どちらかと言えば、彼らは静かに彼らの仕事をしているだけだよ」

「静かに?」

「あぁ。彼らは自分たちの手際の良さを見せつけるような真似や、いたずらにメディアや警察を挑発するようなことはしない。あくまで、だけを、できる限り目立たないように盗み出す」

「ふぅん。そういうものかしら」

「そういうものだよ。例えば、去年の夏」と遼はビールを持った手の人差し指を立て、天井を指し示した。まるでそこに「去年の夏」があるみたいに。


「彼らは、上野の美術館からエルスチールの『カルクチュイ港』を盗んだ。翌朝、ただのアスファルトの壁に大それたタイトルが付けられていることを警備員が発見するまで、誰もそれが盗まれたことには気がつかなかった」

「よくできました」と絵里奈が拍手の真似をする。

「いいかい、美術館のど真ん中にはモネやルノワールが飾ってあったのに、わざわざ一番奥の部屋の片隅にあったエルスチールを盗んだんだ」

「悪いけど、生まれてこの方美術館に行ったことがない人にもわかるように説明してくれる?」

「わかった。君はあるお金持ちの友達の家に遊びに行く。ドイツの川のほとりに建つ古城みたいな家だ」

「素敵ね」

「その友達のお母さんが君に言う。『うちのシェフが夕食を作ったから、あなたも食べて行きなさい』」

「『うちのシェフ』と来た」

「ダイニングルームに行くと、そこにはありとあらゆるごちそうが並べられている」

「待って。古城にある食事をするための場所は、ダイニングルームなんて呼ぶのかしら? いかにも庶民的じゃない?」

「いいかい、君が招待されたのは古城じゃない。古城みたいに素敵な、友達の家だ」

「ああ、そうだったわね」

「とにかく、そこには最高級のステーキに北京ダック、寿司にマルティニ・ガンスルもある」

「マルティニ・ガンスルって何?」

「オーストリアの伝統的なガチョウ料理だ」

「北京ダックがあるのに、ガチョウまで?」

「贅沢だろ? 目を輝かせている君に友達のお母さんが言う。『お好きなものをお好きなだけお食べ』 さぁ、君なら何を食べる?」

「そうね……」と絵里奈は束の間思案する。「まずはステーキ。その後にガチョウを試してみるわ」

「それが普通の泥棒だ」

「普通で悪かったわね」

「だがカラスは違う。彼らなら、そうだな、テーブルの端っこにある野菜炒めを食べる」

「ちょっと待って、野菜炒めがあるなんて言わなかったじゃない」と絵里奈は抗議する。

「それは想像力の問題だ」

「まぁ、いいわ。で、お肉が山ほどあるのに野菜炒めを食べるわけ?」

「そうだ。だけど、それはただの野菜炒めじゃない。フランスのある特定の地域のさらに限られた地形でしか採れない貴重な山菜を使ってる。見た目はほうれん草と大して変わらないんだけど、それはもう抜群にうまい」

「その貴重なほうれん草は、最高級のステーキよりも高いのかしら?」

「非常に現実的で泥棒として正しい質問だと思うけど、これは価値の問題であって、価格の問題じゃない」

「価格と価値は違う概念だと?」

「違う、と俺は思う。絶対的な価値なんてものは存在しない」

 そこで絵里奈は頭を掻き始めた。


「この話の教訓は何かしら?」

「この話に教訓なんてないよ」

「でも、わりと長い話だったわ」

「それは君が茶々を入れたからだ」と遼は反論する。「長くても教訓にならない話もある。強いて言うなら、それが教訓だ」

 絵里奈が鼻を鳴らす。


「この話を知ってる人は他にいるの?」と遼が尋ねる。

「ガチョウとほうれん草の話?」

「いや、君がブルーダイヤを盗もうとしてるってこと」

「私はあなたにしか話してないから、あなたが誰にも話してなければ、誰も知らないと思うけど」

 どこまで本気かわからない調子で冗談を口にするのは、彼女の常だった。

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