第二章 盗みの対象

1 二月の空、不意の電話

 高科遼は夢を見ていた。

 

 暗く長い廊下を必死に走っている。足が鉛のように重く、思うように前に進まない。誰かの叫び声を聞いた気がした。後ろを振り返るが、そこには闇があるだけだった。再び前を向き直ったとき、そこには道がない。とっさに両手を広げる。飛ぼうとしているのだ。飛べる。ごく自然に、そう考えている。しかし、広げた両手に翼はない。足が空を掻き、そして、落ちた。


 明るさに目がくらむ。遼は目を閉じ、瞼を透かす赤い光に目が慣れるのを待った。再び目を開けた時、そこには二月の空が待っていた。

 体を起こし、首をぐるりと回す。骨が二度、小気味よい音を立てた。


「昨日も午前様か?」

 声の方向を振り向くと、目と鼻の先に塩田がいた。首がもう一つ、ぽきりと鳴った。

「そんなふうに見えますか?」

「そんなふうにしか見えねぇよ。端的に言って」


 塩田は、不思議な男だった。エレベーターの制御装置で世界シェアの半分を占めるこの会社で、塩田は十余年、開発一筋でやってきた技術屋だった。そんな彼が昨秋異動となり、初めて開発の畑を離れ、総勢十数名の営業に実働部隊を束ねる統括マネージャーとしてやってきた。

 

 遼は彼の経歴からさぞかし実直で堅物の技術屋然とした男なのだろうと想像したが、実際にはその対極的な性格の持ち主だった。営業先では時事ネタから下ネタまで、幅広い話題について機知に富んだ会話を展開し、飲み会では誰よりも多くの酒を誰よりも陽気に飲んだ。一見すると、彼が絶対的な安全性を必要とする精密機械を設計していたとは到底思えなかった。だが、ふとした瞬間に垣間見える自社の製品に対する豊富な知識と絶対的な自信には、誰しもが技術屋としての彼の矜持を感じずにはいられなかった。


 塩田はダウンジャケットのポケットからラッキー・ストライクを取り出し、火をつけた。遼の隣に腰を下ろす。


「この屋上って、どうしていつも誰もいないんだろうな? こんなに気持ちがいいのに。今の時期はちょっと寒いけど」

「それは、扉に『立入禁止』の貼り紙がしてあるからじゃないですか?」

「じゃあ、どうしてベンチなんかあるんだ?」

「確かに」

 そう言ってベンチを見たところで、塩田の横に置いてある紙袋に目が留まった。

「それ、何ですか?」

「あぁ、これか? ケーキだよ。部長、今日が誕生日らしいからな」

「塩田さんって、気が利きますね」

「カレンダーの日付にこれ見よがしに花丸が付いてたら、訊かないわけにいかないだろう」と塩田は苦笑した。

「ありました? そんな花丸」

「あるよ。花丸あげたいくらい見事に綺麗な花丸が」


 塩田はそれからしばらく黙ってタバコを吹かしていたが、やがて何かを思い出したように、「お前の誕生日はいつだ?」と尋ねた。

「十二月五日です」

「同じだ」

「え?」

「ウォルト・ディズニーと同じ誕生日だ」

「あれ、塩田さん、よく知ってますね。そうなんですよ。ついでに言うと、『ディズニーと同じ日に生まれたのに、どうしてあなたには想像力がないの?』というのは、大学のときの彼女が僕の誕生日に発した言葉です」

「それはまた随分だな」と塩田は笑った。「その人とは?」

「それからすぐに別れました。でも、彼女はそれからも僕のアパートに通い続けたんです」

「というと?」

「僕の隣の部屋に同じ大学の後輩が住んでたんですけど、そいつと付き合いだしたんですよ。厳密にいえば、僕と付き合ってたときも、時々そいつの部屋に遊びに行ってたらしいです。二つの扉の前に立って、その日どちらをノックするか決めてたなんて、さすがのディズニーだって想像しませんよ」

「だろうな」と塩田は笑った。


「塩田さんはいつですか?」

「今言っても忘れるだろうから、近くなったら教えるよ。一週間でいいか?」

「何がですか?」

「プレゼントを選ぶための時間だよ」

「五千円くらいでいいですか?」

「何が?」

「プレゼントの値段です。これは時間ではなくてお金の問題ですよ。うちの会社の場合」

「言えてるな」

 遼たちは短く笑いあった。塩田が新しい煙草に火をつける。

「じゃあ、先に下りてます」

 遼がそう言うと、塩田は左手を上げた。

 

 昼休みをたっぷり二時間取ってデスクに戻ると、キーボードの上にメモが置いてあった。

「ミクニ様?」

 心当たりのない名前の人物からの着信を知らせるメモだった。


「随分長い昼休みだったじゃない?」

 斜向かいの席の二つ上の女性の先輩が皮肉っぽく言った。

「昼休みと一緒に、ずる休みも合わせて取ってきました」

「あなたがずる休みしてる間に電話があったわよ」

 どうやら電話を取ってくれたのは、その先輩のようだった。

「どちらのミクニさんですか?」

「私もそう聞いたんだけどね、『キューチのミクニです』って」

「キューチ? 社名ですか?」

「さぁ、あんまり訊くのも失礼だと思ったから、それ以上は訊かなかったけど」

「男性? 女性?」

「女性よ」

 そう言ってから、口元に笑みを浮かべる。

「もしかして、昔の彼女とか?」

 そう言われて遼の脳裏に浮かんだのは、先ほど塩田に話したディズニーの彼女だった。もちろん、彼女の名字は「ミクニ」ではない。

「先輩、想像力が豊かですね」

 そう言いながら、遼はメモに書いてある携帯電話の番号を回した。

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