5 敬意の証、よく似た背中
「早すぎましたかね」とボスが言った。
「余計な真似を」とヤニスが答える。
そもそもヤニスがこの店に来たのは、ボスに呼び出されたからだった。それにも関わらず、この男は指定の時間に三十分も遅れ、代わりにマルティナがいた。
カウンターの中のバーテンダーがボスに注文を尋ねた。
「彼と同じものを」
「ウィスキーは苦手なんじゃなかったのか?」
「何だか、今日は強めのお酒を飲みたい気分なんです」
「奇遇だな。私にもそういう夜がある。そして、今夜がそうだ」
そう言って、ヤニスがグラスを鳴らした。バーテンダーが静かに目礼する。
「マルティナとは、どんな話を?」
「ただの昔話だ」とヤニスは答える。「それと、これからの話も少し」
「そうですか」
そこでこの会話は途切れた。もとより、ボスも野暮をするつもりもない。
二人の前に二つのグラスが置かれる。
「過去との決裂に」
「カラスの勝利に」
眉間にしわを寄せチェイサーを注文するボスの横顔を、ヤニスが笑った。
「ジュエルは今どこに? 持ち主のほうです」
「今頃はベーリング海の上だろう」
「ニューヨークに戻ったんですか?」
「あぁ、そうらしい。あの人にとっては、侮辱以外の何物でもなかっただろうな。散々手玉に取られたうえに、自分の命より大切な三千万ドルの宝石が目の前にあるのに、誰も興味を示さなかったのだから」
「侮辱するつもりはなかったんですが」
「もう二度と日本に来ることはないだろう」
「それは申し訳ないことをしました。彼にも、日本の皆さんにも」
「ところで、『ジュエル』は本当にあるんですか?」
「どういう意味だ?」
「正直なところ、私には本物と模造品の見分けがつきません」
「ジュエルは三つのブルーダイヤを所有している。一つは『ジュエル』と名付けられた天然のブルーダイヤ、残りの二つはそれを精巧に模造し、人工的に生成したいわゆる合成ダイヤモンドだ」
「合成ダイヤモンド?」
「あぁ。炭素の純度で言えば、合成ダイヤモンドの方が高い。だが、市場価格は『ジュエル』の数パーセント程度に過ぎない」
数パーセントと言っても、「ジュエル」が三千万ドルだとすれば、数十万ドルの価値があるということになる。
「昨夜、ホテルの部屋から盗まれたものと金庫から持ち出されたものは、間違いなく模造品のほうだ。我々が展示会場で見たものが『ジュエル』と呼ばれるブルーダイヤだが、『ホープ』のかけらであることが『ジュエル』の条件だとすれば、残念ながらそれは私にもわからない」
ボスはヤニスの顔を見た。
「エレノアの父親の日記を知ってるんですか?」
「あぁ。私にとっては、マルティナの父親の日記だがな。昔、彼女が話してくれたことがある。ジュエルがあの宝石の存在を知ったのも、その日記からだ。だからこそ、彼はマルティナとエレノアに辿り着くことができた」
「ジュエルは、いったいどこでその日記を読んだんでしょうか?」
「さぁな。そういうことに関するあの人の嗅覚は特異だから」
ヤニスはそのことに関してはあまり興味がないようだった。
エレノアは父親の日記の存在を知らず、マルティナは知っていた。もしかすると、彼女ももともと知っていたのではなく、ジュエルが『ジュエル』のことをマルティナに尋ねた時に日記の話をしたのかもしれない。あるいは、マルティナが父親の工房で『ジュエル』を探している時に偶然発見した可能性もある。
そこでボスはふと思った。三國はどこで日記のことを知ったのか。エレノアが知らなかった以上、考えられる線はマルティナだった。マルティナから直接聞いたのか、あるいは間にドリスがいるのか。
この一カ月余り、毎日のように『ジュエル』のことを考えていたが、この宝石に関する全貌はわからないことだらけだった。
「いずれにしても、あなたの協力には感謝します。おかげで、危険を冒して金庫破りをすることなく、模造品の一つが手に入った」
ヤニスは、エアコンに催眠ガスが仕掛けられていることを知らされていた。だから、彼が倒れたのは演技だった。ジュエルが眠り、他のエージェントたちが二人組の強盗を追っている最中、ヤニスはホテルを抜け出し、模造品のブルーダイヤが保管されている貸金庫へと向かった。カードキーを所持していて暗証番号も知っているヤニスにとって、ブルーダイヤを持ち出すことはいとも容易いことだった。
「勘違いしないでくれ。私は確かにジュエルを裏切った。だが、君に協力をしたわけではない。その証拠に、警備体制やジュエルの動きを漏らすことはなかった。そうだろう? 私はただ金庫からダイヤを持ち出し、マルティナに渡した。それだけだ」
「そうですね」とボスは同意した。
ボスもその手の協力や内通をヤニスに求めはしなかった。ジュエルはヤニスにすべての情報を共有しないだろうと考えていた。場合によっては、故意に偽りの情報を与える可能性もあった。『ジュエル』のダミーの鍵を渡していたように。確度の低い情報に基づく計画は、失敗のリスクを増すだけだ。
「前にも言いましたが、これはビジネスでもなければ約束でもない。お互いがお互いの状況と情報を利用するだけです。だから、見返りも期待しない」
「その通りだ」
「ですが、ここは私に奢らせてください。これは対価ではなく、敬意の証です」
「やはり、面白い男だな」
そう言ってヤニスは笑った。
ボスが窓際の席を振り向き、ヤニスの視線もそれを追った。二つのよく似た背中が、お互いに寄り添うように並んでいた。それぞれ摘まんだブルーダイヤを顔の前で並べて、見比べている。二つのブルーダイヤは、まるで夜景の一部みたいに輝いていた。無数の街の灯りの前で二人の姉妹が二つのブルーダイヤを見つめる光景は、息を呑むほどに美しかった。
「また機会があれば、どこかで会いましょう」
やがてボスが言った。
「おそらく、ないがな」
ボスが席を立つ。二歩進んだところでわずかに振り向き、ヤニスの横顔に声を掛けた。
「新たな人生の成功を祈っています。トム・キャット」
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