4 月夜の記憶、希望のかたち

 ヤニスは待ち合わせの時間に少し遅れて、ランドマークタワー最上階のバー「シリウス」に到着した。店に入るとまず窓外の横浜の夜景が目に入る。それから、その夜景を見つめる女性の姿に気づき、驚いた後に、思わず心の中で悪態をついた。余計な真似を。声を掛けてきた店員を優しく制し、彼女の隣に並ぶ。

「嫌だったら、違う席にする」

 マルティナは少し驚いた表情でヤニスを見た後に、笑った。

「私ももういい大人よ」

 ヤニスはそれを許諾と受け取り、隣に腰を下ろした。店員にジョニー・ウォーカーを頼む。


 十代半ばだったヤニスを、彼の父親は知人だったジョン・ジュエルに託した。父親はヤニスを愛していたが、それと養うこととは全く別の問題だった。度合いの問題だとヤニスは考えていた。犬がどんなに好きでも、ペットショップでガラス越しに眺めるのと、自分のそばに置いて育てるのとではまるで違う話だ。そこには責任が伴う。父親は責任を負うことから逃げた。捨てられたのと同じだった。


 ジュエルはヤニスを可愛がることはなかった。彼の他の部下と同じように扱った。そういう意味では公平な男だった。初めのうちこそヤニスはジュエルを父親の代わりと思おうとしたが、やがてその努力は必要がないことを悟った。


 十年近くが経ち、二十代も半ばとなったヤニスは、ジュエルの側近でも最古参となった。ヤニスはその間、彼なりにジュエルに対して忠誠を尽くしてきたつもりだったが、ジュエルのヤニスに対する信頼や愛情は出会ったころと何一つ変わらなかった。ヤニスがジュエルのために捧げた十年という歳月は、ジュエルにとって毛ほどの意味もないようだった。駒の一つに過ぎなかったのだ。


 不満を抱きつつも、ジュエルに仕え続けたヤニスの忠誠心に疑念が生じたきっかけは、他ならないマルティナだった。

 ある時、ジュエルは一人で南米に出かけた。一番の側近であるヤニスさえ従えずに一人で行動することは珍しくなかったが、それは決まって後ろ暗い案件の場合だった。帰国したジュエルは、一つのブルーダイヤと一人の若くて美しい女性を連れて帰った。それが「ジュエル」とマルティナだった。

 マルティナは誰がどう見てもジュエルの新しい愛人であり、事実、ジュエルは彼女を溺愛していた。マルティナは広告塔としても値千金の働きをした。彼女がほとんどヌードのような恰好でネックレスを握りしめた写真は、未だにオフィシャル・サイトのトップページを飾っている。素性の知れない彼女を、ヤニスたち側近は一定の距離を保ちながらも、いつものように温かく迎え入れた。


 ある夜、ふとしたきっかけでヤニスはマルティナと二人きりになった。マルティナは自分の生い立ちについては何一つ語らなかったが、代わりに彼の胸で一晩中泣いた。それはヤニスがマルティナと恋に落ちた瞬間だった。それからしばらくの間、ほんの時折、ヤニスは人目を憚ってマルティナと時間を過ごすようになった。二人が肌を重ねあう夜は、決まっていつも月が世界を明るく照らしていた。


 運ばれてきたジョニー・ウォーカーのグラスを、ヤニスはマルティナのそれと合わせることなく口に運んだ。

「なぜ日本に来たんだ?」

 しばらくしてヤニスがマルティナに尋ねる。マルティナは微かに笑みをこぼした。

「はめられたんだ」

「はめられた?」

「それを私の意志と置き換えるなら、妹に会いにきた」

「エレノアか」

「あの子のことを知っているの?」

「君が思っている以上に、私は君に興味があるんだよ」とヤニスは笑った。

「今でも?」

「今でも、だ」

 二人の間の空白を名前の知らないジャズが埋める。


「今は何をしてる?」

「必死に生きてるわ。ニューヨークの片隅で」

「ドリス・ペインの意志を継いで?」

 マルティナはもう驚かなかった。

「犯罪に後継者は存在しない」

「これからもそうやって生きるのか?」

 それがヤニスの精一杯の言葉だった。

「それしか私の生きる道はない」

「私は」とヤニスは言った。「私は、君を愛している」

「今でも?」

「今でも、だ」


 二人が愛し合うようになって一年が経ったころ、マルティナは姿を消した。何の前触れもなかった。少なくとも、ヤニスに対する別れの言葉はなかった。ジュエルが捨てたのだと、周囲の人間は誰もが考えた。ヤニスも同じだった。


 自分の胸にぽっかりと空いた穴を埋めるように、ヤニスは必死にマルティナの行方を探った。だが、これといってめぼしい情報は得られなかった。行き場のない思いは、ジュエルへの恨みとなった。その寝首を掻いてやろうと思ったことさえあったが、もちろんヤニスにできるわけはなかった。彼にできたことは、他人の手によって最愛のものが失われてしまう不条理を恨み、己の無力さを悔いることだけだった。

 それから数年が経ち、やっとマルティナを思い出すのが月の明るい夜だけになったころ、テレビのニュースでニューヨークを中心に頻発している宝石強盗のことを知った。犯人と思われる若い女性のイラストを見た時、ヤニスはそれがマルティナだと確信した。


「なぜ、私たちのもとからいなくなった?」

 ヤニスはずっと気になっていたことをついに口にした。言葉にした後も、それを聞くべきだったのかどうか迷っていた。マルティナはグラスの中の氷を黙って見つめていたが、やがて重い口を開いた。

「ベネズエラで暮らしていたころ、私たちは貧しかった。木を削り、布を織り、酒を注いで何とか日々を送っていた私たちにとって、金に不自由しない生活というのは遠い世界の話だった。望むことすらなかった。だってそうでしょ? 水の中を泳ぐ魚は、空を飛ぶ鳥に嫉妬なんかしない。もともと住む世界が違う、そう思っていた。それが、あの男が現れた瞬間に一変した。あいつは白のスーツと金歯でベネズエラの誰も知らない村に乗り込んできて、三万ドルで私たちの頬を殴りつけたのよ。『今日を生きることがそんなに大変か?』 そう言われた気がした」


 マルティナはグラスから夜景に目を上げた。

「私は違う世界に生きることを選んだ。エレノアを残して。でも手に入れてみて気がついたの。それは私が望んでいた生活ではないことに。好きなものが買えて、食べ物に困らない。それは裕福な生活ではあったけど、幸せではなかった。不思議なものよね。エレノアと二人で夜中まで酔っ払いの相手をしていた生活が恋しかった。だから、私はすべてを捨てて、もう一度自分の力で生きることを選んだ」

 ヤニスは続きを待ったが、マルティナはそれ以上語るつもりはないようだった。


「ジュエルに捨てられたとか、追い出されたわけではなくて?」

「あの人は女を捨てるほど、まめな人間じゃないわ」とマルティナは笑った。「猫と一緒よ。気が向いた時だけすり寄ってきて、次の瞬間にはもう知らぬ顔。わざわざ捨てる手間を掛けるくらいなら、そのままほったらかす。そういう男よ」

 マルティナは、大きなため息を吐いた。それから、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「あの人を裏切ったことを後悔した?」

「いや、まったく」とヤニスは即答する。


「あの男は私に可能性を示してくれた。その点では感謝してるわ。でも、私を救いはしなかった。私を救ってくれたのは、ドリスであり、あなたよ」

 その言葉にヤニスは驚いた表情を浮かべた。

「私が?」

 マルティナが頷く。

「ベネズエラの生活は恋しかったけど、私が一番幸せだったのはあなたといた時だった。自分が生きている意味を実感できた」

 ヤニスはマルティナを抱きしめたい衝動に駆られた。だが、ヤニスを見たマルティナの優しさに満ちた目は、二人の時間がとうの昔に過去のものであることを物語っていた。

 

 その時、入り口に二人の人影が立った。ヤニスがそれを目の端で捉える。マルティナもヤニスの視線に気がつき、ガラス越しに入り口に目をやった。

「『僕は君よりも弱かった』 あの時、あなたはそう言ったわ」

 マルティナがヤニスの胸で泣いた、あの夜のことだった。

「覚えてる」

「だけど、あなたは強くなった。自分の手で自分の未来を決めることを選んだ。だから、私もそうするわ。あなたが柔道で過去と決別したみたいにね」

 マルティナが笑い、ヤニスも笑った。

「また会いましょう」

 それは、別れの時であることを示していた。ヤニスは席を立った。


「これを君に。君の未来が、希望に満ちたものになるように」

 マルティナがヤニスの手の中の物を見る。

「それは、『ホープ希望』のかけらじゃないんでしょ?」

「違う。希望は自分で生み出すものだ。そして、目に見えない」

「そうかしら? 目に見える希望もあると思うけど」

 マルティナは入り口を見た。おそらくはそこに立つエレノアを。

「また、会いましょう」


 再び言ったマルティナの言葉に、ヤニスは優しい笑みだけを浮かべた。

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