11 本当に価値があるもの、ちっぽけな人生
「外は月が綺麗な静夜ですよ」
新たな声が加わる。「落ち着いた音楽と強めの酒が似つかわしい夜です。ジャズがいい。曲は、そうだな……」
「ビリー・ホリデイが歌う『Blue Moon』」
「素晴らしい選曲です」とボスはヤニスに同意する。
「お前……やはり、お前もカラスか。どこから入った?」
「そこの入り口から。他にもあるんですか、入り口?」
ジュエルが舌打ちをし、「鍵を掛けろ!」と警備責任者に向かって直接言う。状況を理解できずに狼狽しきりの警備責任者は、それでも彼の英語の指示を理解したらしく、入り口に向かって小走りに駆け寄る。
「あ、その前にお客さんです。たぶんあなたのお知り合いかと」
後ろから現れた人物を見て最初に声を上げたのは、ヤニスだった。
「マルティナ……」
「……なぜここに?」とジュエルも呟く。
「あら、十年ぶりだっていうのに随分じゃない? わざわざ、ジュエルと『ジュエル』に会いに来たっていうのに」
「自分から出て行ったくせに、笑わせるな。お前もこれが欲しいんだろう? どいつもこいつも、ハゲタカのように私の宝石に群がりおって」
「何か勘違いしてるんじゃない? その石はもともと私たちのものよ」
「姉妹そろって同じことを。まぁ、いい。マルティナにエレノア、それにカラス。お前たちで血みどろの三つ巴でもやればいい。そうだ、『ジュエル』は勝者にくれてやる。まずはお前らで潰しあえ!」
そう言ってジュエルは高らかに笑った。もちろん、ほかに笑う者はいなかった。ジュエルの笑い声が虚しさを伴って止むと、場違いな静けさが辺りを支配した。
「潰しあうのはいいんですが、くじ引きで決めるにしても決闘で決めるにしても、それなりに時間と労力がかかるので、まずは意思確認と情報整理をしましょう」
ボスが定例会議の司会者のように事務的に言う。
「賛成ね」と女が答える。
「では、あのブルーダイヤが欲しい人は挙手を」
その問いに、手を上げる者はいなかった。
「盗む必要はなくなったわ」とマルティナが言う。「ある人に頼まれたから最初はそのつもりだったけど、本当は石なんかどうでもよくて、私を日本に来るように仕向けた目的は別のところにあるみたいだから」
「エレノアの回答を代弁すれば、彼女も興味はないようです。偽物を見た時点でもう用は済んだと」
「念のため言わせてもらうと、俺たちカラスもブルーダイヤとやらに興味はない。俺たちが欲しいのは、この『最も完璧に近い存在』だけ。そうだろ、ボス?」
そう言うと、男は「ジュエル」を台座から外し、展示ケースの中に戻した。ヤニスが施錠する。
「…‥どういうことだ?」
「我々カラスは、本当に価値があるものにしか興味はありません。あのブルーダイヤは確かに見事です。だが、所詮はただの鉱物。値段など人間が勝手に付けたものにすぎない」
男がボスに歩み寄り、手にしたものを手渡す。
「我々が欲しいのは、この台座です」
「……なんだと?」
「これは、ある一流の家具職人が」
ボスはマルティナを見やった。「マルティナとエレノアの父親が、多くの時間と才能を費やし、ただの木に命を吹き込んだものです。実に尊く、美しい。カラスが狙っていたのは、最初からこの台座だけです」
「これではっきりしたわね」と女が言う。「あなたの大切なブルーダイヤは0票獲得。引き続きあなたのものよ。おめでとう」
「潰しあいに無駄な時間と労力を割かずに済んだな」
「ふ、ふざけるな!」
「あら、大真面目だけど」
「三千万ドルのブルーダイヤよりも、そんな木彫りに価値があるだと?」
「だから、値段は関係ないんだってば。高級店の最上級ステーキがおいしいのは当たり前。でも、自家製野菜を煮込んで作ったシチューがもっとおいしいこともある」
「この傑作の価値がわからないとはな。カラスがねぐらに持って帰ったほうが、報われるというものだ」
「ただ、『ジュエル』と同じく、この台座も元はと言えばマルティナたちのものです」
そう言って、ボスは窺うようにマルティナを見る。
「持ち主に遠慮する泥棒を初めて見たわ」とマルティナが笑う。「私は構わない。価値がわかる人が持っていてくれたほうが、死んだ父親も浮かばれるってものよ。ただ、今思い出したんだけど、その台座の裏に……」
「くそっ、くそぉっ!」
突如、雄叫びを上げながらジュエルが獣のごとく突進してきた。マルティナに肩からぶつかる。悲鳴を上げて床に転がるマルティナに目もくれずに、ジュエルはヤニスの襟元にしがみついた。
「すべて貴様のせいだ! 恥を知れ! よくも、よくも恩を仇で返しやがったな。覚えておけ! 今のお前があるのはこの私のおかげだ。お前の地位も肩書も財力も、すべて私がくれてやったものだ。その気になれば、お前のちっぽけな人生など簡単に……」
その時、ジュエルの体がふわりと宙に浮いた。ヤニスが素早く体をひねる。空中で一回転したジュエルは背中から床に落ちた。どすん、という鈍い音が響く。
「一本!」と男がヤニスの一本背負いに判定を下した。
「あなたに物の価値や人の痛みがわからないのは、私のせいではない」とヤニスがスーツを直しながら静かに言った。「あなたには感謝しています。私はあなたによって救われた。だが、私の人生はあなたのものではない。私のものだ。恩義は長年の奉仕で返してきた。これからの人生は、私が決める」
ヤニスはマルティナに歩み寄ると、そっと手を差し伸べた。マルティナがその手を掴み、立ち上がる。二人の視線が交錯したのはほんの束の間だった。ヤニスはすぐにマルティナの手を離した。ジュエルに一瞥をくれ、ゆっくりと出口に向かって歩き出す。カラスの三人とマルティナがそれに続いた。
会場を出ると、ジュエルの手下が集結していた。皆一様にヤニスの顔を見つめている。
「『ジュエル』は無事だ。一刻も早く防犯設備を復帰させろ」
ヤニスはジュエルの部下として、最後の役目を果たしたのだった。
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