10 忠誠心の消失、月の綺麗な静夜
青白く浮かび上がるショッピングモールは、巨大な船舶の内部を思わせた。いくつかの足音が複雑に四方の壁に反響し、虚ろな音色を奏でていた。
遼と絵里奈を追っていった二人のエージェントはまだ戻っていなかったため、ジュエルの手駒は六人だけだった。二人をホテルからランドマークプラザに抜けるドアの脇に、他の二人を展示会場であるランドマークホールの入り口に残し、警備会社の責任者を先頭に、ヤニスと通訳を連れたジュエルが会場の中へと入っていった。
非常灯の頼りない光の中に、数十個の宝石が並んでいる。警備責任者が持つ懐中電灯の明かりが、部屋の中央を照らした。一際大きな青い宝石がきらきらとした光を反射する。ジュエルは歩みを進めた。
「ジュエル」はそこにあった。昼間と何ら変わりなく。ジュエルはしばらく見つめていたが、やがて踵を返した。
「開けなくていいんですか?」
警備責任者がジュエルではなく、通訳に向かって尋ねる。通訳がそれをジュエルに向かって訳した。三角の辺を描くようにジュエルの視線が、警備責任者に向く。
「開けてほしいのか?」
通訳が訳す。
「本物かどうか、手にとって確認したほうがいいんじゃないですか?」
「その必要はない。それとも、開けてほしいのか?」
沈黙が訪れる。
「こいつに、『社名と役職、フルネームを言え』と伝えろ」
ジュエルが通訳に言い、通訳が忠実に訳す。一瞬の沈黙の後、男は求められた情報を諳んじた。同時に内ポケットから名刺を取り出し、通訳に渡す。
「合ってます」
「会社の住所は?」
「え?」
「その名刺に書いている会社の住所を答えさせろ」
この質問に警備責任者は窮した。
「自分の会社の住所がわからないのか? いいだろう、質問を変えよう。お前はカラスか?」
再び沈黙が訪れた。
「もし彼がカラスだとして、自ら名乗るほどお人好しの泥棒がいるとは思えないがな」
新たな足音とともに、カラスの二人が現れる。ジュエルの表情にこれまであった余裕が薄れ、その分緊張感が増した。
「お前たち、どこから入ってきた?」
「どこって、皆さんと同じところからよ。他にも出入り口があるなら、教えてほしいわ」
「どうやって?」
「私が通しました」
二人の後ろでヤニスが答えた。
「ちなみに彼は、ちょっとおせっかいで自分の会社の住所を覚えていないだけの、正真正銘本物の警備員よ。だから危害は加えないであげて」
「貴様……裏切ったな」
ジュエルはヤニスを睨みつける。
「裏切りというのが、あなたに対する私の忠誠心の消失を指すのであれば、もう随分前からあなたは裏切られています。あなたが気づかなかっただけだ。なぜだがわかりますか?」
「何を言っている?」
「あなたにとって私が取るに足らない存在だったからです。あなたに対する忠誠心を求めるほど、あなたは私のことを重要と考えていなかった。それをこの期に及んで、裏切りだのと騒ぎ立てられるのは心外です」
「黙れ!」
ジュエルは叫んだ。「お前はクビだ。今すぐここから出ていけ!」
「そういうわけにもいかない。まだやらなければならないことがある」
そう言うと、ヤニスは部屋の中央に向かって歩を進め始めた。「それが終わったら、お望み通りあなたの前から姿を消します」
不意にジュエルが声を立てて笑い始めた。
「いいだろう。お前のやるべきこととやらをやればいい。お前に何ができる?」
ヤニスがジュエルの横に並びかけた時、ジュエルがヤニスの喉元を鷲づかみにした。
「恩知らずが! 親父に見捨てられたお前を拾ったのは誰だ? 私の助けがなければ、お前は今頃スラムの泥水を飲んでいた」
ヤニスは自分の首に伸びたジュエルの手を掴むと、右足の裏でジュエルの腹部を強かに蹴り飛ばした。ジュエルが呻き声を上げ、膝から崩れ落ちるが、ヤニスは掴んだ手を離さなかった。
「あなたには感謝しています。だが、どんな従順な飼い犬も餌を与えられなければ、主人の手を噛みます」
ヤニスはジュエルの手首を握る手に力を込めたが、やがてそれを離した。
「話が済んだんだったら、これを開けてもらえるか?」
男が言った。
ヤニスは「ジュエル」の入っている展示ケースの前に立つと、ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に挿しこんだ。そこで手が止まる。
「どうした?」
「鍵が回らない」
「何? 違う鍵なんじゃないか? この場面で、『これは私の家の鍵だった』なんてアメリカン・ジョークは笑えないぞ」
くくくっと噛み殺した笑いを漏らしたのはジュエルだった。
「そいつの鍵では開かないさ。偽物だからな。笑えるだろ?」
「どういうことよ?」
少し離れたところで事の経緯を見守っていた女が近寄る。
「そのケースの鍵は一つしか存在しない。そしてそれは私が持っている。そいつに渡してあったのはダミーだよ」
「ダミーって、自分の部下を騙してたってこと?」
「敵を欺くにはまず味方からと言うだろ?」
「やはり、ですか。そんなことだと思いました。あなたは私を信用していない」
「なぜしなくてはならない? 現に、お前はこうして私を裏切った」
「えぇ、お互い様です。文句を言うつもりはない」
「言っておくが、」とジュエルは、その台詞を男と女を交互に見回しながら言った。「その鍵を私は今持っていない。用心深い質でな。こんなこともあるかと思って、隠してきた」
男は大きなため息を吐いた。
「どうしてまたそんな面倒なことを。おとなしく差し出せばそれで済んだものを、これでは拷問をしてくれと言っているようなものだ。好きなのか? 拷問されるのが」
ジュエルは勘弁してくれというように、両手を上げた。
「あいにく、そんな趣味はない。それにそんな時間もないだろう。外の部下に、十分経っても我々が戻らなければ警察を呼ぶように伝えてある」
男と女は同時に腕時計に目を落とした。二人ともジュエルが会場に入った時間を覚えてはいなかったが、十分はとうに過ぎているはずだった。
「なら、急ごう」
そう言ったのはヤニスで、その言葉と同時に挿しこんであった鍵を右に回した。展示ケースが音もなく開く。ヤニスは、遠慮がちなマジシャンみたいにケースの中の「ジュエル」を皆に披露した。目で男に合図を送る。
「な、なぜだ?」
ジュエルはややあってから、そう尋ねるのが精いっぱいだった。
「私が持っていた鍵は確かに偽物だったかもしれないが、いまそれを持っているのはあなただ。私が今持っている鍵は、あなたが持っていた本物の鍵だ」
「早口言葉みたいね」と女が言う。
「いつの間に?」
「あなたが寝ていた間ですよ」
ジュエルがはっとする。こいつが倒れたのは演技だった……。
「やはり、あの二人もお前たちの仲間か?」
「どの二人よ?」
「それに触るな!」
男がケースの中から「ジュエル」を台座ごと取り出していた。ジュエルが立ちあがる。
「まぁ、いい。どのみち、お前たちはここからは出られない。今ごろ外は赤色灯に囲まれているだろう」
そこに新たな足音が木霊した。
「外は月が綺麗な静夜ですよ」
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