8 「ジュエル」の真贋、答えは「ノー」

 二十一時半。辛くもジュエルからジュラルミンケースを奪った後、追っ手を巻いた遼たち四人は三國の自宅、つまり絵里奈の自宅に集まっていた。

 セガールが鍵のかかったジュラルミンケースを抱きかかえている。「この程度のロックなら、三分もあれば開くだろう」と豪語し、豪快に笑い、およそその巨体に似つかわしくない細かな作業を始めてから、かれこれ三十分が経過していた。


「よし、開いたぞ!」と何の前触れもなくセガールが声を上げた。

「あなたの三分って、私の三分より随分長いのね」と絵里奈が皮肉を口にする。

 セガールがもったいぶるように、ゆっくりとケースを開ける。敷き詰められた赤いクッション材の中央に、「ジュエル」が無造作に置かれていた。台座やその他の備品は何も入っていない。誰も言葉を発さず、手に取ろうともしないので、遼が手袋をしてそれを摘み上げる。

「これが、もともと君の……君たちが持っていた宝石なのか?」

 三國の前で「お父さん」と言うことに気が引けた遼は言い直した。絵里奈はそんなことを気にする様子もなく、しばらく「ジュエル」を見つめていたが、やがて諦めたように身を投げ出した。

「わからないわ」


「じゃあ、試してみよう」

 そう言うと、遼は「ジュエル」をテーブルの上に置き、ポケットからペンライトのようなものを取り出した。「絵里奈、電気を消してくれ」

「何をするの?」

 怪訝がる絵里奈に、三國が先日遼にしたものと同じ説明をして聞かせた。セガールも興味深そうに聞いている。「ジュエル」が「ホープ」と同一の石である可能性から説明が始まっているところをみると、絵里奈は父親の日記の存在を知らなかったようだ。

 二人のやり取りを聞きながら、遼はブラックライトを「ジュエル」に向かって当て続ける。青の深さが増したようには見えるが、今のところ赤く発光する様子はない。三國の話が終わったのを合図に、遼はライトを消した。ジュエルは微々たる光りを発することもなく、闇の中に沈んだ。絵里奈が席を立った気配があり、少しして明かりがつく。


「これって、つまりどういうことかしら?」

「可能性は三つだろう」と三國が言った。「一、これは『ジュエル』であり、『ジュエル』は『ホープ』とは別のブルーダイヤだった。二、これは『ジュエル』ではない他のブルーダイヤである。三、これは『ジュエル』ではなく、ブルーダイヤでもない」

「一と二なら構わないけど、三は許せないわね」

「もう一つ可能性がある」と遼が三人の目を順番に見つめる。「これはブルーダイヤではないが、『ジュエル』である」

 三人が考える間が空く。


「どういうこと?」

「なるほど」と三國が口元に微かに笑みを浮かべる。「『ジュエル』なんていうブルーダイヤは初めから存在していなかった。ジュエルは模造品を使って、金儲けをしているに過ぎないというわけか」

「ちょっと待って、初めから存在してないって……じゃあ私の父親が所有していた宝石は何だっていうの? あの金は?」

「金?」とセガールが聞き返す。

「いや、何でもない」

「別のものへの対価かもしれない」

 遼の言葉に絵里奈はわずかな間沈黙したが、すぐに首を振って自らの思考を否定した。

「そんなはずない。第一、今まで何百万人も目にして、誰もそれが偽物だってことに気づかなかったなんて」

「目にしたと言っても、大半は素人が遠巻きに眺めただけだ。プロが仔細に調べない限り、真贋の判定は難しいだろう」

「それにしたって、ジュエル以外の専門家も鑑定しただろうし、科学的な分析も行われているんじゃない?」

「全員がグルだった、あるいは、ジュエルに買収されていたとしたら?」

「そんなことって……」

「世の中、『どうして誰も気づかなかったんだ』って後になれば思うようなことが、実際に起こるからな」

 セガールが感慨深げに言う。

「ジュエルが『ジュエル』を肌身離さず持ち歩くのは、秘密が漏れるのを恐れているからとも言える」

 三國もそう言って、考え込む。

「ちょっと、皆どうかしちゃったんじゃないの? 私がこんなこと言うことは滅多にないけど、それってかなり突飛で非現実的じゃない?」

 確かに、突飛で非現実的なことを言うのは絵里奈の役回りで、いつもとは構図が逆だった。

「あくまで可能性の話だ」と最後に遼が付け加えた。


「これが、そもそもダイヤモンドかどうか調べる方法はないの?」

 絵里奈が誰にともなく尋ねる。

「いくつかある」と三國が答える。「例えばモース硬度を利用した方法だ」

「モールス信号?」と絵里奈が遼を見る。

「モース硬度。鉱物同士を擦り合わせた時にどちらに傷が付くかで、鉱物の硬度を一から十まで数値化したものだ。ダイヤモンドは最高値の十。世の中にダイヤモンドより硬いものはない。つまり、他のどんなもので引っ掻いても、傷が付かない」

「あなたって本当に勤勉な日本人」と絵里奈は感心する。

「つまり、このようなやすりで擦っても、ダイヤモンドであれば傷がつかず、やすりのほうが削れる」

 三國はどこからか工具箱を持ってくると、中から棒状の鉄やすりを取り出した。

「では、私が」

 実作業は自分の仕事と心得ているのか、セガールが率先して名乗りを上げる。左手に『ジュエル』、右手にやすりを構えると、親の仇のように擦り始めた。

「私があの石だったら、とっくに自白してるわ」と絵里奈が眉間にしわを寄せて言う。それから数十秒、セガールは規則的に右手を動かし続けたが、やすりの目が潰れたこと以外にさしたる成果はなかった。


「無傷ね」と絵里奈はセガールの労を労うこともない。「つまり、これはダイヤってこと?」

「いや、これは鉄より硬い何かだってこと」

「それじゃあ、やった意味ないじゃない!」

「もし傷が付けば、ダイヤじゃないってことははっきりしたんだ。やる価値はあったよ」

 遼はあまりにセガールが不憫に思えて、弁解した。

「じゃあ、何で擦れば、ダイヤかどうかはっきりするのよ?」

「この世で二番目に硬いもの。確か、ルビーとサファイアだ」

「じゃあ、ルビーかサファイアを盗まなきゃならないじゃない。で、それがルビーかサファイアかを確かめるために、この世で三番目に硬いものを盗むわけね」

「盗みの上塗りだな」とセガールが指摘する。

「モース硬度以外にもダイヤの真贋を見分ける方法はあるが、いずれにしても我々がその道の専門家じゃない以上、断定することは難しいだろう」

 各々の口からため息が漏れた。時計が時間を刻む音が聞こえる。

「とりあえず」とまだ催眠ガスの影響が残っているらしい絵里奈があくび交じりに言う。「私は寝るわ。もう眠くて眠くて……」


 リビングを出ていく絵里奈の後ろ姿を遼が追った。部屋に入ろうとするところに声を掛ける。

「本当に『ジュエル』が欲しいのか?」

「どういう意味?」

「本当は石に興味はない。違うか?」

 絵里奈は少しの間沈黙した。

「私とお姉ちゃんの話、あの人から聞いたんでしょ?」

 遼が頷く。

「私とお姉ちゃんを結びつけるものはあのダイヤしかないのよ。だから、ちょっと見てみたかっただけ。見たいって思うってことは、まだ過去に囚われてるってことでしょ? だから、あの宝石を見て、気持ちに、何て言うか、こう、区切りみたいなものを付けたかったのよ。わかるかしら?」

「わかる、気がする」

「でも、本物かどうかは別として、自分の手であいつから宝石を取り返して、この目で実物を見てみてわかった。別に区切りなんて付かない。忘れるまで、過去と付き合っていかなきゃならないのよ。というわけで、あなたの質問に対する答えは『ノー』よ」

 そう言うと絵里奈は扉の向こうに消えた。

「『ノー』って、どっちだよ」


 リビングに戻ると三國がワインの栓を抜いているところだった。

「君も一緒にどうだい? 今日は泊っていけばいい。これが本物か偽物か判断がつかない限り、めでたしめでたしというわけにもいかないからね」

「そうですね。でもワインは遠慮しておきます。考えを整理したいんで、ちょっと外に出てきます」

「そうか。では、玄関の鍵を開けておこう」

「ありがとうございます」

「戻るわけじゃないだろうね?」

 コートを手に取った遼の動作が止まる。静寂が訪れた。

「戻るって、どこにですか?」

 三國がわずかに口元を緩める。

「まぁいい。これを持っていきなさい」

 そう言って放った何かを遼が受け取る。車の鍵だった。「自由に使ってくれていい」


 遼は礼を言うと、再びコートを羽織った。

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