6 最上階からの脱出、穏やかな寝息

「お前たち……何をした?」

 ジュエルが虚ろな声をあげる。

「何も」と絵里奈が答え、口に当てたマスクを正した。

 ジュエルがはっとした表情を見せ、倒れたトムの頭上に目をやった。天井のすぐ下、壁の高い位置にエアコンの吹き出し口があった。

「あいにく、用心深さでは私たちも負けてないのよ」

 そう言った絵里奈の言葉を聞き遂げると、ジュエルは何かに屈したように膝を折った。

「こいつらを……」

 ジュエルはジェリーに向かって指示を出そうとしたようだが、言い終わる前に力尽きてソファに突っ伏した。吹き出し口の裏側の位置にいるジェリーは、両腕を低い位置で構え腰を落としたまま、目だけが忙しなく左右に動かしている。この期に及んでも武器を取り出さないということは、どうやら丸腰のようだった。


 絵里奈は再び腰から銃を取り出し、ゆっくりとジェリーに向かって構えた。そのまま二歩、三歩と歩み寄る。ジェリーはまるで対極の磁石のようにじりじりと後ろに下がる。二人の距離がわずかに縮まったところで、絵里奈は躊躇なく引き金を引いた。ポン、という気の抜けた音とともに、白い紐状の物が銃口から飛び出る。それは空中で広がって網の目になり、前方からジェリーを包み込んだ。驚いたジェリーはその場に尻餅をついた。必死にもがいているが、もがけばもがくほど、粘着質の防犯用ネットは執拗に絡みつく。


 遼はソファに顔を埋めているジュエルを仰向けにし、頬を二度平手で軽く叩いた。小さな唸り声をあげたが、起きる気配はない。素早くポケットを探る。絵里奈を見ると、トムの体の下になったジュラルミンケースをやっとのことで抜き出したところだった。


 すでにおとなしくなっていたジェリーの横をすり抜け、出口を目指す。と、遼の後ろで短い悲鳴が聞こえた。振り返ると、ジェリーが絵里奈の足首を掴んでいた。遼が救出に戻るよりも早く、ハイヒールを履いた絵里奈の右足がジェリーの顔面にめり込んだ。ジェリーのうめき声を残して、二人は部屋を飛び出る。遼は思いっきり息を吐き出し、すぐに深く吸い込む。心臓が激しく波打っているのを感じた。


 遼たちの息が整うの待つ間もなくエレベーターの扉が開き、スーツの男たちが箱から出てくる。遼は従業員用のエレベーターに向かって駆けだした。絵里奈が後を追う。背後で叫ぶ声が聞こえた。

 コーナーを折れ、のっぺりとした扉の横のボタンを連打する。遼の予想に反して、ドアはすぐには開かない。およそホテルの、それも最上階のスウィートのフロアには似つかわしくないバタバタという足音は確実に近づいている。


 非常階段を使うか? 一瞬遼は迷ったが、すぐにその考えを却下した。絵里奈はハイヒールだ。脱いだとしても最上階から地上まで下りられるとは到底思えなかったし、どこかのタイミングで追いつかれるのが関の山だ。それにジュエルの部下に押さえられている危険性がある。何の表示もない、従業員用のリフトに彼らが気づいていない可能性に賭けるのが最善に思われた。


 ついに追っ手が姿を見せたが、エレベーターはまだ到着しない。三人。それ以上は来ないようだった。遼は銃口を追っ手に向ける。急ブレーキをかけた拍子に、先頭を走っていた男が足を滑らせて転んだ。その時、ようやく扉が開いた。中は空だ。絵里奈が先に乗り込み、遼も相手を威嚇したまま後ろ向きに続く。扉がやきもきするような緩慢な動きで閉まる。

 遼と絵里奈はマスクを外すと、そろって大きく息を吐き出した。


「途中で止まらずに地上階まで行ってくれればいいけど」

「大丈夫だ」

「催眠ガスを仕掛けておいて正解だったわね」と絵里奈が言う。「息止めの技術が役に立つことって、意外とあるのね」

「でも、君はエアコンを付けた後も随分ジュエルと話しこんでたけど、大丈夫なのか?」

「息を吐きはしたけど、吸わないようにしたから。もともと標高の高いところで生まれ育ったから、肺活量には自信があるのよ」

 三國が、絵里奈の故郷がギアナ高地の近くだと言っていたことを思い出す。

「で、この後は?」

「開いた扉の向こうに黒ずくめの男たちがいないことを祈る。祈りが通じたら、できるだけ素早くホテルを出る方法を考える」

「今考えるべきじゃない?」

「その言い方は、まるで君が今は考えてないように聞こえる」

「考えてるわよ、もちろん」


 エレベーターが地上階に到着し、遼は腰にはさんだ銃に手をかける。ゆっくりと扉が開く。そこに人の姿はない。遼は外の安全を確認し、絵里奈に目配せをすると、ゆっくりと廊下を進み始める。


 ロビーには、二人が去った時から大きな変化は起こっていなかった。フロントにはホテルマンが等間隔に並び、スーツケースを引いた何人かの客が順番を待っていた。足早に出口を目指そうとする絵里奈の腕を遼が掴んだ。顎で出口の方向を示す。回転扉の向こうに白いベンツが停まっていた。その脇で背広姿の男が二人、煙草を吹かしながらも鋭い視線をホテルの中に向けている。遼と絵里奈の視線が同時に背広の二人のそれと交わった。示し合わせたように、二人が同時にタバコを地面に落とす。突入しようとする彼らの行く手を回転扉が束の間だけ阻む。


「どうする?」

「裏に回ろう」

 駐車場に続く別の出入り口があるはずだった。回れ右をして駆け出した遼は、しかし、すぐに足を止めた。黒いコートを着た二人組が目の前にいた。

「高科遼さんと三國絵里奈さんですね?」

 太い声がそう言い、目の前に定期入れのようなものが差し出される。幸いなことにこれまで実物を目にする機会はなかったので、それが本物の警察手帳かどうかは判断がつかなかった。

「聞きたいことがありますので、署までご同行願えますか?」

「何言って……」と絵里奈が声を上げかけたが、遼の視線に気づき、すぐにその後の言葉を飲み込んだ。二人はそれぞれ体格のいい警察官に背後を取られる格好で、正面玄関へと向かった。いくつかの好奇に満ちた視線が二人に向けられる。使命感のやり場を失った背広の二人が、落ち着かない様子で成り行きを見守っている。


 ホテルを出ると、警察官の一人が「左だ」と言った。見ると、ベンツの少し先に黒い国産のセダンが停まっている。遼と絵里奈が後部座席に乗り込み、警察官がそれぞれ運転席と助手席に座った。

「で、これからどうするのよ?」とすべてのドアが閉まると、絵里奈がさっそく口を開く。

「まずは追っ手を巻くのが先決だろうな」

 遼が後ろを覗き見ながら言った。背広の二人が慌ただしくベンツに乗り込むところだった。

「これは君が仕込んだのか?」

 絵里奈はあくびをしながら、首を横に振る。

「こう見えてもわりとおせっかいなんだよ」

 ハンドルを握るセガールが得意そうに大きな声で笑い、車を発進させる。

「それにしても、まさか警官に変装するとはね」と半分呆れたように絵里奈が言う。

「おかげで助かりました」

「助かったと言うのは、いささか尚早ではないのか?」と助手席の三國が指摘する。

ベンツのヘッドライトは、遼たちのセダンを照らしていた。

「遼君は、車酔いする質かい?」

「いえ、大丈夫です」

「なら、よかった」

 そう言うと、一般道に出るなりセガールはアクセルを吹かした。体がシートに押さえつけられる。そこで、遼のポケットの携帯電話が震えた。


「もしもし」と意識的に一オクターブ高い声で遼が応える。

「よう、高科ちゃん、お世話様。例のロイヤルパークホテルの動作確認の件なんだけど、技術部のやつらが通常設定に戻していいかって。もう終わった?」

「おかげさまで無事に終了しました。特に問題なしです」

「そう。じゃあ戻すよ。今回のは追加費用なしでいいんだよね?」

「もちろんです。弊社事由の動作確認なので」

「はいよ、じゃあ一応週明けに報告書出しといてくれる?」

「了解です」

 電話を切ると、遼は張りつめていた気が緩んでいくのを感じた。


 エレベーターの制御装置メーカーに勤める遼は、予め取引先のエレベーターメーカーに「動作確認のため」として、従業員用エレベーターの動作設定を一時的に変更するように依頼していた。変更点は二つ。待機時は最上階で停止すること。そして、最上階からの稼働時は地上まで直通運転すること。あいにく稼働中だったらしく、すぐにエレベーターが来なかった時はさすがに肝を冷やしたが、何はともあれ備えあれば憂いなしだ。


 セガールが勢いよくハンドルを右に切ったのにあわせて車体が傾き、身体がドアに押しつけられる。右側の絵里奈が無抵抗に遼の肩にもたれかかった。どきっとして見ると、穏やかな表情で寝息を立てている。

「肺活量に自信を持ちたいなら、煙草は止めたほうがいい」と遼は独り言ちた。

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