5 ジュエルとの会話、ショックという程の感傷はない

 クローゼットと入り口の間にあるバスルームのドアが開き、スーツ姿の男が出てきた。反射的にそちらに右手を突きだし、リビングへと後退する。

 ソファの後ろまで来たところで、絵里奈が遼の名を呼んだ。気づけば、左手奥の寝室へ続くドアが開いており、やはりスーツ姿の男が立っていた。彼らが先ほどまでこの部屋の門番をしていた二人であることに遼は思い当たった。二人とも手ぶらで、無表情にこちらを見つめている。遼は便宜的に寝室から登場した長身の男を「トム」、風呂場から出てきた小柄な男を「ジェリー」と名付けた。

 一瞬の膠着があった。耳元で絵里奈が「どうする?」と囁く。


「問題は二つ」と新たな声がする。痰が絡んだその声は部屋の中央から発せられた。ソファの上のジュエルの頭がかすかに動く。遼は驚き、慌てて銃をそちらへ向けた。銃口はその後頭部を確実に捉えていた。

「第一に、その銃が本物かどうかということ」

 ジュエルは振り向くこともせず、ワイングラスに手を伸ばす。遼と絵里奈が同時に「あっ」と短い声をあげたが、ジュエルは平然とグラスに口を付け、一気に飲み干した。トムが音もなく移動し、グラスにワインを注ぐ。

「第二に、その銃が本物だとして、君が引き金を引けるかどうかだ」

 ジュエルがジェリーの方を見やる。

「通訳は必要か?」

 どうやらジェリーは護衛のほかに、通訳も兼ねているようだった。


 再び沈黙が訪れた。遼はジュエルの白髪頭を見つめながら、次の変化に身を構えた。ジェリーが、数歩歩み寄る。絵里奈が腰から自分の銃を取り出し、遼の肩越しにジェリーに照準を定める。ジェリーが、勘弁してくれ、というように両の手のひらをこちらに向ける。

「まぁまぁ、そう事を急がずに、話をしようじゃないか」

 そう言いながら立ち上がったジュエルの口元で、金歯が鈍い光を放った。遼は絵里奈に目配せをし、銃を腰にしまった。数歩下がり、椅子に座る。絵里奈もデスクに腰を下ろした。


「日本は世界一安全な国だと思っていたが、拳銃を持ったこんな若い強盗が押し入ってくるとはな」とジュエル氏はなぜかしら嬉しそうにそう独り語ちると、テーブルからピザの皿を取り上げ、空いたスペースに腰を下ろした。そのまま皿を抱え込み、手づかみでピザを口に入れる。

「日本のピザはうまいな」

「何か入ってないか、心配じゃないのか?」

「何か入れたのか?」

 そう言ったジュエル氏が突然むせだし、目に涙を浮かべた。「確かに、ホットペッパーが入りすぎだ」

 ワインを飲む。遼と絵里奈の視線が自然と集中する。

「なるほど」とジュエル氏が呟いた。「仕込んだのはワイングラスか」

「どうして効かなかったの?」と絵里奈が独り言のように言った。

「用心深い性格でね。食器類はすべて洗わせて、ワインと食べ物は毒味させた。せっかくだから本場の寿司も食べたいところだったが、寿司は全部食べないと毒味にならないからね。諦めざるを得なかった。残念だ」

「なぜ俺たちが来るとわかった?」

「言っただろう? 用心深い質でね。部屋の中は一通り調べた。もちろんセーフティーボックスもだ」

 それが合図のように、ジェリーがしゃがみ込むと、金庫を引っ張りだした。いとも簡単に二つに分解される。

「手の込んだことをするもんだ」と感心したようにジュエル氏が言う。


 不意に絵里奈が声をあげて笑い出す。

「金持ちだけが取り柄の老人かと思ってたわ」

 笑い声に混じってくしゃみを二回した。「何だか、すごく寒いわ。暖房を入れてくれるかしら?」

 ジュエルが少し考えた後に、ジェリーに顎で指示を出す。ジェリーが壁にあるエアコンのスイッチを操作した。

「強めでお願い」

 絵里奈がすかさず言う。ジェリーはちょっとむっとした表情をしたが、黙ってつまみを右に回した。遼が絵里奈を微かに見やった。絵里奈は目だけで頷き返した。


「君たちもそんなマスクなんか外して、ごちそうを食べたらどうだ?」

「私たちはごちそうを食べるためにここに来たんじゃないの」と絵里奈が先刻の遼の言葉を借用する。

「知ってるさ。目当てはこれだろう?」

 その声にあわせてトムがジュラルミンケースを顔の横に掲げる。三人のやりとりには演劇のような綿密さがある。絵里奈が、ふんと鼻を鳴らす。

「話が早い。その通り、それを返してもらいに来た」

「返す?」とジュエル氏が首を捻る。

 なるほど、と遼は思った。絵里奈は「ジュエル」がもともと父親のものであることを知っている。一方で、ジュエル氏は絵里奈の正体に気づいていない。

「それはもともと私たちの物だった。それをあんたが奪った」


 ジュエルが何かで弾かれたような表情をした。ショックという程の感傷はない。古い友人の名前を久しぶりに思い出した、そんな感じだ。

「そうか、あの時の。エレノア。マルティナの妹」

 絵里奈は少し驚いたようだった。もしかすると、ジュエルが自分の名前を覚えているとは思わなかったのかもしれない。

「古い名前ね。今は絵里奈よ」

「エリナ、エリーナ……エリーナ・リグビー。彼らはどこから来て、どこへ戻っていくのだろう」とジュエルが呪文のように呟く。「確かにマルティナには悪いことをしたが、この宝石は奪った訳じゃない。マルティナが売り、私が買った。正真正銘のビジネスだ」


「いくらで買った?」

 絵里奈の声はわずかに怒気を含んでいた。

「いくらで買ったかは問題じゃない。私が提示した金額に彼女が同意し、これを売った」

「姉は宝石の価値を知らされていなかった」

「知っていたら何か変わっていたか?」

 それまで冷静さを保っていたジュエルの声に、初めて感情らしいものが含まれた。

「お前たちは親に死なれ、金に困っていた。必要だったのは金で、石のかけらじゃない。たとえ三千万ドルの価値があったって、あの宝石じゃお前たちは生きていけない」

 窓の外を鋭く指さす。少し間が空き、再び感情のこもらない声でジュエルが言った。

「お前たちに必要だったのは、三千万ドルの宝石じゃなくて……三万ドルの現金だったはずだ。……私はそれを与えた」

 ジュエルは目頭を押さえ、頭を振った。


「一つ質問させてくれ」と絵里奈が言う。こちらを向いたジュエルの視点は我々にはあっていない。

「一人三万ドルか? 二人で三万ドルか?」

 ジュエルは、なぜ今更そんなことを、という表情を浮かべたが、すぐに「私は三万ドルでこの石を買った。それだけだ」と答えた。


 その時、ドン、という重厚な音が部屋中に響いた。トムがずっと大事に握りしめていたジュラルミンケースを床に落としたのだ。トムの姿が見えない位置にいるジェリーは、何事かと身構えている。ジュエルがようやく音のした方向に目を向けた。


 トムは床に両膝を付き、ジュラルミンケースに覆い被さるように倒れた。

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