4 妙な違和感、いざという時

 一時間後。廊下に人の気配がないことを確認すると、遼はマスクに手袋という恰好でジュエルの部屋のベルを鳴らした。すぐに部屋に取って返し、身を隠しながら様子を伺う。何の変化も起こらない。念のため、今度は強めに扉をノックした。インターフォンのモニターに顔が写らないように注意し、耳を澄ます。やはり反応はない。

 ハンドルを下ろし体重をかけると、オートロックの扉は音もなく開いた。遼の手招きを受け、絵里奈が後に続く。


 奥の部屋に明かりが点いていた。遼は足音をたてないように注意しながら、室内全体が見える場所まで進む。テーブルの上には食べかけのルームサービスが並べられている。サラダ、サーモンのマリネ、ピザ、ペンネにマルティニ・ガンスル、グラスに注がれたワイン。

 そしてソファには、バスローブに身を包み、腕組みをしながら首をうなだれるジュエルの姿がある。寝ているというよりは、何かを真剣に思案しているみたいだった。先ほどロビーで見かけたよりも小柄で華奢な印象だった。

 その時、遼は妙な違和感を受けた。この光景は何かがおかしい。だが、何がおかしいのかがわからない。


「見て、ガチョウがあるわ。えっと……」

「マルティニ・ガンスル」

「そう、それ。ガチョウには睡眠薬は入ってないのよね?」

「君が入れてなければ入ってないと思うけど、俺たちはガチョウを食べるために睡眠薬を入れたわけじゃない。さっさと仕事にかかろう」


 そう言うと、遼は入り口に引き返し、クローゼットを開けた。最下段に金庫が鎮座している。一見何の変哲もないその金庫は、数日前に遼が本物と交換したダミーの金庫だった。外見、材質、重量は通常の金庫と変わらないが、外側と内側で二重構造になっており、背面から金庫内部のみを抜き取ることができるようになっている。郵便配達人が、ポストの背面を開けて郵便物の入った袋のみを回収するのと同じ要領だ。


 床に座りこみ、自分の体重をかけて金庫の向きを変える。裏側が見えるようになったところで、留め具を外し、プラスチック製の容器を取り出す。まさか、表扉に暗証番号を設定したところで、裏には鍵のかかっていないもう一つの出口があるとはジュエルも想像だにしないだろう。

 もっとも、ジュエルが「かけら」を金庫に入れる保証はなかった。だが、反対に言えば、金庫に入れていないのであれば、盗み出す余地は十分にあった。金庫に入れた場合に備えて細工をしたのであって、ここに入っていれば儲けもの、なければ他を探すまでだ。


 そこでやっと絵里奈がやってきた。見れば口を忙しく動かしている。おそらくはガチョウだ。

「ゴム手袋で食べるガチョウがうまいとは思えないけどね」

「だって、あんなに残ってるのよ。誰かが食べなきゃ」

「心配しなくても、彼が起きたら食べるよ。『おっといけない、いつの間にか寝てしまったようだ』なんて言ってね。宝物がないことに気づくのはそれから……」


 その時、不意に先ほど感じた違和感の正体に遼は思い当たる。と同時に、体から血の気が引く。慌てて金庫から手を離して立ち上がると、絵里奈を壁際に押しやった。

「痛っ、ちょっと、何するのよ?」

 絵里奈はまだ何か言おうとしたようだったが、遼の手に握られている黒い物体を見ると押し黙った。

「それって、いざっていう時のために念のために持ってきたんじゃなかったかしら?」

「今がまさに、そのいざっていう時なんだよ」

 絵里奈は黙ったまま必死に状況を推し量ろうとしているようだった。背中越しに、彼女の視線が部屋の中をさまよっているのを感じる。


「いいかい」と遼は早口で状況を説明する。と、同時に次の手を考えている。「君が言ったとおりだよ。食べ物があんなに余ってる。どう見ても一人分じゃない。ジュエルが大食いの世界チャンピオンなら話は別だが、そんなふうにも見えないしね」

「っていうことは……」

「あぁ、この部屋には他にも人間がいる」


 その時、バスルームの扉が開いた。

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