3 誰も傷つかない犯罪、春の日溜まりみたいな笑み
遼は一つ大きく呼吸をすると、喫煙所を出た。ワゴンを押した女性は廊下を進み、ある客室の前で止まった。遼はそれがジュエルの部屋であることを確認し、廊下に飛び出す。
「すみません!」
小走りに駆け寄りながら、呼び掛ける。女性従業員はまさにジュエル氏の部屋の扉をノックしようとしているところだった。不思議そうに遼を見つめる彼女の近くまで行き、小声で話しかけた。
「あそこのトイレなんですけど、扉が全部閉まってるんですよ。ノックしても何の反応もなくて」
「トイレですか?」
「はい。ちょっと一緒に来て、見てもらえますか?」
想定外の申告に女性は戸惑った表情を浮かべた。トイレのある方向とワゴンの上の料理を見比べている。
「中で誰か倒れてたら大変だから」
さりげなく言った遼の言葉に彼女の顔色が変わった。ワゴンを放り出して遼と一緒に来ようとする。
「あっ、料理ほったらかしで大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です!」
いや、大丈夫じゃないだろう、と心の中で突っ込みを入れる。
「いや、そこまで持って行ったほうがいいですよ」
彼女はよほど慌てているらしく、遼の助言を素直に聞き入れると、ほとんど全速力でトイレに向かって走り出した。ワインのボトルが倒れないか、心配になる。
トイレの前まで来ると、彼女はワゴンを脇に置き、何の躊躇もなく女性用のトイレに入ろうとする。
「あ、違います。こっちです」
遼が男性用を指差すと、彼女は躊躇いと恥じらいの入り混じった表情を見せた。
「男性用ですか?」
彼女を巻き込むのはいささか忍びなかったが、だからと言ってここで止めるわけにもいかない。遼は彼女を半ば無理矢理トイレの中に押し込んだ。
「本当だ。全部閉まってますね」と彼女が言う。
「でしょ?」
遼はわざとらしくドアを叩きながら、「誰かいますか?」と声をかけた。応答はない。あるはずがない。
「どうしよう……そうだ、警察」
女性従業員が突然極端な結論をはじき出したので、遼は焦った。ここで警察を呼ばれてしまっては元も子もない。
「ちょ、ちょっと待って」
「あ、そうか、そうですよね。こういう時は救急車ですよね」
「い、いや、そうじゃなくて。そうだ、僕が一度上から覗いてみますよ」
あたかも今機転を利かせたように言うと、遼は個室のドア上部に手をかけ、懸垂の要領で中を覗く。
「あれ、誰もいない」
いるわけがない。わかっているが、それをきっちり三回繰り返す。
「全部空です。いたずらみたいですね」
彼女はほっとした表情を浮かべる。心優しい彼女は、中で倒れている人の心配をしていたのだろう。それからすぐに申しわけなさそうな表情を遼に向けた。
「あとで開けておきますので、お急ぎでしたら下の階をご利用いただけますか?」
「急ぎ?」
ややあって彼女の意味することを理解した。「あぁ、大丈夫。さっきもう行ってきたので」
彼女は手を洗ってからトイレを出ると、「失礼します」と頭を下げ、再びワゴンを押し始めた。遼は彼女の少し後を歩きながら、ガムを口に放り込む。ジュエルの部屋の前に到着した彼女は、指を差しながらワゴンの上の料理と飲み物がすべて揃っているかを確認している。その様子を見るにつけ、遼はますます申し訳ない気持ちになった。料理も飲み物も間違いなくすべてある。だが、それは厨房を出たときのそれとは異なっている。
事が明るみに出た時、彼女は尋問を受けるだろう。果たして彼女は、自分を男性用トイレに誘った男のことを話すだろうか。
「なに、名残惜しそうに女のケツ眺めてるのよ」
言葉と同時に右手のドアが開け放たれ、風船ガムを膨らませた絵里奈が姿を現す。角度的にジュエルの部屋からは死角になっている。
「そんなんじゃない。ただ、申し訳ないと思って」
「冗談でしょ? 誰も傷つかない犯罪なんてないのよ」
そのやり取りに、ルームサービスの彼女がこちらに顔を向ける。遼が笑みを向けると、彼女も笑顔を返した。春の日溜まりみたいな笑みだった。咳払いを一つして、ジュエルの部屋のドアベルを押す。その様子を横目に遼は部屋に入り、絵里奈の横に並んだ。
彼女の風船が膨らむのを眺めていると、まもなくドアの開く音がした。風船がパチンと割れる。
「ジュエルか?」
絵里奈は廊下を覗き、首を振る。
「見えない」
すぐに食器同士がぶつかる甲高い音がする。ワゴンが再び動き出したのだ。絵里奈がゆっくりと廊下に身を滑らせ、遼は後に続く。パントマイムのスローモーションみたいな歩き方でジュエルの部屋に近づき、今まさに閉じようとしている扉に手を伸ばした。扉はあと二センチを残して、絵里奈の手に支えられる。
二人とも動きを止め、中の物音に耳をそばだてる。低い男の声が聞こえた。料理を置く場所を指示している。その声を確認してから、遼は口から噛みかけのガムをつまみ出し、子扉の側面に開いた四角い穴に埋め込む。穴の奥行きの半分ほどしか塞がらなかったため、絵里奈に目で合図を送る。絵里奈はちょうど割れた風船を口の中でまとめると、それを穴に埋め込んだ。その作業が終わったところで、ドアを支えていた手をゆっくりと離す。遼たちは目で頷きあうと自分たちの部屋に戻った。
さすがスイートだけあって、この部屋にはドアスコープではなくモニター付きのインターフォンがある。しばらくその画面を眺めていると、先ほどのルームサービスの彼女が視界を右から左に横切った。
「彼女が帰った」
「あとはお湯を注いで、待つこと三分ね」
そう言いながら、絵里奈は煙草に火を点ける。
「実際は一時間ってとこだろうな」
腕時計に目をやると、十九時になろうとしていた。ベッドの上に仰向けになり、遼はこれからのことを考える。
一時間後にはあの扉の向こう側に進入する。そこにはテーブルに口づけをするジュエルがいるだろう。あるいは、多少の猶予があれば彼はベッドの上にいるかもしれない。いずれにしろ、彼に意識はないはずだ。
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